菖蒲の花(東京都文京区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
自己嫌悪や逆境を抜け出すためには、自分を好きになることが不可欠です。
以上。
…というのは意地悪が過ぎるので、かみ砕いてお話ししますね。
人間、至らない部分を見るようにできているものです。
これは防衛本能によるもので、
毒々しいほどに綺麗なリンゴがあったとすると、
「一見素敵そうに見えても、実は毒が入っているかもしれない」と、うたぐりの目を向けたくもなるものですよね。
そしてまた、8割方安心できそうでも、あとの2割が安全かハッキリするまでは、
なかなか手を付けようとはしないものです。
あるいは、自分に落ち度があって命を危うくするようなことがあれば、
至らなさを改良していこうと自分を磨こうともするものです。
このように、「至らない部分に目が向く」とか「潔癖症や完璧主義に陥る」というのは、
ある意味とても人間らしい考え方だと言うこともできますよね。
しかし、「至らないこと」があると、同時に心の闇が出てきます。
自分が至らないということで、「なんてダメな人間なんだ」と自分を攻撃してしまう。
そして、自分を攻撃しただけ、改良に回す力や意識がなくなってしまうのです。
どんな人間も、完璧ではありません。
完璧を求めてやまない以上、過去を見ても落ち込むだけです。
その落ち込みが、自分を磨く意志を削いでしまうのです。
自分を磨けないとなれば、改良もおざなりになりますから、
余計に落ち度も増える。
それがまた、落ち込み要素を増やしてしまう。
悪循環なのです。
その悪循環を断ち切るために、私は「自分を作る」という考え方をお勧めしたいのです。
「過去に私はあんなこともしました、こんなことを言われました、だから私はダメな人間なんです」と言う人がいます。
しかし、問われるのは過去だけではありません。
現在の姿勢だって、もれなく見られるのです。
自分がいる場を少しでもよきものにする姿勢が1つでもあれば、
どんな人でも○印なのです。
ちょっと声のトーンを上げるとか、笑顔が作れたら、
それだけで立派に場を良くする努力をしたことになる。
つまり、元がどんな人間であろうと、自分の態度を改善する努力さえすれば、
その後に必ず「自分も捨てたものではない」という自分が作られていくのです。
そして、この努力が、人間の価値を大きく左右するのです。
自分の持っているもの、能力、実績、
こんなものが物足りないからと言って、それを気に病んでいて、
結局生み出せるものはあるのでしょうか!?
もしくは、素晴らしいものを持っていなれば、
一生懸命さを捨てたり、しかもそんなふざけた態度でいても、
人は認めてくれるのでしょうか!?
一生懸命な人は、どこへ行っても好かれます。
自分の過去というのは大きく見えるものですが、
他人からは小さくしか見えません。
過去にばかりこだわると、
一生懸命さが色褪せます。
過去は学ぶためのもの、自分を落ち込ませるためにあるものではないのです。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
自己嫌悪や逆境を抜け出すためには、自分を好きになることが不可欠です。
以上。
…というのは意地悪が過ぎるので、かみ砕いてお話ししますね。
人間、至らない部分を見るようにできているものです。
これは防衛本能によるもので、
毒々しいほどに綺麗なリンゴがあったとすると、
「一見素敵そうに見えても、実は毒が入っているかもしれない」と、うたぐりの目を向けたくもなるものですよね。
そしてまた、8割方安心できそうでも、あとの2割が安全かハッキリするまでは、
なかなか手を付けようとはしないものです。
あるいは、自分に落ち度があって命を危うくするようなことがあれば、
至らなさを改良していこうと自分を磨こうともするものです。
このように、「至らない部分に目が向く」とか「潔癖症や完璧主義に陥る」というのは、
ある意味とても人間らしい考え方だと言うこともできますよね。
しかし、「至らないこと」があると、同時に心の闇が出てきます。
自分が至らないということで、「なんてダメな人間なんだ」と自分を攻撃してしまう。
そして、自分を攻撃しただけ、改良に回す力や意識がなくなってしまうのです。
どんな人間も、完璧ではありません。
完璧を求めてやまない以上、過去を見ても落ち込むだけです。
その落ち込みが、自分を磨く意志を削いでしまうのです。
自分を磨けないとなれば、改良もおざなりになりますから、
余計に落ち度も増える。
それがまた、落ち込み要素を増やしてしまう。
悪循環なのです。
その悪循環を断ち切るために、私は「自分を作る」という考え方をお勧めしたいのです。
「過去に私はあんなこともしました、こんなことを言われました、だから私はダメな人間なんです」と言う人がいます。
しかし、問われるのは過去だけではありません。
現在の姿勢だって、もれなく見られるのです。
自分がいる場を少しでもよきものにする姿勢が1つでもあれば、
どんな人でも○印なのです。
ちょっと声のトーンを上げるとか、笑顔が作れたら、
それだけで立派に場を良くする努力をしたことになる。
つまり、元がどんな人間であろうと、自分の態度を改善する努力さえすれば、
その後に必ず「自分も捨てたものではない」という自分が作られていくのです。
そして、この努力が、人間の価値を大きく左右するのです。
自分の持っているもの、能力、実績、
こんなものが物足りないからと言って、それを気に病んでいて、
結局生み出せるものはあるのでしょうか!?
もしくは、素晴らしいものを持っていなれば、
一生懸命さを捨てたり、しかもそんなふざけた態度でいても、
人は認めてくれるのでしょうか!?
一生懸命な人は、どこへ行っても好かれます。
自分の過去というのは大きく見えるものですが、
他人からは小さくしか見えません。
過去にばかりこだわると、
一生懸命さが色褪せます。
過去は学ぶためのもの、自分を落ち込ませるためにあるものではないのです。
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