それは小春日和ののんびりした昼下がりだった。田口はこの後、定時で帰宅しようと考えていた。バレンタインも近いので、デパートでも覗いてみようかなぁなどと思う。
「田口先生、病院長からお電話です」
「はい?」
いやーな予感がした。
「はい。田口です。えっ、今から院長室へですか? はぁ」
田口のいやーな予感がますますレベルアップする。メールでなく直接電話で呼び出される時は、毎回、ろくなことが無い。
「病院長に呼ばれたので、行ってきます。ああ、また、無理難題が来るんだろうなあ」
ため息交じりに田口は呟くと、重い腰を上げて、不定愁訴外来を後にした。
コンコン。重厚なドアをノックすると、どうぞという声がしたので、そっとドアを開ける。中にはにこやかな笑顔の高階病院長とどこかで見たことのあるような壮年の男性がいた。思わず、回れ右をして逃げ出したい。田口の危険信号が頭の中で鳴り響く。
「病院長。申し訳ありませんが、私は今度の学会での発表準備で猫の手も借りたい状況なので…」
速水に知恵を貰った先手必勝である。しかし、
「ああ。田口先生。こちらは桜宮市長の山中さんです」
「はい?」
市長? 市長って、市の行政トップの市長だよな。だから、見たことあったのか…。
「実は…」
来たー! 病院長の必殺、『実は…』攻撃。田口は身構える。今度はどんな無理難題だと。
「田口先生、今、クルーズ船で新型コロナウイルスに罹っている人が増えているのはご存じですか?」
先に口を開いたのは、市長の方だった。
「ええ。連日、報道されてされていますので…」
「留め置かれているクルーズ船から、私宛にメールが届きまして、船内の環境が色々大変な状況になっているようで、助けて欲しいと」
「はあ」
巨大なクルーズ船には4000人あまりの人が乗っている。しかも、連日のように患者が出ている。乗っている人たちは60才以上が多いらしいのも、田口は聞いていた。
「桜宮市を医療最先端の市として誇る私としては、クルーズ船の乗客に我が市の市民がいることに、とても驚き、助けたいと思うのですが…。
いかんせん、私は医学に疎く、どうアプローチするとうまくいくのか分からず、こうして、高階院長を訪ねた次第です」
話は分かった。が、それとどう自分が関係するのか。田口は首を捻る。
「私は感染症の専門家ではありません」
「ええ。わかっています。田口先生には乗客の心のケアをしていただければと思いまして…」
「…はぁ。でも、医薬品が無いって、民放では報道されていたので、私が行って心のケアぐらいでいいんですか? 医薬品が無いと…」
田口は行きたくないので、反論する。
「その点は、厚労省の白鳥さんに頑張って貰いますので、取りあえず、うちから薬は出しましょう」
太っ腹な病院長である。
「でも、処方箋はファックスで送るとして、どうやって薬を届けるのですか?」
もっともな疑問だ。母親から連絡が来て、薬を持ってきたのに受け取って貰えないと嘆いていた女性の姿が、報道されていたのは昨日のことだ。
「そこはクルーズ船にあるヘリポートに直接、うちからドクターヘリで送ることにする」
言い切ったのは、山中市長。太っ腹というか、大胆というか。彼が市長になってから、東城大学医学部付属病院にもかなりの補助が回されていると聞く。桜宮市は全国でも救急患者のたらい回しが無いことで有名な市だ。重症患者の救命率も、院外心肺停止患者の救命率も全国トップを独走している。
「それ…、速水はOKしたんですか?」
あのわがまま将軍がそんなものにドクターヘリを使うのに納得するとは思えない。
「細菌学の畑中先生がコロナウイルスを研究しているので、確定検査もうちはできるんですよ。しかも、うちには感染症隔離病棟があります。重症患者はヘリで搬送も可能です」
医学部にはいろいろな専門分野があり、診療部門とは別に基礎医学という地味だが、根底を支えている専門家がいる。
「隣には獣医学部がありますから、あちらとの連携もできます」
要するに、官民一体で市民を助けるということらしい。それはありがたいが、自分が巻き込まれるのは嫌だと思う。
「田口先生、是非、行ってくれますね」
市長にがっちり手を掴まれてしまい、田口の目が泳ぐ。拒否したい。
「市長、大丈夫です。田口先生は我が大学のエースです。必ず、目的を達成してくれるでしょう」
病院長の笑顔が怖い。断ったら、分かってますねの無言の圧力が…田口にのし掛かる。
「分かりました。行かせていただきます。その代わり、速水のこと、お願いします」
あのわがまま将軍が、田口不在におとなしく従うか、今までのパターンを思い出して田口は、こっそり舌を出す。しかし、
「速水君の暴れっぷりは、前回のごたごたで私もよーく肝に銘じました。なので、今回はお二人で行ってきてください」
「は?」
速水も派遣?
「オレンジは大丈夫なんですか。まあ、あいつ一人いなくても回るとは思いますが…」
「今はテレビ電話なんて物もありますし、こっちは何とかなります。ということで、明日には出発してくださいね。ええっと、着替えなどは全部用意しておきましたので…」
知能犯だと、田口は確信する。逃げ場が無い。諦めの長ーいため息を吐いて、田口は病院長室を退出した。
※田口先生、今話題のダイヤモンド・プリンセスに行きます。私はこの船が長崎で建造中だったときに、出張で行き、直ぐ近くで見る機会がありました。大きいです。でもって、高さがビルの10階ぐらいあったような。本来なら、乗っている方たちはとっても楽しみにされていたのでしょう。少しでも、早く事態が解決しますように。
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