拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  禅・劇

2022年05月05日 | 観自在

  取らぬ狸の皮算用…ではないが、私が初めてヨーロッパに来た約39年前の話で

  フランス経由でスイスに3週間ほど滞在した時に、日本で一世を風靡していた『漫画[ドラゴンボール]をフランス語訳で出版したら受けるに違いない』…

  というアイディアに私は囚われ、ビジネスとして真剣にその可能性を自分なりに検討した思い出がある。

  あのアイディアを実行していたら私は今頃、億万長者になっていたことであろう・・・。

 

  それに似た感覚に数年前から私は囚われていて、今度のそれは『禅・劇』という未だまだ誰も実現した人のいない分野のことである。

 

  『禅・Zen』という言葉自体はヨーロッパでは『瞑想・静寂・落ち着いた態度』…という意味合いで普通に用いられているが、

  Zenが『悟りとしての禅』・・・というレベルで話される場面はほとんど皆無で、ある一部のマニアックな人間によって修行されている宗教…

  という捉え方以上には進展していないのが現状である。

  その点日本では、たとえ『禅』そのものに無縁であっても様々な『道の文化』に接する中で、師匠から弟子に伝えられる『以心伝心』の心は

  程度の差はあれ『悟りへの入門』となり、本格的にそれに向かって修行をする『道』も開けている。

  しかし、ヨーロッパにはなかなかそういった『門』に通じる『道』というのは無いのが現状であるが、幸いヨーロッパでは古代より

  演劇が大好きな文化があるので、そこに『禅Zen・劇』・・・の旋風を起こすことで『禅』のなんたるかを『熏習』することが出来るであろう。

 

  残念ながら私自身がそれを演じる能力、演出する能力・・・つまり演劇に関する能力の一切が無いので、ただアイディアをここで述べるだけであるが

  まさに寸劇である『禅・劇』は唐や宋時代の中国の禅僧の所業を書いた禅の公案が語録集となって沢山あるわけであるから、その人の嗜好に沿った

  公案(禅問答)に出逢えば『悟り』の何たるかの手がかりになろう…というものである。

 

  今から考えると禅寺での修行も坐禅や作務ばかりでなく、老師の提唱は漢文で書かれた和綴じの禅語録(禅問答集)の読み下しと解説がなされ

  殆どの修行者はチンプンカンプンであっても構うことなく週を重ねて受ける提唱という時間は、昔の禅僧の『禅・劇』を沢山みることで場数を 

  踏み、自己の固まった自我に風穴を開ける縁(よすが)として、熏習させる目的があったのだ。

 

  私の好きな『禅・劇』の一つに、『徳山禅師の三十棒』というのがあり、『言いうるも三十棒、言い得ざるも三十棒!』と、どんな奴が来ても

  棒でぶっ叩く・・・という中国は唐代の名僧の話。(鈴木大拙著:禅による生活(Living by Zen)より抜粋)

 

  : ある時、衆に示して、『お前たちが問えばすなわち誤りである、問わなければまた間違っているのだ』といった。

    一僧が進み出て、礼拝をしようとした。するとすかさず徳山は手中の棒で痛打した。その僧は抗議して『あなたに礼拝をしようとしたのに

    なぜ私は棒を受けるのです』と言った。

    徳山いわく、『お前が口の開くのを待っていたら、この一棒は、くその役にもたたんわい』・・・

 

       

        藤の花は『不二の花』と高度に駄洒落(だじゃれ)るので大変好きな花だ、の図・・ジュネーブの植物園にて

  



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