拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 水の音

2021年05月04日 | 観自在

  2日前の日曜日、ローザンヌから電車で2時間のチューリッヒまで行って、私が普段考えているテーマ『考えるな、漢字ろ!』で

  話をする機会を与えて頂き、こちらに住んで20年以上の日本人数人(直前に2人、Zoom で4人)に聞いて頂いた。

  去年、ジュネーブで同じ趣旨の話をしたので2度目ということになるが、それ以外の普段はほとんど自分自身としか話をしていないので

  最初はいつも、『声が出るであろうか?』…というようなあたりから心配し、緊張するが、特に話の出だしをどんなところから

  話始めるのが良いのか?・・・ということが前日あたりに迫って、焦った時に出てきたのが何故か例の芭蕉の俳句であった。

  『 古池や 蛙飛び込む 水の音 』・・・

  この17音の言葉で表された情景…って、とても容易にイメージできるが、これのどこが日本文化を代表する要因というものがあるのか??

  というようなことを考えた時、この俳句は非常に面白い・・・と思ったのだ。

  一応、テーマみたいなものが『東洋思想の真髄』というようなことで、禅者であるつもりの自分が話すのだからつまるところ『禅』みたいな

  ところに着地することは間違いないのである。

  そうすると、古池=東洋思想=禅(深まった結果)…であり、飛び込んだ蛙=私てなことで、『心身一如と冷暖自知』の要点を抑え

  最後の水の音=が入門となって導かれる『観音の世界』つまり『悟り』とか『空』・・・みたいな処に日本文化の根源あるあるのではないだろうか…。

  その時、まぁ、水の音が導く静寂の世界、それは水音が消えるという風に捉えるのではなく、水音が観音によって覆い尽される世界にも我々は生きている。

  というような事を言いたいわけで、その『観音』を私はこのさい『慈音』と勝手に名付けてしまった。もともと観世音菩薩は慈悲の菩薩と言われているのだから

  そんなに間違ってはいないであろう。にしても…水音からいきなり『観音』だ『慈音』だと勝手なことをいっても分けが分からない、だろうけど・・・。

  そんな流れで、あれこれ考えていたら、 インドは『0』を発明し、中国は『☯』を発明、日本は『道』を発明した…という点に到り、自分なりに納得したのだった。

           



最新の画像もっと見る

コメントを投稿