拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 竹影階を掃らいて塵動ぜす

2016年02月28日 | 観自在
 昨日の自分の拙文を読んで、『掃除』にイヤにこだわっていることに気付き、その理由を考える。
 調べてみると、カテゴリー『観自在考』2013年8月19日にすでに『掃人』というタイトルでブログを書いていた。

 確かに以前から『掃く』ことに何故かこだわっているのだが、よくよく考えると、禅を始めるあたりからこの
 『掃く=清淨』と因縁があったことに思い至り、幾つかの点と点が一つの線で結ばれていることがわかる。

 円覚寺へ修行に行く動機の一つに、当時鍼灸学校の先生のお一人が円覚寺で修行をした人であり老師とも友人で漢方医として主治医をしていた
 先生に授業の後、禅の話を聞きに行った時、先生の第一声が『君の部屋は汚いだろう?』・・・だったことだ。
 いきなりそんなことを言われて、戸惑ったが、あまりにも変な質問だったのでよく覚えている。
 当時のボクは『清淨』ということが何かわからないのであるから、多分あやふやな答えをしたのだと思うが、この先生がボクにくれた公案
 であったのであろうか。・・・・このことが一つ。

 もう一つは、禅を始めてから鈴木大拙著の本を何冊か読んだ中に非常に心に残った話があり、これが案外深いところまで至っていたかもしれない。
 中国の修行僧の話で、何年も修行してもラチが明かず、これだと思う見解を師に持って行っても、『それは他人の受け売りで、自分の
 見解を持って来い!』と拒絶される日々に明け暮れ、諦めて田舎に帰り墓を掃除などをする墓守になった。
 ある日、掃除をしていて、箒で掃いた小石が飛んで竹に当たり『カ~ン!』という音を聞いて悟りを開いた・・・というのだ。
 そしてこの僧は、師のいる方角に向かって、自己の甘い見解を拒絶してくれた事を、心から感謝をした。・・・・そんなような話であった。

 『竹影 階を掃らいて 塵動ぜず、 月 潭底(たんてい)を穿って 水に痕なし』

 この僧がその時の心境を書いた漢詩であったか、どうか忘れてしまったが、ボクの中ではこの話と漢詩とは完全に一つになっている。

 この僧の話は確か公案にもなっていて老師からも聞いたが、この話を聞いた時、ボクは禅の厳しさに怯(ひる)んだものだ。

 そして、寺では坐禅している時以外は作務といって、掃除にはじまり掃除に終わるわけであるから 
 禅をした者は誰でも『掃除』がトラウマのようになるのかもしれない・・・・。                                             
 

          
   
 
 



 
 

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