拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 仏道とは・・・

2016年02月27日 | 観自在
 これもやはり、『還暦』現象なのであろうか。 柄にもなく『宗教』について考察しているようなのだ。
 
 ボクなんかが『禅の修行』をやりました・・・なんていっても、正直『それ』が何だったのか?こんにちに至るまで、さっぱりわからなかった。
 円覚寺という立派な寺で老師の弟子となり、教えていただいた事はまさに『不立文字』そのこと一事であったかと、今思い至るのだ。
( *不立文字~言葉や文字によらないで体得すること)

 他の宗教のことは知らないが、禅のようなやり方で『仏教=仏道』を教える宗派、宗教はあるだろうか。
 つまり答えを『教えない』ことで『教える』やり方は何と根気がいると云うか、おおらかと云うか、人間性を信じていると云うか・・・。
 (いやしかし、確かに禅の真髄は自己の内部から湧き上がって初めて体得出来るもので、他人による『教え』には限界があることが真実)

 ボクが寺に通っている間、例えば『仏教』について講義を受けた事は一度もなかった。
 仏教の創始者『釈迦』についての話もほとんどなかったし、毎日よんでいる『般若心経』についての講義も一度もなかった。
 あったのは『無門関』『碧巌録』『臨済録』などから抜粋した、いわゆる『禅問答』についての講義。
 といっても老師の話は『禅問答』から世間話みたいな所に話が広がって肝心な禅についてはさっぱり要領を得たことがなかった。

 老師に弟子になることを許されると『公案』をもらうが、ボクは『庭前の柏樹子』という公案を頂いた。

 僧問う『いかなるか祖師西来意』    ~ (達磨さんは何故インドから来ましたか?=禅の真髄とは?)
 師いわく『庭前の柏樹子』       ~ (庭の前にある柏の樹木だよ)

 まさに『禅問答』で何のことやらわからないものを拈提(ねんてい)~(寝てもさめてもその公案をズーッと胸に暖めて問題として工夫すること)
 当時は何がなんだかさっぱりわからかったが、今思うのは禅修行のすべてが、『教え』そのものであったことだけはわかる。
 箸の上げ下げから掃除に明け暮れる作務など『教え』でないことは一つもなかった。
 
 だから、一見『教え』が何もないところに、大事な教えを見い出すのが禅の特徴といえる。

 こんな風に懇切丁寧に『教え』てくれる宗教は禅の他にないかもしれない。

            
               禅の『ぜ』の字も知らない頃、24、5才か。 芦屋芸術学院写真科助手時代

 
 
 
 


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