鈴木大拙氏の本、『禅による生活』に臨済禅師と弟子のやりとりが出ていて、私の好きな名場面の一つだ。
『赤肉団上(この体)に一人の無位の真人がいる。それはお前達の感覚の門を通って出入りする。しかしいまだ彼を明らかに
見得したことがないならば、さあ見よ、見よ。』と。
一人の僧が進み出てたずねた、『無位の真人とは何者ですか』と。
臨済は椅子からおりてきて、僧の胸ぐらをひっつかんで『言え、言え』と迫った。
僧が躊躇していると、臨済は彼を突き放して叫んだ
『この無位の真人はなんと糞掻き箆じゃわい』と言いながら、自分の部屋にもどってしまった。・・・
この場面が最近になって、私自身がやってきた坐禅修行の『坐禅』そのものであったような気がしてならない。
実際の寺での禅の修行では、臨済禅師のような唐突で乱暴な対応というのは流石にないが、それに代わるように編み出された
坐禅は、自らの意思で坐禅するとは言いながらも、理不尽な『問い』に、ありそうもない『答え』を見つけ出すべく、緩やかな『拷問』を自分に課し
自白を強要するような、摩訶不思議な修行であった。
誰も言わないから、何度でも強調していうが、坐禅は足が痛くなって、瞑想・・・などというふんわか、ゆったり…したものではない。
その証拠に、警策という棒をもった僧が、集中に欠く者に活を入れるべく、監視を怠らない。
一人前になるのを、『酸いも甘いも噛み分ける』…という表現があるが、『眠いも、痛いも奥歯で噛み分ける』体験を通して
自分こそが『無位の真人』であったと心から自白する日まで『自課拷問としての坐禅』を諦めない覚悟こそ肝心なのだ。
この頃(33歳)、なんの為に坐禅するのか『不識』ではあったが、止めるつもりは全くなかった。
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