昨日、久々にNetflixで『ゾンビ〜もの』を2シーズンも観てしまった。
私のブログ日記によると 2015年10月10日ブログ記事〜『ネットでゾンビー化計画か?』
今から8年前(2015年)、いまだ引越屋だった頃 Hulu にてシリーズ『Walking Dead』の『ゾンビ〜もの』にどっぷりハマったっけ。
ブラッド・ピット主演のゾンビ〜映画『World war Z 』(2013年公開)にも夢中になった。
その他の『ゾンビ〜もの』をいくつか観たが、どの『ゾンビ〜もの』も、初めはゾンビ〜が怖ろしいものの、
最後にはゾンビ〜よりも人間同士の対立がより怖ろしい・・・物語となっていくところが実に怖ろしい!!
理屈の通らないゾンビ〜の圧倒的な存在は、社会を完全に無秩序にし、自分と家族を守ることで精一杯になったとき人間は・・・
他者との間に疑心暗鬼が生じ、それが悲劇の悪循環を引き起こしていく・・・。
こうした『ゾンビ〜もの』を観て、私がいつも怖ろしいと実感し背筋が凍る思いをするのは、
私達の生活がこの『無秩序』とほんの紙一重のところで成り立っていることを、あらためて思い知らされるからだ。
その事はじつは、制作側も観る我々もよく解っているからこそ『ゾンビ〜もの』が次々と制作されるのだと思う。
ウクライナ戦争でも、残酷な拷問やレイプがいとも簡単に行われているではないか。
先日の、フランスの暴動でもちょっとしたキッカケがあれば、人は変貌する・・・ものなのだ。
そういった意味では、私は『平穏無事』である事のほうが『奇跡』なのだと思う今日此頃。
そして、我が家にある小さな『阿弥陀如来』像の前を通る時、『施無畏』の印相(右の手の平を外に向けている)をチラリと見ては
その教えこそが一層貴重な教えである事をあらためて思ったりした。
『怖れ』は人を愚かにする主因であるからこそ、仏は『施無畏』をまず示すのではないか。
昨日一撮したレマン風景に一句
『 ゾンビ〜は 歩く公案 西洋の 死ぬか悟るか 覚悟迫りつ 』 馬骨
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