仏教における『自由』の考察で、大切な事を書き忘れていた。
自分は仏縁が薄い…とずーっと思い込んでいたが、私の書棚にある『仏教聖典』という黒布の背表紙の本は、鍼灸学校に通っていた頃
夜、銭湯に行く路上で拾った本であった。 こんなモノを拾う人間が『仏縁が薄い…』などと、どの口が言わせるか・・・と、今では思うが
その本には簡単に釈迦の経歴が書いてあり、ある部族の王子として生まれ、19歳で結婚し29歳で第一子を授かった年に、妻子を捨てて出家した事が書かれていた。
釈迦が王子様であった事に、私は何故かずーっとこだわっていたように思う。 と言うのは
自分が貧乏であったヒガミ根性が原因なのかもしれないが、釈迦が王子ではなく、貧しい家の子であったなら仏祖になっただろうか?
という問が、貧乏であったから進学校に通っていたのに大学進学の道を端から諦めていた自分と、王子として生まれた釈迦を比較していたのだろう。
じつはそこには、『自由時間』の問題がある事を私はよく知っていたのだと思う。
貧しい家の子は、目前の些事に忙しく、もし兄弟が多ければ家事育児の手伝いで、釈迦のように『生老病死』で悩んだりするヒマなどなかったであろう。
その釈迦が29歳のときに、妻子を捨てて『出家』して、修行の道に踏み入った・・・というのが『自由是道』のミソではなかったか。
幸い悟ったから良かったものの、でなければ貧しいまま日常を忙しく過ごしている貧乏人のほうがよほど幸せであったかもしれないのだ。
『諸行無常』から『諸法無我』に至るには、『無』という長いトンネルを渡る時間が、『自由時間』がどうしても必要なのではないか。
その意味で、私は日本の禅寺の僧堂修行システムが、日本の伝統文化の基礎を支えているという意味で非常に重要であると思っている。
妻子を捨てて出家・・・釈迦のこの覚悟のお陰をもって、私などが『自由是道』などと戯言をいってられる…南無釈迦牟尼仏!
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