いよいよ私も『古希』を迎える年齢になったが、そもそもの『古希』という言葉の由来を調べる。
盛唐の時代(8世紀初頭)詩聖の一人として名高い杜甫の『曲江詩』という詩から由来し、『人生七十古来稀』…
という一節からこの『古希』が来ていて、詩文の流れから言うと、当時の杜甫の思うように生きて行けない思いの中で
『人間なんてどうせ70歳までも生きて行けないんだから…』という投げやりな思いの一文であった・・・とのこと。意外!
第一、現代において70歳なんて『稀まれ』でもなんでもなく、2500年前のお釈迦様が80歳まで生きて、死ぬ間際まで
説法をしていた事、私が尊敬するスズキ大拙居士は96歳まで『禅』を説いていた事などを思うと、『70歳』なんて
洟垂れ小僧そのものに違いない。・・・と、ここまで考えると馬骨としては、『古希』の現代風解釈が当然あるわけだ。
『古希』とは『昔、思うように出来なかった夢や希望を果たす時期を迎えること』・・・それを『古希』と名付ける。
金も人脈も才能も無い、無い無いづくしの自分が最後に残った『枯気』という意地、『呼気』という修行で養った生き方の実践への帰結。
昨日、捜し物があって相方の引き出しでたまたま見つけた、スイスに来た当初の『馬骨』肖像、
杜甫ではないが、『やりたいことがあるが、なかなかうまくできんなぁ・・・』という時期の図
只者ではない雰囲気があります。
以前の「還暦」の記事を拝読して
そうなんだなぁ、と思っていました。還暦、大事にしたいな、と思っています。
「古希」は私にとっては
もう少し先ですが、「枯気」「呼気」自分の場合はどうかな、、と
考えさせられました。
大袈裟かな〜とは思いましたが、無眼子のまま山(禅寺)を降りてきたド田舎者で、言葉もわからない異邦人という意味では、そう遠からず…の思いを持ちました。私の理想は布袋様ですが、器が小さすぎて無理かな〜と自覚しているところです。