Youtubeのホーム画面に、茂木健一郎さんの『月はそれを見てない時にも存在するのか?』・・・というタイトルの動画を発見し、拝見。
知らない学術用語を乱発されていて、ちんぷんかんぷん…。 30分の動画を途中で切り上げた。
『月はそれを見てない時にも存在するのか?』・・・この設問は、だいぶ前に『量子力学』系の動画を観ていた時になされていて、『へえ〜』と思ったものだ。
どうやら『量子力学』的には、『月は観ていないときには存在しない』・・・ことになるらしい。
しかし、この設問を真逆にしてみると『観ている時、確かに現前している月』・・・ということになるよなぁ。
私は写真家であるから、『観察の芸術』=『俳句』にいたく共感するが、そうしてみれば芭蕉の俳句はすべて『現前する喜び』を詠っている・・・のだと
あらためて感心し、東洋の文化の根底には『月は観ている者にしか現前しない』・・・という哲学を前提にして『在る』のだと思う。
そうした時、芭蕉の 『古池や 蛙飛び込む 水の音』・・・の味わいが深まるような気がしてきた。
この『写俳』的短歌は9年前の6月に詠ったもので、大変無骨なフォントが致命的選択であるが、当時の自分らしさが出ている…
今、街を歩けば、携帯に眼を釘付けにして真っ直ぐ歩いてくる『馬鹿』が増えているが、『月』は観えているか?
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