昨年以来、あるいはもっと以前からなのかもしれないが、
芭蕉の『古池や 蛙飛び込む 水の音・・・ジャポン!』 が、私にとってどっから観ても『禅』であると思うに
私が所持する『芭蕉』に関する蔵書2冊は全くそのことに触れておらず、TBSの人気バラエティ「プレバト』などによる『俳句』の大衆的普及をみても
『俳聖・松尾芭蕉』に思いを寄せる風もない様子に、その真意というものが、『芭蕉』研究する人々の間でどのような見解なのであろう・・・
との思いに、白黒つけるべく昨年末以来読み込んだ、田中善信著『芭蕉〜「かるみ」の境地へ』をようやく読了した。
この一冊を読了した後、アマゾンで田中善信氏の本を検索すると『芭蕉』に関する本だけでも10冊出版している『芭蕉』研究者として
筋金入り・・・ということが解ったが、『芭蕉』に関して初心者の私でも著者の『芭蕉』に対する情熱が伝わり、日本文化の伝統を支える大きな柱として
の『芭蕉』の実像を伝えるべく一貫した姿勢に感銘をうけた。
同時に、これまで抱いていた『芭蕉』という人物像が、より起伏を持ってせまったが、一度や二度の読書では掴みきれない、より深い人物であることがわかり、
この著書によって、『芭蕉』の生き様の大要をはじめて俯瞰することができたように思う。
そして、最も肝要な点『芭蕉と禅』の関わりのところで、『彼の人生観の変化にもっとも大きな影響を与えた人物は仏頂和尚である。』と述べ
『芭蕉』が臨済宗の僧、仏頂和尚について禅を学んだことを強調し、それ以前から親しんでいた『莊子』の根本思想を格段に深め、
『芭蕉』にとって新しい世界を開く縁(よすが)となり、その影響下でできた一句が後に最も有名な、『古池や・・・』の一句であることも確認できた。
しかし、何と言ってもこの著者が私を驚かせたのは、『「おくのほそ道」は芭蕉にとって趣味である・・・』という彼の見解だった。
もちろん、この場合の『趣味』という言葉がどのような意味合いで使われているか、ということが問題であるが
『おくのほそ道』は芭蕉にとって、『不特定多数の人に読んでもらうためではなく、自分自身のために』書かれ
『細かい事実を説明する必要がなく、自分が味わった感動を格調高くうたいあげることに全力を注いだ』・・・意味の『趣味』であったというのだ。
まぁ、私事を『芭蕉』を引き合いにするのもおこがましいが、『写真』と『禅』を10年ずつ打ち込んだものの、私の体験を今で言う『趣味』などという
言葉で片付けてもらっては困る・・・とは一方で思っても、かといって『写真家』とか『禅僧』とか言えない中途半端なレベルの私は、
せいぜい『一撮』、『馬骨』と自称することが精一杯であることを考えれば、かの『芭蕉』の『おくのほそ道』が『趣味』というのであれば
我が『写真』や『禅』の人生も『趣味』とするのも悪くない気がしてきた・・・。(根っから単純な我)
まぁ、それにしても『趣味』って言うのも、なんかナ〜・・・せめて『遊戯三昧』ぐらいにしてもらえないだろうか、田中先生!
(で著者、田中善信氏は私より一回り上の辰年であり、能登半島出身とのこと・・・『龍』が共振したのか?と、このタイミングなので思ったが・・・)
『 感動の 旅にでるべか 遊戯三昧 浮世の風に 髭なびかせて・・・』 馬骨
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