好奇心全開!!遊行期を遊ぶ

 遊行期も今から上り坂、やっと命の不思議に目覚めたような感じです。
 玄牝の門を敲きます。

一念発起のただの仇討ち

2005-02-07 13:26:39 | 歴史雑話
 非業の英雄誕生には運命的ないくつもの出会いが要請される。ナポレオンならぬ日本人好み英雄待望論は古来人びとの夢の中に育まれてきただろう。美化と超人的能力、悲恋と悲劇が構成要素である。21歳までの義経伝説は人びとの願望の結晶として紡ぎ出されていく。ついに「判官贔屓」という類型化まで形成される。
 「昼間は終日、師の前で経を読み、書を学び、夜は仏の灯明が消えるまで読書するほど、学問に打ち込んだ。このまま20歳位まで専心するならば、鞍馬の仏法を継承し、仏教界の宝にもなるべき逸材だと期待されたが、如何なる天魔の仕業か、15歳の秋頃から、ぶっつり学問を放擲してしまった。 (『義経記』)」
 16歳の一念発起が武闘至上主義だったとすれば、英雄は誕生しない。けれど、
 「昼間は学問をしたが、夜は終夜武芸の稽古に励み、僧正ヶ谷で天狗に毎夜兵法を習った。されば、早足、飛び越しなど、人間業とは思えなかった (『平家物語』)」早足、飛び越しの超人牛若丸が空想される。「十二、三ばかりの幼き者、小太刀にて斬って廻り候は、さながら蝶鳥の如く(『橋弁慶』)」変幻自在の遮那王が拍手喝采を浴びるのだ。
 大河ドラマの京の五条大橋の場面はいかにも娯楽映画で桜吹雪の中を蝶鳥のように舞い上がり、天狗のように回転し、弁慶の薙刀にひらりと飛び乗るのだ。最後は弁慶の泣き所を払われて「あいたたた」と泣く弁慶まで仕上げてしまう。まるでマツケンサンバ風サービス過剰の大騒ぎ。大衆を愚弄する政治謀略の陰りさえ見え隠れする。竜馬はデモクラシーの伝道者であったが、義経は「自民党が倒れるか、小泉が倒れるか」と嘯く人民侮蔑の道化師みたいに見えてくる。
 時代的には、武家政権の樹立というダイナミックな潮流の中で、義経はその時代を切り開くというスタンスもビジョンも持ち合わせていなかった。平家打倒の時代的政治戦略が欠如していたのだ。

 とはいえ、一念発起の武闘鍛錬は過酷を極めたものであったろう。昨年の武蔵も小次郎も結構おもしろく、リアルに描かれていた。クリエイティブなスタンスが伝わってくるのだ。義経に武術を伝授したのが鞍馬山の天狗だという設定が義経らしさだというべきだろうが、義経の忍者的な武闘訓練だとしても、もっとクリエイティブな表現方法があったのではないか・・・。20歳以前の不明な経歴故に想像力によって義経英雄像が描き出され、増殖させられていく。白土三平の『忍者武芸長』風の人間錬金術の方がもっと納得できる気がする。観察と臨機応変の発想の転換術は信長にも武蔵にもナポレオンにも通底するマキャベリ的科学力だ。義経もナポレオンも女に弱かったが(つまりは権力主義者だったが)、信長も武蔵も女には無縁だった(つまりは単独者だった)。
 結果論から推論していくと義経の武闘訓練は絶望的な劇画サバイバルゲームしか連想できない。そんなはずはない・・・怠学仁は無知だから善玉義経を空想できないけれど、暇ができたので、諸説読みあさってみて、実体を探してみようかとも思ってみる。んまり触手は動かないけれど・・・。

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