『NHKムペンバ効果に見る社会の幼児化』
水の結氷の様な単純な現象でも外気の温度だけではなく風の向きや風力、結晶の核と成る埃や不純物の有無、過冷却を止める振動なんかまで影響してきます。
ましてや秋葉原無差別殺人の原因なんかは無数の要因が複雑に絡み合っている社会現象の一つです。
ところが最近は善悪二元論に近い暴論がまかり通る困った世の中になってきてしまいました。
なんでもブッシュが悪いと言ったのでは、何でも悪いのは日教組のせいにする中山成彬見たいでかっこ悪いが『ブッシュや小泉、麻生風の二つに一つの二元論的な考え方』が蔓延ったのが一因です。
ある程度の社会経験があれば決して陥らない単純思考で、社会全体の幼児化現象でしょう。
物事は一つや二つの簡単な原因では起こらない。
単純には善悪は判断すべきではなく、色々な要素が複雑に絡み合って出来上がっている社会に対して大人としての慎重な考察が必要に成ってくる。
そこで大事に成ってくるのが、社会にとって自分にとって何が大事かと言う『価値判断の基準』です。
その時各自の世界観、道徳観、哲学が問われる事態が起こる。
これが今あやふやになってきているんでしょう。だから混乱している。
『単純な二元論、ニセ科学は悪』
この混乱がブッシュの二元論に近い『ニセ科学は悪』などと言う単純な道徳を振りかざす非科学的な『ニセ科学批判』のような新興カルト宗教が生まれる要因ともなっている。
このカルト宗教は、自分たちでは決して宗教であるとは思っておらず化学的であると信じているので、外からの一切の批判は受け付けない。
こと批判を一切受け付けないという『特徴』は正にカルトならではの特色であるが特にニセ科学批判には顕著に見受けられる。困った事です。
『ニセ科学批判を悪用した個人攻撃』
何年も前のブログ記事の中に有った『水からの伝言』を口実にした、個人に対する一部集団(たんぽぽグループ)による卑劣な個人攻撃事件が発生し、護憲左派のブログを震撼させ一年以上たった今でも、連中は暴れまわっており未だに収束していません。
『卑劣なたんぽぽ解同グループとニセ科学批判との関係』
『水からの伝言』をニセ科学で有ると批判している人が、ムペンバ効果は正しいとする立場から「NKKの氷作りの裏技」を批判した大槻義彦氏を非難する。
しかもわざわざ、>『ただし、思考実験だけで反証が出来てしまう「水伝」は、ニセ科学以前のデマであることは間違いありませんが・・・ 』
、とまで付け加える。
これでは彼等『ニセ科学批判者』自身が批判する、たんぽぽグループとの違いを探す方が難しい。
『神はさいころを振らない』
究極の極小の量子力学世界では当てはまらないらしいが、我々の住んでいる世界では一般的物理学の原理原則が確実に働きます。
実際問題としても物理的な原理が、ある時には働き、ある時には働かないでは実験も検証も不可能です。
水伝とムペンバ効果は、笑ってしまうくらいに実に『インチキの構造』がソックリです。
どちらも、片一方が氷の『形』でもう一方が『時間』との違いはあるが水の相転移の話なんですよ。
水の相転移でも個体から液体、液体から気体とかは正確に一律に起こるが、水では不思議な事に液体から個体に相転移する時に僅かに『ばらつき』が発生する事があるのです。
完全に時間(形状)が一律ではないという事です。
同じに実験しても微妙に測定結果が違う。
このは測定方法に原因がありその他の相転移より困難である事が原因している。
不純物の有無、空気中の埃の有無、振動や風、実験に使った容器の形状や表面の凹凸などの各種の条件で少しずつ微妙に違い,条件を全く同じにするのは殆んど不可能に近い難事業です。
どちらも、この『ばらつき』を利用して人をペテンにかけ、煙に巻く。
科学のお遊びとしては面白いかもしれませんが。どちらも『科学の範疇』に入りません。
しかし頑迷な科学教信者達には其の事実が解らない。
NHKは確定論なのでニセ科学で、Wikipediaの記述は確率論(何かの条件では、できる事もある)なので物理学の原理原則、定理や法則などとは本来関係がない話。)
(99,7%以上の)確定論なら間違いだが、(何かの時に、たまには成功する)確率論なら科学的に正しい間違っているの範疇には入らないので、水伝であれムペンバ効果であれ(どんな事でも大概は)成り立つ。
『新興カルト宗教としての科学教』
科学的に正しいから宗教にならないではなく、正しい科学ほど逆に宗教的に無条件で信じる人は多くなるので、宗教化する危険があるわけです。
科学の活動ではなく、科学の成果を絶対視すれば、それは宗教になります。
誰であれ科学的な検証を否定して、他からの批判を軽視(敵視)すると、科学は何時でも宗教になります。
以前のニセ科学批判の批判でも指摘したのですが、『科学』にとって一番大事なのは、正しいか間違っているかの問題ではなく、他からのあらゆる検証(他所からの批判)を認める事が出来るかどうかですね。
検証が正しく行なわれるならば、何れは正しい正誤が明らかになる。
科学とは『間違い』を原動力として進歩していくもので、科学的間違いは単なる『間違い』にすぎず『悪』では有りません。
『間違いの重要性』
『間違い』が存在するから科学は進歩し続ける。
『間違い』がなくなっった時点で『科学は完成』するであろう。しかしその時、自動的に科学の進歩も止まる。
そして全てのものが、そうで有る様に間違いを全て正した、『完成されたもの』に永遠の未来はなく、ゆっくりか劇的かの違いはあっても、どちらにしても唯衰退して滅び行くのみである。
他者からのあらゆる批判を受け入れられる『未完成の存在』だけが発展し続けられるし、存在し続ける事が出来る。
そして『科学』とは、何時までも『未完成(不完全)な存在』で、『間違いの自己修正過程である』、とも解釈できる。
みんなとの争いにならない様に、自分の主義主張をはっきりとは明らかにしないし。
『KY』。空気が読めないという言葉が有りますが、これを何より恐れている。
自分が全体から浮き上がるのを極端に恐れている様で、はっきりと自己主張しない。
其の反動でしょうか。
匿名のネット空間では必要以上に過激になる傾向がある。
チンピラ以外あんな言葉使いは今の若い人は礼儀正しく、普通は誰もしませんよ。
私は、今の若者達には実社会で今以上に怒りを明らかにして頂きたいと願っている。
タクシー運転手の態度だとか店員の接客態度に対する不満のような些細な事柄や弱者に対するものではなく、権威あるもの、権力や特権の不正や誤魔化しに対して今のように辛抱するのではなく怒りを爆発させて欲しい。
しかし若く愚かな弱者の怒りの矛先は、強者に向かうことは少なく、大概は近くにいる自分お仲間の弱者に向けられるのです。何とも歯がゆい話ですね。
「スゲー、これって何だろう? 」
って疑問に、ドキドキワクワクする為の物ですからね。
「議論」や「批判」なんてつまらない事はせず、「実験」を楽しめば良いのに、と思います
宗教には当てはまらないのでは、?とは思いますが、
科学にとっては「スゲー、これって何だろう? 」と思う心が大事です。
テレビなどでのデンジロウさんの科学を使った演技(実演)は正に「スゲー、これって何だろう? 」と子供達に思わせる。
其処から『科学好き』の子供が生まれて、将来的には科学的な考え方の人が増えてくる。
今では殆んどの事柄で。どんな不思議なことでも必ず起こる『確定論』的なモノは科学的に説明が出来ます。
だからデンジロウさんは『不思議』を実演した後で必ず科学的解説を付ける。
この反対に『不思議』を演じた後に『これは科学的に未解明です』と言ったのでは手品や奇術の類いで、決して『科学』ではなくなってしまう。
手品や魔術と『科学』とは大昔は錬金術の様に混じっていたが、今では混同する者はいないだろうと信じていたが、世の中は広い。
いたんですね。違いが分らず混同している人達が。
其れも今まで『水からの伝言』はニセ科学で有るといっていた人たち(ニセ科学批判者)の中にいたので、腰を抜かすほど驚きました。
不思議を驚く心、不思議に感動する心のような『好奇心』も大事ですが、それ以上に科学する心で一番大切なのは健全な懐疑心、何故だろう、本当だろうかなどの『疑う心』です。
不思議に感動し、疑う心をなくせば何時でも科学は宗教になると言う不思議な見本です。
不思議自体を素直に信じればオウムのようなカルトが何時でも生まれます。
『厳しめの偽科学批判』とは、
『ニセ科学は悪である』という様な考え方から、科学的間違いに対して『悪』であると非難することであるなら、
その様な者達に対しては不快感をもっています。
『科学』は人類の文化の最高峰で、現在では全てのモノに対して其の最終的な正誤を判定しています。
『何が間違いであるか』『何が正しいか』を決めるのは、今は科学なのですよ。
なんでも判定する『科学』ですが、科学でも出来ない事もある。
科学は全てのモノの『正誤』を判定するが、『善悪』までは判定しない。(出来ない)
物事の『善悪』を判断するのは科学の役目ではなく、其々の持っている道徳とか宗教とか世界観ですね。
道徳や宗教が科学に介入すべきでないように、科学が道徳や宗教に介入するのは矢張り幾等科学でも慎むべきでしょう。
何故なら科学が道徳的宗教的な判断である『善悪』を判定したとしたら科学自身が宗教化するからです。
科学と宗教は完全に分離するべきである。其れが今回の記事の主題です。
まあ、私はそんなにお金はかからないんですが、実験系の人やほかの科学の分野(化学、生物とか)の人たちは設備も大掛かりになってきてすごくお金がかかる。で、そのお金はどこから来るかといったら税金やら支援者のものなんですよね。大学の友達で外資系の企業に就職した人なんかには、「お前なんのためにそれやってんの?」とかよく尋ねられるわけです。とりあえず、基礎があるから応用があるんだなんて答えてますが、本当は私のやってることなんて500年先に役に立ってるかどうかすらわからない。知りたいから科学する、それが科学の本質だと思うし、それでいいじゃないと思うんですけど、多くの人からお金をもらってるわけだし、社会の要請から無関係でいられない。
ブログ主さんは道徳や宗教が科学に介入すべきでないと主張し、私もそれに同意しますが、社会のひとつの形態としての科学という意味で、科学は道徳的なあるいは宗教的な判断をするべきであると思います。また科学が善悪を判定したら宗教化すると言いますが、それは一部の科学「ぶってる」頭のわるい連中がそうなるだけで、もっとも無謬である確率の高い考え方をしてる、本当に科学「してる」連中は決して宗教化することはないだろうと、身近にいる人間を通じてひしひしと感じます。
科学は誰に対しても『普遍的』で,信じるとか信じないとか賛成するとか反対するとかの個人の主観には影響されない。
誰に対しても平等に作用する。ところ宗教はこの反対である。
だから、これ等を混同するのは間違いのもとである。
しかしだからと言って個人個人の科学者が、正しい道徳や世界観、哲学を持つ事の重要性は少しも減る事はない。
それどころか今以上に個人個人の正しい道徳とか哲学、世界観の必要な時代もないのではないか。?
ただし、いくら正しい道徳とか哲学、世界観は大事だからと言っても科学のような普遍性をこれ等に求めるべきではない。
みんなが信じる普遍的な道徳とか宗教ほど怖いものは有りません。
60数年前には日本にも其のような絶対的に正しい普遍的な道徳が存在していたのですよ。絶対の正義ほど恐ろしいものは有りません。
この記事はシリーズになっており、『 道徳としての『水からの伝言』 (ニセ科学批判・批判 / 2008年11月19日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/68ed80374d1b4d9439df53a60018d56a
などにもコメントを御願い致します。
当ブログでは未記入ですとUnknownと表示されます。コメントの管理上タイトルが必要で、タイトルも名前も無いもの、あっても通りすがりなどの個人の識別の出来ないも、不真面目と看做したものは原則的に削除して掲載していません。
お手数でしょうが次回からは何でも結構ですからタイトルの記入を御願いします。何卒良好なブログ環境維持の為に、ご協力のほど御願い致します
古今東西、政治的集団が神(宗教)の権威を頼ることは多いです。それらの権威の一つに、科学という権威が加わったのでしょう。
科学者や技術者は、淡々と研究し議論しているだけで、科学を神聖視する動機・理由はありません。。
もちろん、政治的集団内の「科学者」は別ですが。