愚樵さん、今回の『愚樵空論』【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その4(2011-12-18)のコメントは幾ら鈍い私でも『相手に対する敵意』との、コメントの言葉の真意が久しぶりに良くわかる。
当方の『逝きし世の面影』に送られてくる不思議な理解に苦しむ愚樵さんのコメント群の真意を、今までは測りかねていたのですよ。
最初から『反米で歪んだ間違いだ。アホか』などと自分の感情を正直に書いてくるネットウョなどの投稿コメントなら癒しがたい怒りとか敵意が文面に滲み出しているので誰にでも、『悪意ある嫌がらせ』であることが判る。
ところが愚樵さんの最近のコメントは一見昔と『同じ』風にも見えるから『善意に解釈したい』ので勘違いする。
今回のコメントは、『もう会話をしたくない』ということでしょうか。
まあ、『逝きし世の面影』への最後のコメント、
>『よく言うよなぁ (愚樵)
2011-12-17 18:45:14
は『怒り』とか『敵意』は良く判るが、白を黒と言い張る無茶苦茶の連続で、誰が見ても会話を続けたい人のとる態度では無かった。
多くの読者諸氏は意味が判らず、唖然としている筈です。
私としては1年以上前から『このままでは何時かは、破綻が来る。』と、今回の事態はある程度は予想していた。
予測の範囲ですから唖然とはしていない。
幾ら諦観していても、『とうとう、その時が来たか。』と無念におもい落胆しています。
普通なら、これで止めて置くのが常識だと思うのですが私としては、たとえ一割の可能性でも、否1%でも可能性を見つけて行動するのが私の主義なのです。
よく言うよなぁ (愚樵)>『もとより私と宗純さんとは意見が合わないことが多い。宗純さんもそれは承知のはず。にもかかわらず、TBを送ってくる。』
『意見が合わない』とは。これ、本当ですね。
当方のブログの姿勢は『お前たちは間違っている』(今までが間違っていた)とのオルタナティブな記事なので、他の一般的な普通の政治ブログの多くの主張との違いが際立っている。
他には当ブログの主張と『同じもの』が世間に少なすぎるのですよ。
当方のブックマークの筆頭は華氏451度だがこのブログは休止中で、実質的には愚樵空論。
今回の急激な展開には為すすべなく、ただおろおろするばかりです。
何しろ今まで私の考え方に一番近いのは愚樵さんだと心底思っていた。
私が勝手に思うも思わないも無く、実質的に当方の主張と類似するブログが世間一般に無いのです。
他所では、『一つも無い』と言い切っても良いでしょう。(現在のところ見つけられない)
『愚樵空論』と『逝きし世の面影』が内容的に『違っている』のは書いている当人が別々で違うのだから当然であるが、私の方では一番距離が『近い』と認識していた。
『もとより私と宗純さんは考えが合わない』と愚樵さんが本当に考えているなら、私と愚樵さんとは、『考え方』が正反対ですよ。
私と愚樵さんとの『近さ』ですが、これはある意味当たり前で長い長い付き合いがある。
何しろ年齢的には逆かも知れないが愚樵さんはブログ界の先達で先輩格。今までも色々教えて頂いたと感謝もしている。
事実『逝きし世の面影』では、愚樵空論の後追い記事をこれまでも数々書いてきているのです。
ですから今回の愚樵空論の『盗作だ』の言いがかりには目が点です。
出来次第すぐさま当該記事にTBしているのですよ。自分が今まで長年考えていた発想とか主張と同じ文章を他所で見つけたら、滅多に無いのでこれ以上に嬉しいことは無い。
飛び上がらんばかりに喜ぶ。
樵としての愚樵さんの『山林主の所有者責任』ですが、何も特殊な狭い視野の考えではなくて、その正反対の誰にでも良く分かる普遍的な正しい『主張』なのです。
普遍的で、客観的事実と合致する科学的に正しい『主張』とは、愚樵さんでなくとも誰が主張しても『同一』なのですよ。
言葉遣い程度が多少違うだけで本質的な内容は全く同じ。
『同じ』だから『普遍的』なのです。
逆に違っていたら普遍的でもないし、科学的でもない。
だから、本来なら自分自身の言葉で書くところを、今回は樵としての愚樵さんに敬意を表する意味で、出来る限り『愚樵空論の言葉』を正確に残した。
自分の発言が『普遍的な真理である』と誰か他の人に思われたら普通なら誇らしく思うところが、今回正反対に『自分が侮辱された』と言い出した『怒り』には整合性が無い。
今までの愚樵さんを知る身には、心底残念でならない。
長い間言葉のキャッチボールを続けていた歴史があるのですね。中には可也際どいものもあるが、あくまでも身内としての話。
愚樵さんの『何か』が大きく変った。
おかしいと感じ出したのは南北さんへの態度。彼に致命的な弱点が存在するのは今に始まったことではなくて大昔からですね。
だから普通ならそっとしておくべきなのです。
愚樵さんが南北さんに対して行った意識的に『相手の致命的な弱点を暴きだす。』とは、普通は敵認定した相手に行う行為ですよ。
そして今回愚樵さんが私を敵認定した原因も、私が愚樵さんに対して意識的に『相手の致命的な弱点を明らかにした』と判断したからですね。
だから、今回ネットウョに対しても取らない非常識な大人気ない態度をとったのでしょう。
しかし、それは一方的な間違った判断です。
愚樵さんのコメントで結果的に『致命的な弱点』が明らかになっただけで、私としては『これは間違いです』『これが事実です』と客観的な科学的事実を指摘しただけです。
私のコメントに対する反応は以前とまったく同じですよ。
何も態度を変えていない。
しかし敵認定しているらしい(嫌がっている)相手に対しては、TBするのは矢張り間違いで今後は中止します。
ブックマークも消しておいた方が良いでしょう。
愚樵さんの認識とは大違いで、普通の今までの長年の読者諸氏は、『愚樵空論』と『逝きし世の面影』が同じ政治姿勢のブログであり、書いていることも似ていると思っている。
これはある意味当然で昔は正しい判断であったのです。
ところが今は大きく見解が相違している。ことが此処まで進展したのでは無理でしょう。
ブログ開設以前からの長い付き合いで、色々とお世話になったのですが残念です。
愚樵さん。長い間、ほんとうに有難う御座いました。
内田樹の手口ですが上手な手品師とか詐欺師の技術で、普通の善意の人々はまさか大学教授ともあろうものが手品や詐欺をする筈が無いと思い込んでいる。
だから簡単に騙される。
3流の詐欺師は嘘で客を騙すのですが、1流の詐欺師は決して嘘は付かない。
嘘で騙すと、客が騙されたことに気が付いてしまう欠点があるのですね。
内田樹は、嘘ではなくて真実で上手く『間違い』に誘導するのです。
真実の一部を使って、相手の常識や経験を利用して『真実の全部である』と勘違いさせるのですね。
嘘で騙すのは知識も経験も無い人相手でしかも短時間ですが、内田式だと、なかなかインチキが見破れないし、知識や経験がある層でも上手く騙すことが出来る。
長い間の努力が必要な『知性』は間違いに誘導するのは困難なのですが、彼等一流の詐欺師達は、相手の知性を利用して価値観(物事の優先順位)を狂わすのですよ。
相手の力を利用して投げ飛ばす、柔道の引き技のような話な一種の異種格闘技戦ですね。
内田樹の「陰謀史観」を考える
2011年09月19日 | 9・11事件と情報操作
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/a5dd122460632c431ee76ca3ccd1f104
内田樹の「陰謀史観」パート2
2011年09月22日 | 9・11事件と情報操作
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/c/730b3598be10d7c10b0db3d7f59e81df
内田樹「なぜ日本の若者は怒らないのか」の嘘とまこと
2011年10月23日 | 社会
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/44895c32d89c36969ed69ca1917753b2
護憲左派の政治主張と内田樹の説く説教は内容的に8~9割被るのです。
平和な今は善意の人ばかりだから内田樹の信用度は高いのですが、警戒感が無さ過ぎて昔なら命が幾らあっても足りません。基本的に真実が見えていないのですよ。
それにしても当ブログの主張と同じ見解は、他所を幾ら探しても見つからないのですね。
これが私としては不思議で不思議でならないのですよ。
当ブログの見解ですが、別に特殊な話ではなくて政治や経済を科学的に素直に考察すれば誰でも簡単に判る範囲のことしか論じていない。
それなら同じ客観的な科学的事実からは、私でなくても誰が考えても『同一の答え』が出てきて当然なのです。
別の答えが出るほうが可笑しいのです。
ところが当ブログ記事と、部分的に同じ記事は見つかるが、連続して同じ記事が何処を探しても見つからない。だから首を傾げているのです。
普遍的な真理とは誰が書いても『同一』なのですが、私が探した範囲では真っ当な満足できる政治ブログが一つも無い。
この現象は本来有り得ない(あってはならない)話ですよ。
この不思議ですが、何が原因しているのでしょうか。
ただ一番最後の大事な結論部分では1~2割正反対になっている。
これは、愚樵空論も同じなのですね。
私としては半分でも一致している場合には大喜びする。1割でも一致しているなら、善しとすべきなのでしょうね。
ところが1年ほど前からどんどん遠くに空論が離れていく。ただ読んでる皆さんは殆ど気が付いていないのですよ。
これは不思議ですね。
少しずつ少しずつなので誰も気が付かないのでしょうか。
今回、コメントで私に変化が無い事実。自分の方が大きく変った事実を正しく認識している。
だからもっと不思議なのです。私としては首を捻っているのですね。
普通、自分自身の変化に気が付かず、距離が開いた原因が相手にあると思い勝ちなのですよ。
これは、電車が動いているのに駅舎が動いているかに見える錯覚ですね。
内山節著『怯えの時代』の喪失など馬鹿らしい。実は我々ぐらいの年齢になると『喪失』には慣れっこなのですよ。
今までまったく正常で何の問題も無かった親とか兄弟とか友人知人が、何の前触れも無く突然今回の愚樵さんの様に無茶苦茶を言い出して仕舞い、絶対に後には引かない。突然なので驚き慌てる。
今回の愚樵さんの場合には1年以上も前からで、それも徐々に可笑しくなっていったのですから、驚くことは無いが矢張り喪失感は否めない。
生きていると言うことは必ず死ぬのですよ。諸行無常、悲しいですね。
ヤングマンの西条英樹が脳梗塞らしいですよ。愚樵さんも同じかもしれないし、それとも何かの宗教とかカルトと関係があるかもしれない。
アインシュタインの相対性理論以前のニュートンの物理学では原子は変化しないので、この原子炉とか核爆弾以外では放射能物質は自分自身の持つ自己崩壊の寿命で減っていく以外には絶対に無くならない。
放射能を食べて無くしてくれるとの米ぬか乳酸菌を信じているらしいので、このインチキ商法かカルト団体か良くわからないが、何かに嵌っていることだけは確からしいのです。
科学と「新時代の信仰」時代の風東京大教授・坂村健
2011年08月28日 | 宗教
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/4a456b4b1f288f0a0d8d36ec0f75c875
新しくアップされた2011-12-20『自在な豊かさ』では、
内山節著『怯えの時代』を引用。
時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環との対比を行っている。
斉藤氏の論に対しては、>『ここにあるのは「正論」である。それは疑いがない。』<
と、今回は愚樵さんも問題点を具体的に指摘した斉藤氏の論の『正しさ』は認めている。
私も愚樵コメントの、具体的な『御粗末な間違い』を明らかにする為の、やりたくも無い赤ペン先生をやった甲斐があったというものですね。
最初愚樵さんは、『斉藤氏の説は間違いである』との『思い込み』(勘違い)だった。
強引に具体例を挙げて避難していた。
そのことを思えば、これは革命的な大進歩ですね。
ところが後が悪いというか、往生際が悪いというか、
斉藤氏の主張に何の間違いも無いことが証明されたら、普通なら自分の今までの無茶苦茶な暴論の間違いを認め無いと辻褄が合わないのです。
しかし、何故かこれは絶対にしたくない。
自分の面子の問題なのか。
それともまったく別の隠された思惑があるのか。
>『が、内山氏の文章にある「喪失」がない。「うんざり」がない。』<
と続くのですから反省がまったく無い。元の木阿弥である
本当に困った話ですね。
自分の主張の間違いを証明された後でも、しょうこりもなく不真面目にも以前とまったく同じ説を繰り返す。
不真面目が過ぎるでしょう。
内山氏には確かに、「喪失」や「うんざり」(個人の内心)があるが、それ以外が何も無いのですよ。
斉藤氏には喪失を下敷きにして現状を分析し、その先を見据えているし解決法さえ提示している科学的な発想である。
対して、内山氏の文章にあるのは科学的発想とは対極の、個人の『内心』の正直な吐露ですね。
しかし、これは今までなら日本人の普通の羞恥心とか道徳観なら本来表には出さない種類のものですよ。
何故なら幾ら大事でも個人に属する『内心』なのでプライベートな、他人が介入する範囲ではない。
これは、絶対に介入してはいけない範囲なのです。
少し視点を変えてみれば、愚樵空論のこの主張の無茶苦茶が判る。
内山氏の話が幾ら心をうったとしても、他の人々にも内山氏と同じような内心の吐露が強制されたらと考えれば、その恐ろしさや禍々しさには誰でもがたじろぐ筈である。
万人には到底進められない話なのですよ。
愚樵空論では、
>『被災の当事者に内山、斉藤両氏の文章のどちらが響くかと問いかけてみれば、どうだろう? 斉藤氏の「正論」か。内山氏の「喪失」か。答えはいうまでもないと思うが。』<
なんともはやですね。
これは愚樵風の手品ですね。
巧妙に性質のまったく違う、そもそもの目的が違う別のものを巧妙に摩り替えているのですから、意識してやっているなら不真面目の極みであり悪質である。
意識していないなら愚かである。
精神科医の斉藤氏の論が自分の科学者としての立場からの『論』であり、其処では出来るだけ『内心』の様な個人個人別々であるべき(他人が触れてはいけない)プライベートの部分を切り離しているのは当然な話です。
この続きはもっと奇妙奇天烈なすり替えや手品が繰り返されるのですから、ただただ呆れ果てて言葉も無い。
此処まで行くと手品ではなくて詐欺ですよ。
>『斉藤氏の「正論」は絆は自由を奪うという。まったくその通りである』<
真っ赤な嘘で、斉藤氏は無条件で『絆が自由を奪う』などとは言っていない。
科学的な厳密な条件付けがあるが、条件を完全に無視する愚樵空論の非常識ぶりは不真面目であるが、まだ少しはまともである。
その後がいけない。無茶苦茶。
>『だが、私たちは既に、その自由に「うんざり」していたのではなかったか。自由の代償として要求される「喪失」に耐えがたくなっていたのではないのだろうか。』<
嘘も休み休みに言え。
馬鹿らしい大嘘である。
多くの人々が『自由にうんざりしていた』など、誰も、そんな人はいませんよ。
今のように大災害で自由が侵害されていることにうんざりしているのです。
>『自由か自在かの対立。』<
など、そもそも存在しない。
ありもしない自由か自在かの対立などは、愚樵空論の創作か捏造ですね。
この後はもっと酷くなり目も当てられない妄想世界。
何と、原発賛成派は現実的で>『原発に賛成する者は自由が大切だという・・・・・安定的な電源である原発は必要』
『対して反対派の議論は「喪失」には耐えられない、というもの。』
なんともはや言葉を失う。
これでは原発安全神話の原発村の発想ですよ。
愚樵さんは自分の今回の主張が、今までの原発村の住民と同じであり、恥ずかしすぎる東電や御用学者の現実無視の妄想と寸分違わない事実には気が付く風も無いのは不思議する。
いったい、愚樵さんに何が起きたのだろうか。
>『自在とは制約から自由になることでない。制約を受け入れて制約を生かすことをいう。』<
それは、普通一般には自在ではなくて『自由』という概念ですよ。
自由と自在が対立するとの不思議な愚樵空論ですが、それなら同じ意味の言葉が対立することになり大混乱。
これでは、到底他人が理解出来る真面目の会話が成り立ち難い。
この話は実は愚樵さんが、意識的に本当の言いたい事をわざと隠すから、話が混乱しているのですよ。
何故本心の『醜く汚い不自由な現実世界に優先する、美しく自由な精神世界』との、一番言いたい本音部分を語らないのか。
本音を隠して色々策を弄するから、今のように辻褄が合わず論が支離滅裂なのです。
当ブログは4年前から開設しているのですが、それ以前から長い間愚樵空論にはお世話になっていた。
当時、私の政治姿勢に一番近いブログが愚樵空論だったのですよ。
大概は意見が一致するのですが、ところが内田樹の『格差は心の持ちよう』との格差論では大論争に発展。その時の私のコメントを記事にしたのが、
俗論、内田流格差論が流行った理由
2008年02月24日 | 経済
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/a132c1bea1ced81bda80e0842b674a85
俗論、内田流格差談義の腹立たしさ
2008年02月23日 | 経済http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/3f2fb091e254f2804dff55ce5f2af116
話が噛み合わなかった最大原因ですが、愚樵さんは個人の生き方としての『精神論』として内田流格差論の話題を進めようとする。
対して、当方が社会科学の経済学の立場からの反論であり、土俵自体がまったく違っていたのです。
そして今回もその延長で精神科医の斉藤環氏の話を、個人の精神論の立場で批難する愚樵さんと、
これを政治とか社会とかの範囲で捉えて全面支持する私の対立です。
分かりやすく言えば宗教と科学の対立ですね。
愚樵さんは、私の『唯一の普遍的な存在は科学だけ』との主張を何とかして否定したいのですよ。
確かに今回の3・11の大震災とか、それに続く福島第一原発事故で証明されたのは、人類の科学力の限界であり、これは確かなのです。
今日、科学の力に限界があることは、誰の眼にも明らかなように弱点とか悪さとかが証明されたのです。
だからと言って科学が持つ唯一の『普遍』の地位が、何かの『観念論』で置き換えれるものでもないのですが、愚樵さんは何とかして『科学』の間違いを証明して、その鼻をあかしたいのですよ。
しかしそれは絶対に無理ですよ。
愚樵さんにとんでもなく能力があり幾ら頑張っても、この勝負は150年前にダーウィンの進化論論争での『科学の勝利』で決着済みであるのです。
此の頃の愚樵空論で延々と続けられている、誰が読んでも良く分からない議論ですが、あれは何かの宗教に近い発想で、到底誰一人も理解出来ないでしょう。
内田樹は賢いので絶対に自分の発言に日本人に抵抗感がある宗教的な言葉を使わないので分かり難いが、内田樹の主張した『格差は心の持ちよう』も同じで社会科学の経済学ではなくて一神教(キリスト教のプロテスタント系)の道徳の話です。
そして愚樵さんですが元か現かは良く分かりませんが隠れキリシタンですね。
私と今回話が合わないのは徹底した無神論の主張が嫌なのですが、この事実が一番影響しています。
ですからこれは遅れてやってきた一種の宗教戦争ですね。
すみません。