逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

クーデターと日本独自の怨霊信仰

2025年01月05日 | 軍事、外交

日本で一番有名なクーデター「乙巳の変」成功

蘇我宗家滅亡の「大化の改新」(蘇我入鹿暗殺の乙巳の変)は645年(今から1380年前。蘇我馬子聖徳太子連合による物部宗家滅亡の587年から58年後)

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変で、戦国時代の記憶が残る江戸時代初期に描かれた『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市の談山神社所蔵)では切断された生々しい首の断面が正確に描写されている。

ところが21世紀のアメリカ軍傭兵組織のISISイスラム国の場合には小さなナイフとテレビ撮影用のピンマイク装着。なんと、切断した首のCG画像を手抜きして首が砂漠に突っ込んだ状態で死んでいたのですから大笑い。しかし、2015年当時は散々テレビ放映した爆笑画像を、たった10年後の現在はことごとくグーグルなどが消してアメリカのインチキCG画像を誰にも見られないように徹底的に隠蔽しているのですから恐ろしい。2021年12月20日 | 文化・歴史 雪の三之公かくし平「義尊王墓」散策

何時までも大人になれない子供たち

AIとソックリ無感情無道徳無判断の3無兵庫県知事の斎藤元彦、太い実家のコネは社会の敵(菅野完評)PR会社社長の折田楓、何も知らない無知無能を装う代理人弁護士奥見司の無責任3人組。2024年11月29日 | 地方自治 鬼畜の所業!吉本新喜劇似の大人になれない維新

東京知事選での泡沫候補石丸伸二や兵庫県議会が全会一致の不信任決議で失職した斎藤元彦の驚きの結果から、テレビや新聞などのオールドメディアVS.新しいネットメディア云々の論議が新聞やテレビなどの既存のジャーナリズムで論じられている。テレビや新聞のマスコミの言論が一定の範囲で規制されていることは誰でも知っいる。

ところが、たったの4年前に現職の第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプが民主党やリベラルメディア知識人などが誘導した噓八百でツイッターやFacebook、グーグルのアカウントの永久凍結され、完全に言論封鎖されていた事実は記憶に新しい。通常のテレビや新聞など既存のマスコミより、インターネットなどデジタルの方が余程権力による言論統制(世論誘導)が容易なのである。ただ個々の一般市民側が高額なスマホを使用するので最も受動的な(最も管理された)ツールなのに180度逆さまに使用者が能動的に行っていると錯覚させる丸っきりの詐欺か手品。

アルゴリズム云々どころかインターネットとはグーグルなど極少数のプラットフォームが一元的に管理しており一網打尽に、最も確実に言論統制(世論誘導)が簡単に出来るツールなのですから恐ろしい。兵庫県知事選ではパワハラ疑惑お子様知事斎藤元彦の対立候補の誹謗中傷、アカウント連続凍結など明らかに公職選挙法だけではなく名誉棄損や脅迫など普通なら即座に警察が取り締まるべき無法地帯になっていたのですから、驚くやら呆れるやら。

過去の日別ランキング
 
1月2日(木)
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徹底的なグーグル八分の結果、ブログ主自身が書いている自分の「逝きし世の面影」ブログを簡単に閲覧出来ないのですから、普通の一般市民が閲覧出来ないのは当然の結果。何の不思議もない。
 
★注、逝きし世の面影ブログ開設の2008年1月当時でも5百人台の閲覧数は少な過ぎるので、4年前新コロ騒動を理由にしたインチキやり放題、民主主義を愚弄する「郵便選挙」時のドランプのようなネット永久凍結までは時間の問題かも知れない。(いつまでも、有ると思うな、金と年取った親とネット記事)
 
クーデター談合の談山神社と蹴鞠と御破裂山
 
藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、鎌足の長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたことに始まる。弟の藤原不比等が神殿を建立し、父の像を安置したとされる。かつては妙楽寺という寺と一体だったが、明治初めの神仏分離令後、神社だけが残った。社名は鎌足が中大兄皇子蘇我入鹿を暗殺するために談合をした「談い山」からとったもの。
多武峰の山中には楼門(重要文化財)、本殿(重要文化財)、権殿(重要文化財)をはじめとする朱塗りの華麗な社殿が建ち並ぶ。漆塗極彩色、三間社春日造の本殿には鎌足像が祀られており、日光東照宮の手本になったといわれている。現在の塔は室町再建で高さ17m。古塔の中では現存唯一の遺構である木造十三重は、鎌足の墓塔といわれている。紅葉の名所としても有名であるが、境内を桜が彩る春、新緑の季節、雪化粧が見事な冬と季節を問わず美しさを堪能することができる。大和七福神(信貴山朝護孫子寺久米寺長谷寺おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福八宝の会を発足。(奈良県観光公式サイト)
 
絶好の展望台「御破裂山」(611メートル)
 
以前から友人に誘われていた「大化の改新」クーデター成功で重要な要素である談合場所「談い場」(かたらいば)と、その直ぐ上にある御破裂山を去年末に訪れるが、鎌足の巨大な墓の向こう側が展望台になっており、眼下に畝傍山や天乃香久山、耳成山など飛鳥を代表する大和三山や奈良盆地、大和葛城から二上山の山並みと、信貴生駒山の間(大和川の切れ目越し)に、遠く大阪湾や神戸の六甲山まで見える絶景。政権掌握の「蘇我入鹿殺し」クーデター談合にはピッタリの場所だったのである。
 
クーデターで失われた(聖徳太子蘇我馬子編纂の)正式な歴史書「天皇記」と「国記」
 
中臣(藤原)鎌足が中大兄皇子(天智天皇)と図って大臣(総理大臣)の蘇我入鹿を朝鮮半島からの大事な外交使節(三韓使節)歓迎会で女帝の皇極天皇が見ている前で殺すクーデターでは日本書紀の記述が何とも奇妙で不気味。あまりにも精細な描写が具体的で残酷で、しかも天智天皇(クーデター当時は中大兄皇子19歳)自らが刀を振るって惨たらしい暗殺に参加しているのである。
本来なら中大兄皇子クラスの貴人が要人の暗殺計画に参加しても実際の殺害に手を染めることは無いし、たとえ殺害しても公式記録には曖昧に記述されるのが通例。何とも不可解なのである。
蘇我氏の館があった甘樫丘は軍事要塞であったらしいが味方側の裏切りが相次ぎ、蘇我蝦夷は戦うことなく「天皇記」や「国記」を燃やして自害、蘇我宗家はあっけなく滅亡する。蘇我馬子や聖徳太子が編纂した失われた歴史書「天皇記」や「国記」の内容は不明だがクーデター側の鎌足や中大兄皇子にとって記述内容が不都合だったことは間違いない。(★注、日本の正式な歴史書「天皇記」や「国記」が保管されていたのは甘樫丘の蘇我氏の私邸ではなく入鹿暗殺の現場の大極殿内である。それなら入鹿暗殺と同時に鎌足や中大兄などクーデター側が飛鳥王朝の正式な歴史書「天皇記」や「国記」を燃やし歴史を改竄した下手人)
 
明日香村の全景が見える絶好の展望台「お破裂山」標高611メートルには、多武峰の談合神社(談山神社)の駐車場から多武峰ホテルや土産物店が並ぶ上り坂の道をひたすら歩くと、(談山神社の建造物は小さな井戸までが需要文化財や国宝だが、入場料が大人500円で比較的安い)何時の間にか舗装された広い林道になる。右からコンクリートの狭い林道が合流する地点で急な上り坂を稜線まで登ると平坦になり徒歩1時間半で、お破裂山頂上の展望台と鎌足の墓に到着する。このお破裂山ルートが素晴らしいのは(内緒だが)多武峰の談山神社に無料で拝観出来る事。
 
「三韓の調(みつき)」が行われた飛鳥「板葺きの宮」正殿である大極殿の暗殺現場は平安時代の「光る君」と同じで寝殿造なので広い宮殿はワンルーム仕様。間仕切りが無く御簾を垂らしているだけ(暗殺を見て逃げ出す女帝が描かれているが、何故か同席していた次期天皇の古人大兄皇子の姿が何処にもない)
剣を振り上げ非武装の蘇我入鹿を殺すのが中大兄。日本書紀で鎌足は弓矢を持っていたとあるので左端が中臣(藤原)鎌足。この3人だけ顔を白塗りし宮中の貴人の服装をしており、右側の一般人の服装の二人は顔や手足の色が濃く貴人ではないことを示し本来予定していた暗殺者(なぜ日本書紀では鎌足や中大兄が直接自分で入鹿を殺したことにしたのだろうか?実に不思議だ)

「韓人(からひと)が入鹿を殺した」
 
飛鳥王朝の宮殿「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」の正殿に中大兄皇子の母親の皇極天皇、その隣には古人大兄皇子が座っていたが、記録では次期天皇に内定していた長兄の古人大兄は「韓人(からひと)が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)」と家人に喋ったと日本書紀には書いてある。(入鹿殺しのクーデターで暗殺者は外国人を装っていたのだろうか。そもそも仲が良くない百済と新羅と高句麗の三国が、わざわざ統一使節を作って、揃って朝貢を行ったとの記録が無い)
 
約7000年前、縄文前期   4500年前、縄文中期   古事記・出雲国風土記の時代
1200年前、奈良・平安時代

古事記や日本書紀の書かれた1200年前の出雲地方の宍道湖は内海(縄文期の島根半島は本州から切り離された島)だったように、海水面が今より大幅に高かったのである。(★注、海水面から分かることは地球環境が今より温暖だったことが明らかで、人為的CO2温暖化云々どころか、現在は縄文期や古墳時代、古事記日本書紀の奈良・平安時代の昔から比べ遥かに寒冷化していたのである)

蘇我入鹿暗殺の乙巳の変(大化の改新)飛鳥時代645年後に遷都した「難波の宮」のある上町台地(現在の大阪城)は海に突き出した半島だったし世界最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)は海岸線に造られていた。

大船団を率いた神武東征は生駒山麓の日下(くさか 孔舎衛)に上陸するが、最強の敵の長髄彦が生駒山の坂の上から矢を雨のように降らせて大敗する。当時の河内湖は淡水ではなくて有明海のような干潟?だったらしくて干満の潮流が激しくて悪戦苦闘し「難波」と名付けられたと日本書紀に書いてある。(一旦退却して上町台地の難波の宮あたりに再上陸して体制を立て直し、大きく紀伊半島を迂回して熊野に上陸、遠路はるばる大和に入った)2023年02月14日 | 文化・歴史 建国記念制定から150年目

軽皇子(孝徳天皇)大阪遷都
 
入鹿暗殺では親「蘇我氏」路線の次期天皇最有力だった古人大兄皇子が失脚して、新しく軽皇子が孝徳天皇として即位し飛鳥から大阪湾口に新しく造営した「難波の宮」に移る。ところが、短期間に皇極天皇や中大兄皇子やその妹で皇后の「間人皇女」までが飛鳥に帰ってしまい失意のうちに崩御、655年再び板葺きの宮で皇極天皇が斉明天皇として重祚(★注、孝徳天皇は右大臣に蘇我倉山田 石川麻呂。娘の「ちのいらつめ」を妃としたので軽皇子の孝徳天皇も古人大兄皇子と同じ親「蘇我氏」路線。そもそも入鹿暗殺自体が「関ヶ原の戦い」と同じで蘇我氏のお家騒動だった可能性が高い)
 
中国の統一巨大帝国「隋」成立(隋は初代皇帝時代から高句麗遠征を繰り返していた)と倭国(日本)の遣隋使派遣
 
第一回遣隋使派遣は600年(推古8年)は、倭国は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)ただし初回の600年遣隋使に付いての記述が日本書紀にはない。
第二回遣隋使派遣607年(推古16年)小野妹子「日出処の天子……」の国書を持参した。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
100万人規模の3度の高句麗遠征に失敗して国力が疲弊して第二代皇帝煬帝が死亡、隋帝国自体が滅亡した618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されているが、いずれも倭国では蘇我馬子が主導していた。
 
モンゴルの征服王朝(元)の除いて最大地域を支配した中華帝国(唐)と倭国(「日本」の国号が使われた最初が702年の遣唐使から)
 
当時の東アジアの政治情勢に影響されていた倭国の政治(蘇我入鹿殺しクーデター)
 
統一王朝「唐」も「隋」と同じで建国以来何度も高句麗遠征を繰り返して失敗するが作戦を大きく変更して高句麗の背後の新羅と同盟して、百済を海路から遠征軍13万人を派遣して急襲して660年に倭国と親密な関係だった百済が滅亡。その8年後の668年には長年苦戦が続いた高句麗の滅亡にも成功する。
百済滅亡後の「白村江」救援軍派遣で九州に行幸していた68歳の皇極天皇(斉明天皇として重祚)は661年に行宮で崩御したにもかかわらず、無理筋の663年「我等先を争はば、敵自づから退くべし」との杜撰極まる作戦で大敗した「白村江の戦い」を遂行したのが蘇我入鹿殺し(乙巳の変)の中大兄皇子。
 
合理的な損得勘定の理性や知性より「力」を最優先。無謀で無能、無分別なテロリスト
 
滅亡した百済復興の「白村江の戦い」は645年の「乙巳の変」から18年後なので中大兄は30歳代後半の働き盛りだが何故か天皇に即位していない。(天智天皇即位は668年で入鹿暗殺から23年後。661年皇極天皇(斉明天皇として重祚)崩御から7年間も空席のままだった)
当時の日本列島の人口は300万人足らずだったが滅亡した百済復興の「白村江の戦い」に2万7千人の遠征軍と800艘の船を派遣して全滅状態に陥った。
しかも白村江での大敗戦後の唐の報復(日本侵攻目的の遠征)を恐れて北九州を中心に全国規模での軍事施設の建設や東国農民の「防人」の賦役など膨大な負担を強いられた。自ら超大国「唐」に喧嘩を吹っ掛けた「白村江」の大敗北後の倭国の軍事力増強では間違いなく大幅に国力が低下していたのである。
日本列島と朝鮮半島とは200キロも離れており世界征服を企んだモンゴル帝国でも容易には渡れない天然の要害の地。中国や朝鮮など大陸での政変に日本が介入した「白村江の戦い」の成功率は限りなくゼロ。最初から失敗が約束されていた悪手中の最悪手だった(★注、歴史的に日本列島と中国大陸の人口比は常に1対10。十倍規模で推移している)
 
朝貢国としての倭国(中国王朝の冊封体制に組み入れられた朝鮮)
 
中国の統一王朝「隋」が618年に滅んで「唐」に代わったので、630年に始まり838年まで200年以上の間、十数回にわたって倭国(日本の大和朝廷)は遣隋使派遣に続いて遣唐使を派遣して、当時の超大国「中国」との友好や先進文化の吸収する「朝貢国」との外交方針では一貫していた。
ちなみに朝鮮半島は中国とは地続きなので歴代中国王朝の冊封体制(宗主国の暦や制度を採用し、もしもの時の軍事援助を要請できる「冊封国」)なのである。朝貢国(日本)より段違いで格上の扱いだった (^_^;)(★注、1300年後に太平洋戦争で大敗した日本とアメリカとの今の日米関係とソックリ同じだった \(^o^)/
 
新羅と唐の連合軍による倭国と親密な660年の百済滅亡や、百済復興の663年「白村江の戦い」の大敗北。軍事大国だった高句麗の668年の滅亡とは、その遣唐使派遣の時期と重なっていたのである。唐は海路からの13万人の百済侵攻計画の機密が漏れないよう遣唐使の帰国を阻止している。(★注、宗主国「唐」の国家戦略に正面から戦いを挑んだ「倭国」中大兄皇子(天智天皇)の行為はあまりにも無謀過ぎるのである。判断の致命的ミスの原因としては矢張り日本書紀の奇妙で残酷で不気味な大極殿での蘇我入鹿殺し乙巳の変(いっしのへん)の顛末が大きく影響していたと考えられる)
 
墳丘が失われた蘇我馬子の巨大古墳の「石室」だと言われている明日香村の石舞台古墳(岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンと我が国では最大級)
 
当時の最新の技術をもった渡来人系の蘇我氏は飛鳥政権で父親の稲目以前から大王家(天皇家)とは血縁関係にあり財政担当(大蔵大臣)の有力豪族だった。551年生まれの蘇我馬子は572年の敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、最初の女帝の推古天皇の4代、56年間にわたって天皇に次ぐ権力者「大臣」として飛鳥政権を掌握していた大人物。日本書紀に記載されている上宮王家の(574年~622年「厩戸皇子」にとって馬子は大叔父で妻の父「義父)聖徳太子の数々の業績や名声は実は蘇我馬子自身の業績だった可能性が高い。その蘇我馬子の死は626年で、その19年後に入鹿暗殺のクーデター(乙巳の変は645年)で蘇我宗家は滅亡する。
日本書紀の記述では聖徳太子の子供の山背大兄王殺し(上宮王家滅亡)の指示したのは蘇我入鹿だったと書いてあるが、歴史的な事実関係では、蘇我氏滅亡後に名指しされた暗殺犯達はクーデター後の新政権に罰せられることは無く逆に出世していた。正式な歴史書であるはずの「日本書紀」の辻褄が少しも合っていないのである。
 
「神殺しの日本」で有名な梅原猛は、火災で焼失した法隆寺の再建が藤原氏によって行われたこと。法隆寺の中門の柱などから「法隆寺は聖徳太子(実質的に蘇我氏)の怨霊封じ」が目的だったと主張している。『隠された十字架』「法隆寺論」

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1 コメント

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怨霊だらけの天皇日本・・ (遍照飛竜)
2025-01-05 11:21:39
前の戦争の謝罪を一切しない、明治朝天皇とその国家。

それを恨む日本人や中国人・朝鮮人は腐るほどいる。
まあ日本人は、今の暴政をみて「怨霊」に復帰した人たちも結構いるかもね。

まあ「天皇」を根絶やしにしたら、無事その怨霊に悩む必要はなくなるのですよね。

怨霊製造装置の「天皇」が日本人を殺しまくる。
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