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異能の漫画家蛭子能収が考えた2020年東京オリンピックのマスコットキャラクター (手抜きのユルキャラ)『トカイッコ』
52年前の1964年東京オリンピックの時代ではオリンピックのマスコットは存在していなかったが、大人気の『ひこにゃん』や『クマモン』のようなユルキャラ全盛の現在はエンブレムやポスター以上にオリンピック大会を象徴する存在として大会マスコットが親しまれている。
白紙撤回された恐竜アーチの新国立競技場やパクリ疑惑のオリンピックのロゴマーク(エンブレム)よりも大事な『2020年東京オリンピック』大会のマスコットキャラクターが未だに発表されない異常事態なのに、日本ではマスコミも一般市民も誰も騒がない不思議。71年前の1945年8月15日の玉音放送の直前と同じで、誰一人恐ろしくて口に出さないが全員が薄々『日本の敗北』を自覚しているのだろうか。
2020年東京オリンピックのマスコット(象徴)として蛭子能収が考えたのは『トカイッコ』だが外国人が考えたのは三目の奇形魚だった
余録 『奠都とは都を定めることをいう…』毎日新聞2016年2月27日
奠都(てんと)とは都を定めることをいう。都を移す遷都(せんと)はよく聞くが、明治初めに京都から東京へ都が移ったのは「東京奠都」と呼ばれる。江戸は東京となったが、京都から遷都するという宣言はなかったのだ
▲京都の人にいわせれば、天皇は「ちょっと東京へ行ってくる」と出かけて、まだ戻っていないだけである。
事実上の遷都は1869年に太(だ)政(じょう)官(かん)などの行政機能の移転も伴った2度目の天皇の東京行きだが、この時も臨時措置だと説明され京には「留守官」が置かれた
▲さすがにその秋の皇后の東京行きの際には町衆1000人が御所の石薬師門(いしやくしもん)につめかけて抗議活動をしたという。
当局は翌年の天皇帰還と大(だい)嘗(じょう)祭(さい)を約束して騒ぎを鎮めたが、むろん空手形(からてがた)に終わった。そんな歴史も思い起こされる京都への文化庁の移転の動きである
▲地方創生を掲げる政府が検討している国の機関の地方移転で、京都府から誘致の希望が出ていた文化庁だった。
政府は長官を含む機構の大半の京都移転を数年内に実現する方針を固めたそうだ。東京には増員される次長と国会対応などにあたる部門が残されるという
▲明治初めの留守官は社寺との応対にあたる役職だったというから、今の文化財行政と通じるものがある。
国宝などが集積する古都への文化庁移転はすんなりと納得されよう。だが徳島県の消費者庁誘致などについてはさらに検討が重ねられ、結論が出るのは夏になる
▲なし崩し遷都から1世紀半近く、もしや胸のつかえが少しは下りたという方もおられようか。
いや、もう空手形にはだまされないという向きには、今後の成り行きに目をこらしていただこう。
『漢字の【奠】をデジタル大辞泉辞書で引くと』
[音]テン(漢) デン(呉)
1 神仏に物を供えて祭る。「奠茶」
2 供え物。「香奠(こうでん)
3 位置を定める。「奠都」(てんと)
『辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書では』
1)くま 【奠】「 くましね(奠稲) 」に同じ。 「是に,-奉りて,楯節儛奏る/日本書紀 持統訓」
2)てん 【奠】神仏などへの供え物。供物(くもつ)。
【 奠 】 [音] テン ・デン
① 供え物をしてまつる。供え物。 「 奠茶 ・祭奠 ・釈奠(せきてん)((しやくてん)) ・香奠(こうでん) ・乞巧奠(きつこうでん) 」
② おく。さだめる。 「 奠都 」
とあり、何処にも遷都の意味がない。
遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、古くは『都遷り』都移り(みやこうつり)とも言った。
遷都では天皇の勅令が出される決まりなのですが、明治天皇による『遷都の詔勅』出されていないだけではなくて、何処にも東京を『首都』とする旨の法令も政令も存在しない。
日本の首都東京ですが、『正式な誕生日が無い』不思議な状態になっている。
東京遷都(せんと)なら日本の『都』は東京だけだが、『奠都』(てんと)だと 東京だけではなく京都も依然として今でも日本の『都』(日本の首都が東京と京都の二つ)だとの解釈になる。
『歴史的な経過では、』
明治維新の1868年(明治元年)7月に『自今、江戸を称して東京とせん』との東京設置の詔が出されている。
1868年(明治元年)の9月には天皇周辺の反対を押し切って江戸への行幸が実施され、天皇が江戸についた10月13日に、江戸城を東京(東の京)城と改めて行幸時の臨時の天皇の住居(皇居)にすることになります。
明治天皇の東京(江戸)行きは『行幸』なので、必然的に正式な御所のある京都(首都)に天皇は還幸することになる。
天皇は京都の御所に帰ったが、1869年(明治2年)には東京にもう一度再幸することになり、その間に東京城の宮殿造営の計画発表や、国家の基本方針を決める会議開催を理由に藩主(府県知事)の東京参集を命じたり、議事機関(公議所)の東京設置など、着々と首都機能がなし崩し的に東京に移っていく。
そうした中で東京再幸が行われる際には国家の最高機関である太政官を東京に移し、京都には留守官を置くことが発表される。半年後には皇后も京都から東京に移される。
再行幸で明治天皇が東京に着いた1869年(明治2年)3月28日には東京城に改めた江戸城を再度『皇城』と改め、1888年(明治21年)からは 『宮城』と呼ばれることになるが、その後第二次世界大戦の敗北で大日本帝国が崩壊、1948年(昭和23年)から『宮城』の名称が使えなくなり今のような『皇居』になるが、いずれの段階でも誰からも(都を京都から別の場所に移す)『遷都』(せんと)の言葉は使用されなかった。(正式な遷都宣言が無い日本国の首都東京ですが、これは長年連れ添っているが正式な婚姻届をしていない『事実婚』のような話である)
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『もしも「効率優先」だけなら 今まで日本が進めていた東京一極集中(中央集権化)の方が正しいのだが、』
『中央官庁の地方移転では、必ず機能が低下する(移転先が便利になる分、それ以外では不便になる)ことが予想される』
明治維新以来150年間も増え続けていた日本の人口が今回初めて減少に転じている(94万7千人減、日本の全人口の0,7%)。日本全体で全国的に住民が減少している中でなんと東京圏だけは人口が逆に増えていて、ますます東京一極集中が進んでいる。(もし『効率』だけを目的にするなら軍隊式のピラミッド型中央集権が正しい)本社を大阪から東京に移転する大企業ですが、その方が会社として効率が良いからであり人口の移動も同じで同一労働でも東京の方が賃金が高い。
明治維新による148年前の出来事は東京遷都ではなく、1868年東京奠都(てんと)だったと明らかにした毎日新聞のコラム『余録』(2016年2月27日)ですが、続けて文化庁の京都移転や消費者庁の徳島移転を書いている。
文化庁の京都移転の方は今までも何回かマスコミに報道されていた内容なので驚くにあたらないが消費者庁の徳島移転は大手メディアでは初見である。(以前にもエロ系メディアの日刊ゲンダイが一回報じているが何とも消極的な内容だったし共産党機関紙赤旗の場合はもっと否定的、『中央官庁の地方移転では機能が低下する』とはっきりと反対する姿勢だった)
東京遷都(せんと)なら日本の正式な『首都』は一つだけ(東京)である。
ところが毎日新聞2016年2月27日コラム『余録』がいう『奠都』(てんと)だと 関東の東京は臨時首都であり、今でも日本の正統な『都』は依然として関西の京都だったことになる(日本の首都として東京と京都の二つが並立する)
52年前の1964年東京オリンピックの時代ではオリンピックのマスコットは存在していなかったが、大人気の『ひこにゃん』や『クマモン』のようなユルキャラ全盛の現在はエンブレムやポスター以上にオリンピック大会を象徴する存在として大会マスコットが親しまれている。
白紙撤回された恐竜アーチの新国立競技場やパクリ疑惑のオリンピックのロゴマーク(エンブレム)よりも大事な『2020年東京オリンピック』大会のマスコットキャラクターが未だに発表されない異常事態なのに、日本ではマスコミも一般市民も誰も騒がない不思議。71年前の1945年8月15日の玉音放送の直前と同じで、誰一人恐ろしくて口に出さないが全員が薄々『日本の敗北』を自覚しているのだろうか。
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余録 『奠都とは都を定めることをいう…』毎日新聞2016年2月27日
奠都(てんと)とは都を定めることをいう。都を移す遷都(せんと)はよく聞くが、明治初めに京都から東京へ都が移ったのは「東京奠都」と呼ばれる。江戸は東京となったが、京都から遷都するという宣言はなかったのだ
▲京都の人にいわせれば、天皇は「ちょっと東京へ行ってくる」と出かけて、まだ戻っていないだけである。
事実上の遷都は1869年に太(だ)政(じょう)官(かん)などの行政機能の移転も伴った2度目の天皇の東京行きだが、この時も臨時措置だと説明され京には「留守官」が置かれた
▲さすがにその秋の皇后の東京行きの際には町衆1000人が御所の石薬師門(いしやくしもん)につめかけて抗議活動をしたという。
当局は翌年の天皇帰還と大(だい)嘗(じょう)祭(さい)を約束して騒ぎを鎮めたが、むろん空手形(からてがた)に終わった。そんな歴史も思い起こされる京都への文化庁の移転の動きである
▲地方創生を掲げる政府が検討している国の機関の地方移転で、京都府から誘致の希望が出ていた文化庁だった。
政府は長官を含む機構の大半の京都移転を数年内に実現する方針を固めたそうだ。東京には増員される次長と国会対応などにあたる部門が残されるという
▲明治初めの留守官は社寺との応対にあたる役職だったというから、今の文化財行政と通じるものがある。
国宝などが集積する古都への文化庁移転はすんなりと納得されよう。だが徳島県の消費者庁誘致などについてはさらに検討が重ねられ、結論が出るのは夏になる
▲なし崩し遷都から1世紀半近く、もしや胸のつかえが少しは下りたという方もおられようか。
いや、もう空手形にはだまされないという向きには、今後の成り行きに目をこらしていただこう。
『漢字の【奠】をデジタル大辞泉辞書で引くと』
[音]テン(漢) デン(呉)
1 神仏に物を供えて祭る。「奠茶」
2 供え物。「香奠(こうでん)
3 位置を定める。「奠都」(てんと)
『辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書では』
1)くま 【奠】「 くましね(奠稲) 」に同じ。 「是に,-奉りて,楯節儛奏る/日本書紀 持統訓」
2)てん 【奠】神仏などへの供え物。供物(くもつ)。
【 奠 】 [音] テン ・デン
① 供え物をしてまつる。供え物。 「 奠茶 ・祭奠 ・釈奠(せきてん)((しやくてん)) ・香奠(こうでん) ・乞巧奠(きつこうでん) 」
② おく。さだめる。 「 奠都 」
とあり、何処にも遷都の意味がない。
遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、古くは『都遷り』都移り(みやこうつり)とも言った。
遷都では天皇の勅令が出される決まりなのですが、明治天皇による『遷都の詔勅』出されていないだけではなくて、何処にも東京を『首都』とする旨の法令も政令も存在しない。
日本の首都東京ですが、『正式な誕生日が無い』不思議な状態になっている。
東京遷都(せんと)なら日本の『都』は東京だけだが、『奠都』(てんと)だと 東京だけではなく京都も依然として今でも日本の『都』(日本の首都が東京と京都の二つ)だとの解釈になる。
『歴史的な経過では、』
明治維新の1868年(明治元年)7月に『自今、江戸を称して東京とせん』との東京設置の詔が出されている。
1868年(明治元年)の9月には天皇周辺の反対を押し切って江戸への行幸が実施され、天皇が江戸についた10月13日に、江戸城を東京(東の京)城と改めて行幸時の臨時の天皇の住居(皇居)にすることになります。
明治天皇の東京(江戸)行きは『行幸』なので、必然的に正式な御所のある京都(首都)に天皇は還幸することになる。
天皇は京都の御所に帰ったが、1869年(明治2年)には東京にもう一度再幸することになり、その間に東京城の宮殿造営の計画発表や、国家の基本方針を決める会議開催を理由に藩主(府県知事)の東京参集を命じたり、議事機関(公議所)の東京設置など、着々と首都機能がなし崩し的に東京に移っていく。
そうした中で東京再幸が行われる際には国家の最高機関である太政官を東京に移し、京都には留守官を置くことが発表される。半年後には皇后も京都から東京に移される。
再行幸で明治天皇が東京に着いた1869年(明治2年)3月28日には東京城に改めた江戸城を再度『皇城』と改め、1888年(明治21年)からは 『宮城』と呼ばれることになるが、その後第二次世界大戦の敗北で大日本帝国が崩壊、1948年(昭和23年)から『宮城』の名称が使えなくなり今のような『皇居』になるが、いずれの段階でも誰からも(都を京都から別の場所に移す)『遷都』(せんと)の言葉は使用されなかった。(正式な遷都宣言が無い日本国の首都東京ですが、これは長年連れ添っているが正式な婚姻届をしていない『事実婚』のような話である)
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『もしも「効率優先」だけなら 今まで日本が進めていた東京一極集中(中央集権化)の方が正しいのだが、』
『中央官庁の地方移転では、必ず機能が低下する(移転先が便利になる分、それ以外では不便になる)ことが予想される』
明治維新以来150年間も増え続けていた日本の人口が今回初めて減少に転じている(94万7千人減、日本の全人口の0,7%)。日本全体で全国的に住民が減少している中でなんと東京圏だけは人口が逆に増えていて、ますます東京一極集中が進んでいる。(もし『効率』だけを目的にするなら軍隊式のピラミッド型中央集権が正しい)本社を大阪から東京に移転する大企業ですが、その方が会社として効率が良いからであり人口の移動も同じで同一労働でも東京の方が賃金が高い。
明治維新による148年前の出来事は東京遷都ではなく、1868年東京奠都(てんと)だったと明らかにした毎日新聞のコラム『余録』(2016年2月27日)ですが、続けて文化庁の京都移転や消費者庁の徳島移転を書いている。
文化庁の京都移転の方は今までも何回かマスコミに報道されていた内容なので驚くにあたらないが消費者庁の徳島移転は大手メディアでは初見である。(以前にもエロ系メディアの日刊ゲンダイが一回報じているが何とも消極的な内容だったし共産党機関紙赤旗の場合はもっと否定的、『中央官庁の地方移転では機能が低下する』とはっきりと反対する姿勢だった)
東京遷都(せんと)なら日本の正式な『首都』は一つだけ(東京)である。
ところが毎日新聞2016年2月27日コラム『余録』がいう『奠都』(てんと)だと 関東の東京は臨時首都であり、今でも日本の正統な『都』は依然として関西の京都だったことになる(日本の首都として東京と京都の二つが並立する)
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