ようこそ
また、また、闘病日記を書く事になってしまった。2か月ほど前より腰痛に悩まされていたが、仕事の関係で少し無理をしながら、だましだまし仕事に取り組んでいた。
同業他社の買収の仕事で、色々と微妙な関係が続いていたが、ようやく売買契約も終了し、9月1日より合併しての本格的な業務に取り組んでいたが、どうも最近は何時もと違う体調不良に悩まされていた。
しかし、大切な時期でもあり休んでいる暇はない。何とか買収先の事業を引き継ぎ、新たな社員の雇用も増える中、体制を整えて通常営業を目指さなければ。しかし、体は悲鳴を上げていた。悲鳴というより限界に達していた。
そんな中で、ついにその時が来た。
9月17日の朝、何時ものように起き上がろうとすると、右足に激痛が走り起き上がることも出来ない状態に。普段は2階に寝ているのだが、妻を呼んで手助けをしてもらい、1階の居間にたどり着くも、何時もの痛みとは明らかに違うことを感じ取っていた。朝食も取らずに、案じる妻を振り切り、取り合えず車に乗り込み出勤する事に。普段なら20分ほどの道のりだが、何度も車を止めて、ようやく無事に会社に辿りついたが、時計を見ると1時間が経過していた。早速に妻に無事に到着した事を連絡した。心配をしていた様子が電話口より感じ取れる。
しかし、車から一人で降りる事も出来ないくらいに激痛が襲い掛かってくる。すでに脂汗でベチャベチャになっている。息子である社長に携帯から緊急事態を連絡し、会社の2階の私の部屋へ担ぎ込んでもらった。大勢の社員も心配そうに取り囲んでいる。朝は、最も忙しく慌ただしい時間帯である。気遣いに感謝しながら、持ち場に戻っていただいた。
以前から腰痛の兆候を感じていたので、市内のクリニックの電気治療には何度か通院していたが、改善する気配はなく、そこは医者を頼った方が良いと判断し、会社の近くの整形外科医を受診しようと決めた。
その間も自室のソファーに横になっていたが、収まる気配はなく激痛が続く。午前中の整形外科の外来受付時間は11時30分まで。既に10時30分を超えている。辛抱出来ずに息子や社員にお願いをして、11時15分に駆け込んだが、車から降りる事もままならない状態である。異常な光景を見つけて、看護士さんが3名飛び出して来て、車いすを準備してくれたが、それに移動する事も出来ない。結局、車いすは無理と判断して、歩行器に変えてもらい院内に抱えられるように運んでもらった。痛みもピークを迎えている。気絶しそうなくらいの激痛だ。結局は院内の待合室の床に倒れこみ、指示を待つことに。息子や店長の顔も強張っているのが感じ取れた。「申し訳ない」と呟いた。厄介な「おじさん」の姿である。待合室で順番待ちをしている患者さんの驚いている様子も感じていた。
長男の嫁の従妹が、このクリニックで看護士をしていた関係で、優先的に順番を回してもらい、レントゲン撮影を行い骨に異常が無いことは告げられたが、MRIの撮影が必要との事で、近くのクリニックに問い合わせをしてもらったのだが、予約が多く混雑しているとの事で、29日まで待機してほしいとの事で、一旦は会社へ戻ることとなった。29日と言えば、まだ10日以上先の話である。気の遠くなる待ち時間だ。
何度も大病を経験してきた私でも、流石にこの激痛は耐えられる限界を超えていた。限界と言うより恐怖と言った方が正しいのかも知れない。帰りも多くの看護士さんに応援をしてもらい車の場所に移動するも、乗る前に駐車場の地面に横たわってしまって動けない。来院される患者さんも驚きの表情を隠せない様子である。
何とか会社にたどり着き、屈強な男性社員3人と店長に担ぎ上げてもらい、2階の自室にようやくたどり着く事が出来たが、治療が行われたわけではなく、痛み止めの座薬と飲み薬を処方してもらったが、ほとんど効果は無く、苦痛な時間だけが過ぎていく。とにかく身動きすら出来ない状態である。
今日は、ユラクの来春の新入社員の内定者の会社見学の訪問依頼を受けていた日でもあり、毎年は私が「ほーゆー」の事業内容を説明していたのだが、当然対応できる状態ではなく、社長である息子と店長に変わってもらい盛況な中で無事に事なきを得たと聞いた。今後は、この仕事も世代交代をしてもらうことにした。
痛み止めの薬の効果に期待しつつ、時間稼ぎをしたが改善はせずに18時を回ってしまった。そんな時に携帯に着信があり、通話してみると整形外科クリニックからの電話で、「29日に予定していたMRIの検査に空きが出て、明日の9時ではどうですか。「」との事。」「あきらめていた検査が受けられる」と思い二つ返事でお願いをした。天にも昇る希望に満ちた気持ちになった。妻の迎えを待ち長男の手助けも受けたが、妻の力ではどうにもならずに、とうとうローカに倒れこみ身動きの出来ない状態となってしまった。万事休すである。
思い切って息子に救急車の依頼を要請してもらい、10分くらいは経過しただろうかけたたましい救急車のサイレンが会社の前の駐車場で止まった。激痛は相変わらずだが、「救われた「」と思った瞬間だ。ストレッチャーに載せられ、息子も含めて救急隊員3名の4人で階段を担ぎ下ろしてもらい救急車へ運んで頂いた。激痛は相変わらずだが、救われたと感じた。妻が救急車の助手席に同乗し、息子は会社の車で追従する。車内では色々な体調の質問を受けたが、今となっては記憶にない。体調を調べる機器も取り付けられ、公立豊岡病院へと緊急搬送される事となった。救急車での緊急搬送は、数年前にも経験していたので、今回が2回目となる。多くの皆さんにご迷惑をかけて「本当に申し訳ない」他人事と思っていた事態が、最近は加齢と共にお世話になる事が増え、大いに反省している。
緊急搬送先の公立豊岡病院は、会社から5分程度の近距離にあり、地域の拠点病院に指定されている総合病院であり、5年前の膀胱ガンや前立腺ガンなどの手術や、抗がん剤治療を受けた病院で、慣れ親しんだ病院でもある。
到着すると、看護士の皆さんが待ち構えていてくれ、ストレッチャーから病院のベットへ移動し、応急処置室へと運ばれた。血液検査や血圧測定を終えて、CT検査へと向かい痛み止めの点滴を1時間受けることになった。その間もぞくぞくと緊急搬送されてくる患者さんにも遭遇する。異様な雰囲気の処置室である。喚き散らす人。唸り声を出す人。暴言を吐く人。などそれぞれに壮絶だ。これが緊急処置室の実態だ。仕事とはいえ大変な業務である。もちろん平常を装ってはいるものの、私の激痛も収まらない中、時間だけは刻刻と過ぎていった。
痛み止めの点滴も終わり、追加で錠剤の痛み止めを服用した。気づくと3時間は経過したのだろうか担当医の先生から、整形外科のクリニックから、豊岡病院の整形外科に転院するように勧められたが、明日のMRI検査の件を伝えると、豊岡病院もMRIの検査は予約でいっぱいだそうで、クリニックでの検査を勧められた。「立てるようでしたら帰宅していただき、明日はクリニックでの検査を受けてください」との事。
痛み止めの効果が出てきたのか、何とか立つことが出来て診察室を後にした。外では妻と長男が待ち構えていてくれ、会社の配達用の箱バンで寝転んでの帰宅となった。既に11時は過ぎていただろうか、自宅の居間に布団を敷いてもらっていたので、そちらで寝る事となった。
一日が、30時間にも40時間にも感じられる恐怖の一日であった。
次回は、2日目以降の闘病生活を綴りたいと思います。
皆さんもお気をつけて、お大事に。
では又ね
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