元職場の、飲み会開催。
召集がかかる。
4年に1度の召集。
まるでオリンピックですっ。(笑)
専門学校を卒業して、たった1年しか就職してなかった若輩者の私を、
15年経った今でも気にかけてくれている職場のチーフ、先輩。
辞める時の【お別れパーティー】は、ブチャイクな私がさらにブチャイクになって号泣したのを覚えてる。
職場を辞めてからも、辛い時、苦しい時、いつも励ましてもらった。
実家に帰った年に、あまりにも現実が辛くて嘆いていた時、
『本当にもうだめだっ!ってお前が思って、家を出るんやったら、
いつでも頼ってこい! お前一人ぐらい俺が何とかしたるっ。』
その言葉で、もう少しがんばってみよう!って思えた。
店を辞めてから、入社した後輩(勝手に読んじゃってるけど)も、共に働いたことがないのに、
私に敬語を使って、4年に1度会うときにはきちんと接してくれる。
就職当時、男ばかりの職場で、紅一点。
紅一点の私は、創業以来、諸先輩方がしたことのない、ありえない失敗を重ね記録更新。
いつもチーフに怒られてた。
3~4年働くつもりだった私が、家庭の事情で、たった1年で帰ることが決まってから、
不甲斐ないペーペーの私に
『何かこいつに一つでも、仕事をおぼえさせて帰らそう。』
と指導してくれたチーフ。
いつも段取り悪くて、迷惑ばかりかけた私に『イラッ!』ってきながらも、
面倒を見てくれた、かっちょ良くて優しい先輩たち。
厨房の中から見たホールのバイトの女の子達は、皆同年代。
可愛くて、優しくて、あの頃の私には眩しかった。
同じ歳の子達を、憧れの目で見ていた。
2ヵ月後には地元に帰ることが決まった私は、地元の成人式に出席せず、
1月の夕方仕込みで、昨日とかわらずの時間を過ごしていた時、
社長夫婦が用意してくれた
『祝! 成人』の文字の書かれたケーキ。
あの時、心から『ここに就職できてよかった!』って思った。
4月に入社して、その年の夏に『来年の3月に実家に帰る。』と決まってから、
仕事量が増え、
自分の不甲斐なさで、チーフに叱られることが多くなり、先輩にも迷惑をかけ、
何度もボロ安アパート
(今は、取り壊しなくなってる。)で泣いてた毎日だったけれど、
心から、『この人たちと出会えて本当に良かった。』って、
嬉しくて、嬉しくて、みんなの優しさがありがたかった。
『もう少し、この職場で働きたい。』って思ってしまった。
実家に帰るきっかけになった、父の容態の悪化。
電話口の母が、涙声で『帰ってきて欲しい。。。』って言った夏、
父の容態もあったのだろうけど、介護と仕事をこなしていた母が精神的にいっぱいいっぱいだったのは、
実家に帰った後に分かった。
あの夏二人で、どうにもならない現実を思って電話口で泣いていた。
実家に帰ることを東京にいた兄に告げて、兄弟げんかになったりもした。。。
(今でもやっぱりこれはむかつくっ!笑)
そんなこんなで、いろいろあった就職時代。
時代は『平成』の話なのに、なぜか昭和?の話じゃないかと思ってしまうほどの、
人情味あふれた就職時代(それも経った1年)。
早朝の、工場でのシュウマイ製作があったり、
店が暇なとき、先輩と二人っきりの厨房で、社長が居ない事を良いことに、
まかないで特上カルビを食べてしまったり(これもう時効だよね?爆)、
たった1年しか働いてなかったのに、ちゃっかり寝坊で出勤遅れをかましちゃってるあたり、
『女は愛嬌!』の母の教えを守り、世渡り上手ですくすく育ってることに気づかされる。
(そう思うのは私だけ?)
就職でこんだけ語れるって事は、父が交通事故をして下半身不随になり、
町の学校から田舎の学校に転校した小学生時代なんてもう『北の国から』を
見るだけで、しゅんと蛍に感情移入しすぎちゃうぐらい感情移入。
(ドラマのような、色恋話がないところが現実は厳しいって思うけど。。。)
いやぁ~、昭和っていい時代でしたっ。
(アラサーバンザイ!)
どこからともなく、『氷雨』が聞こえてきそう(笑)。
誰にだって、いろんな人生がある。
楽だったり、辛かったり。
幸せも不幸も、生きてる限り、きっとどんどんやってくる。
明日はどうなるかわからない、紙一重の中の人生を生きている今だって、
立ち止まってふっと『幸せってなんなん?』って思い悩むことが、
そう思い悩める事自体、本当は幸せな気がしたり。
ただ今夜は、
昨夜も含め、さっきから地震でチョイチョイ家が揺れているので、不安に思っての消灯です。
召集がかかる。
4年に1度の召集。
まるでオリンピックですっ。(笑)

専門学校を卒業して、たった1年しか就職してなかった若輩者の私を、
15年経った今でも気にかけてくれている職場のチーフ、先輩。
辞める時の【お別れパーティー】は、ブチャイクな私がさらにブチャイクになって号泣したのを覚えてる。
職場を辞めてからも、辛い時、苦しい時、いつも励ましてもらった。
実家に帰った年に、あまりにも現実が辛くて嘆いていた時、
『本当にもうだめだっ!ってお前が思って、家を出るんやったら、
いつでも頼ってこい! お前一人ぐらい俺が何とかしたるっ。』
その言葉で、もう少しがんばってみよう!って思えた。
店を辞めてから、入社した後輩(勝手に読んじゃってるけど)も、共に働いたことがないのに、
私に敬語を使って、4年に1度会うときにはきちんと接してくれる。
就職当時、男ばかりの職場で、紅一点。
紅一点の私は、創業以来、諸先輩方がしたことのない、ありえない失敗を重ね記録更新。
いつもチーフに怒られてた。
3~4年働くつもりだった私が、家庭の事情で、たった1年で帰ることが決まってから、
不甲斐ないペーペーの私に
『何かこいつに一つでも、仕事をおぼえさせて帰らそう。』
と指導してくれたチーフ。
いつも段取り悪くて、迷惑ばかりかけた私に『イラッ!』ってきながらも、
面倒を見てくれた、かっちょ良くて優しい先輩たち。
厨房の中から見たホールのバイトの女の子達は、皆同年代。
可愛くて、優しくて、あの頃の私には眩しかった。
同じ歳の子達を、憧れの目で見ていた。
2ヵ月後には地元に帰ることが決まった私は、地元の成人式に出席せず、
1月の夕方仕込みで、昨日とかわらずの時間を過ごしていた時、
社長夫婦が用意してくれた
『祝! 成人』の文字の書かれたケーキ。
あの時、心から『ここに就職できてよかった!』って思った。
4月に入社して、その年の夏に『来年の3月に実家に帰る。』と決まってから、
仕事量が増え、
自分の不甲斐なさで、チーフに叱られることが多くなり、先輩にも迷惑をかけ、
何度もボロ安アパート
(今は、取り壊しなくなってる。)で泣いてた毎日だったけれど、
心から、『この人たちと出会えて本当に良かった。』って、
嬉しくて、嬉しくて、みんなの優しさがありがたかった。
『もう少し、この職場で働きたい。』って思ってしまった。
実家に帰るきっかけになった、父の容態の悪化。
電話口の母が、涙声で『帰ってきて欲しい。。。』って言った夏、
父の容態もあったのだろうけど、介護と仕事をこなしていた母が精神的にいっぱいいっぱいだったのは、
実家に帰った後に分かった。
あの夏二人で、どうにもならない現実を思って電話口で泣いていた。
実家に帰ることを東京にいた兄に告げて、兄弟げんかになったりもした。。。
(今でもやっぱりこれはむかつくっ!笑)
そんなこんなで、いろいろあった就職時代。
時代は『平成』の話なのに、なぜか昭和?の話じゃないかと思ってしまうほどの、
人情味あふれた就職時代(それも経った1年)。
早朝の、工場でのシュウマイ製作があったり、
店が暇なとき、先輩と二人っきりの厨房で、社長が居ない事を良いことに、
まかないで特上カルビを食べてしまったり(これもう時効だよね?爆)、
たった1年しか働いてなかったのに、ちゃっかり寝坊で出勤遅れをかましちゃってるあたり、
『女は愛嬌!』の母の教えを守り、世渡り上手ですくすく育ってることに気づかされる。
(そう思うのは私だけ?)
就職でこんだけ語れるって事は、父が交通事故をして下半身不随になり、
町の学校から田舎の学校に転校した小学生時代なんてもう『北の国から』を
見るだけで、しゅんと蛍に感情移入しすぎちゃうぐらい感情移入。
(ドラマのような、色恋話がないところが現実は厳しいって思うけど。。。)
いやぁ~、昭和っていい時代でしたっ。
(アラサーバンザイ!)
どこからともなく、『氷雨』が聞こえてきそう(笑)。
誰にだって、いろんな人生がある。
楽だったり、辛かったり。
幸せも不幸も、生きてる限り、きっとどんどんやってくる。
明日はどうなるかわからない、紙一重の中の人生を生きている今だって、
立ち止まってふっと『幸せってなんなん?』って思い悩むことが、
そう思い悩める事自体、本当は幸せな気がしたり。
ただ今夜は、
昨夜も含め、さっきから地震でチョイチョイ家が揺れているので、不安に思っての消灯です。