仏教と儒教~輪廻転生~
もうずいぶん昔になるがとても興味の魅かれる面白い本に出合った。
儒教における宗教的な面について述べたものであるのだが・・・・・
輪廻転生と先祖の供養
我が国の仏教は釈迦の説いた仏教とは全く違ったものになってしまっている様である。
我が国の多くの人々は仏教徒ではないにしても、仏教を信ずる人々と思われている。
多くの家庭では亡くなった先祖の回忌供養を仏教的に行っていると思う。
先祖の崇拝である。
輪廻転生、先祖供養とも釈迦の説いた仏教の根本だろうか。
釈迦は死後の世界はないと思っていたらしい、死後の世界については沈黙を守っていたという。
弟子の質問にも口を噤んでいたという。
何も言わないということは、死後の世界について、一切考えるな、というのが、釈迦の教えなのだろう。
死後の世界は考えるな。
黄泉の国は神話の世界。
この世に生あるものでは絶対に解き明かすことのできない世界。
そんなものを詮索して悩むなど愚の骨頂。
と言うことは、輪廻転生とも先祖供養とも矛盾する様に見える。
いや、見えるというよりも明らかに矛盾する。
輪廻転生は仏教の根本だろう。
死後の世界は森羅万象、生きてるもので、如何なるものも経験したものはいない。
だから、釈迦とて死後の世界があるとは言えないのだろう。
だが、釈迦は、善業を積んだ人間は死後に天上に生まれ、悪業を積み重ねた人間は死後に地獄に堕ちると言っている。
天国だとか地獄は明らかに死後の世界の事。
これは死後の世界の有無を、考えるな、ということと矛盾する
また、浄土と言う言葉も使っている。
この浄土と言うのも此岸の世界ではなく、彼岸の世界。
これはどの様に考えればいいのだろう。
これは仏を信ずるものすべてが、いや仏の言わんとすることを頭で理解できるものばかりとは限らない。
無知なものもいれば、理を尽くして説いても理解のできないものもいる。
その様なものに対して比喩的に話す必要から使われたものではなかろうか。
極楽浄土にしても、仏教では此の世は、苦の世界と言っているのだから、仏を信じることにより、生まれ変わりは極楽浄土と言えば、安らぎを得ると考えたのだろう。
仏教の重要な経典の一つに法華経がある。
この経典には比喩がたくさん使われている。
仏の言わんとすることを思想的に説いて理解できる者ばかりとは限らない。
仏教で、輪廻転生を基にすれば、魂として残るのは四十九日まで。
それ以後は、いずれかへ転生するか、成仏すると考えている。
転生してしまえば、先祖でもなんでもなくなってしまう。
成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことである。
成仏したものは、仏として崇めればいい。
それ故、この考えを貫けば、先祖の礼拝も、供養も、況して墓などの必要なくなってしまう。
仮の姿であった、現世の姿は、死後は単なる抜け殻・・・・
焼いて灰になったものは土と同じ、河へ流そうが、海へ撒こうが、一向に構わないことになる、土にかえると言われる由縁であろう。
インドではこの考えが徹底している。
抜け殻は河へ流してしまう。
転生とは魂が再び何らかの身体をもった存在となることだとすれば、死者の魂が何時までも此岸の人間と関わりをもち続けるということもない。
死者は四十九日で転生すると言われていることを思うと、生きてるものは死者とは四十九日が過ぎれば縁が切れるのだから、先祖の祭祀も必要なくなってしまう。
四十九日までは、逝ったものが天上へ召され、、成仏するよう祈ってやるのが生きてるものの最後の務めなのであろう。
これが仏教の根本をなす輪廻転生であると言われている。
それ故釈迦は死後の魂、霊魂と言うものも認めてはいないのだろう。
では輪廻転生するものは何に転生するのか、人間に生まれ変わるとは限らない・・・・・
それがわからない。
人間に生まれ変わったとしても、人間の世は苦の世界。
釈迦自体も悟りを開き、解脱するまで、輪廻転生を繰り返していたと言われることが多い。
悟りを開き解脱するまで転生を繰り返すことになる。
多くの人は葬儀で焼香して拝むのは、誰を拝んでいるのだろうか。
多くの人は亡くなった人の冥福を祈るといい、それ以外は考えたこともなかろう。
祭壇の前に据えられた棺の中の遺骸を拝んでいるのだろうか。
仏教的には棺の中のものは、もう抜け殻でしかない。
それとも、逝った人のそこいらを彷徨う魂に祈りをささげているのだろうか。
拝むのは祭壇の奥にある本尊であるべき・・・・これが仏教的には正しい。
人それぞれの心の内にある、仏に祈りをささげる。
ではキリスト教などでは、神父の話を聞きながら、誰に何を祈っているのであろうか。
偶像崇拝を認めないキリスト教などでは、人それぞれの心の内にある神に祈りをささげるということであろう。
神に祈るとしても、それぞれの心の中に思い描く神は人それぞれの神。
願いを聞き届けてくれた神、危急を救ってくれた神、裏切られた神、人それぞれの心の中にはそれぞれの神がいる。
キリスト教では最後の審判での復活がある。
だから、火葬にすることは、余程の事でない限り行わない。
だから毎年命日には祈りをささげているという。
我が国などでも、天照は一人のように見えて、人それぞれの中に、それぞれの天照がいる。
それぞれの人の心の中に棲む神、人にはどんな神が住んでいるのか、計り知ることは出来ない。
閑話休題、何故先祖の供養と言って、仏教を信じていると言われる我が国の人々は回忌供養を執り行い回向しているのだろうか。
我が国の人々のほとんどは、先祖の回忌供養をし、お盆には迎え火を焚き先祖の霊を迎えている。
仏教自体の教義からは考えられないことである。
これについては、儒教が影響しているのだという人がある。
確かに、仏教が中国へ入った時、儒教の影響があったの否めない。
その仏教が、我が国へ伝わった時、我が国独自の儒教的影響を受けたとしても何の不思議もない。
儒教は儀礼性を教えるものだと思っている人も多い。
確かに論語などを読むと、儀礼とか政治とのことが多いように思う。
だが、仁義礼智信、および忠孝悌の五常八徳は陰陽五行の思想からよく言われる言葉ではあるが、この孝が重要な意味を持つ。
この孝は単に親孝行と言うだけのものではない。
孝の実践的な要請は、祖先祭祀と言うか、先祖供養、親への孝、すなわち父母の敬愛、子孫の繁栄である。
家族とくに親子関係を基軸とする、儒教独特の家族主義的な道徳体系が成立する、というのである。
尤も、お盆には供養をし、回忌の供養をするのは、生きてるものの心の負担を軽くするための単なる儀式と成り下がってはいるのだが・・・・・
いずれにしても、世の宗教と言われるものは、いずれのものも、愚だ愚だと色んなものを並べ立て、その根本原理と言うものを明確には示していない。
仏教者だと偉そうなこと言ってる坊主にしても、根本は何か、と聞いても明快には答えてくれない。
枝葉末節の事を愚だ愚だ並べたてるのが関の山、ちっとも根本には触れていない。
だから色んな奴がいろんなことを言って、その大元の教祖が、仏教では釈迦が本当に言いたかったのは何か、何を云いたかったのか、まるで分らないものにしてしまっている。
仏教の根本原理は何、と問うても帰ってくる言葉は数限りなくある。
いずれにしても、今の我が国の仏教は、釈迦が説いた仏教の根本から外れてしまっている、と思ってる人は多い。
儒教の宗教的部分が、色濃く反映していると言われても弁明に苦しむことになる。
釈迦にしても、キリストにしても、いかに優れた頭脳であっても、人間の浅はかな頭で考えた事柄には、計り知れない矛盾が、欠陥が含まれていることは否定できない。
その矛盾のために、その矛盾を繕うために、それを信じた後世の人間が苦しむことになる。
その矛盾や欠陥をどの様に取り込むかは、人それぞれの考え方に掛かっている。
善人は天国、悪人は地獄、輪廻転生といったところで、頭の中の出来事に過ぎない。
参考文献
儒教とは何か 加地伸行著 中公新書