徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

人間の資質 ~上杉鷹山~

2020-01-18 12:00:00 | 随想

過去にいた数少ない傑物の一人である。

疲弊した国を立て直すには優れた指導者が必要である。

東洋の海の中に浮かぶ小さな国の、己のことしか考えないような欲惚けの指導者では国を立て直すことは不可能である。

遠い昔、江戸の頃、過っては信玄という優れた指導者の下に栄えた国が、

国土が縮小されたにもかかわらず、以前のままの政を行って、倒壊寸前の状態にあった。

そんな倒壊寸前の過去の大藩に九州日向の小藩から婿入りした。

鷹山は引退後の号で、藩主時代は治憲を名乗っていた。

鷹山の藩政改革は現役時代と隠居後の時代に区別できる。

藩主の座にあったのは 十八年ほどで、三十数歳の若さで隠居、藩主の座を義父の次男に譲り渡している。

その後は治広を助けて、改革を続行した。

藩主の座を譲り渡したとき治広に伝国の辞と称される言葉を残しているのは夙に有名である。

 

上杉治憲が十五歳で藩主になったとき、その心境と覚悟を詩に詠った。

 

~受け継ぎて、国の司の 身となれば忘るまじきは 民の父母~

 

次いで

謙信をま祀ってある、春日社に誓文を奉納した。

 

  1. 文学、壁書の通り、怠慢なく相務め申すべく候
  2. 武術、右同断
  3. 民の父母の語、家督の砌詩にも読みそうらへば、このこと第一に思惟仕りべきこと
  4. 上に居りて驕らざればすなわち危うからず、また恵みて費やさずと之あり候語、日夜相忘るまじく候
  5. 言行斉はず賞罰正しからず、不順無礼之なきよう、慎み申すべく候

右、以来堅く相守り申すべく候。もし怠慢仕るにおいてはたちまち神罰を蒙り、永久に家運尽くべ着物なり。仍って件の如し

 

この誓書は誰かに見せようと書かれたものではない。

治憲自身が神の前に誓ったものだ。

神に誓うには、自ら謙虚でなくてはならない。

治憲自身己は怠りやすい、謝りやすい人間であること、その弱さを戒めようとして、神の前に誓ったものであるらしい。

 

~受けつぎて 国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母~

 

その時に読んだと言われている。

 

国の司とは国主すなわち藩主であろう、その藩主とは民の父であり母。

自分がその地位に就いたからには、民の父、母としての心がけを片ときも忘れるまい、との決意したのだろう。

治憲が米沢藩の藩主となった当時、借財は膨大なものであり、国内でもっとも貧しい藩と揶揄され、

重税にあえぐ農民は土地を捨てて逃げ出すほどだった。

江戸時代農民の逃散は固く禁じられていた。

十五歳で藩主とはなったが、十九歳で初めて藩主として米沢入りした。

それと同時に治憲は倹約令を発する。

自らも、食事は一汁一菜、ふだん着は木綿、生活費をそれまでの七分の一に切りつめたと言われる。

藩政改革への強い意志を示したのであろう。

どこかの国の阿呆のように、政治には金がかかるといって、民百姓から金を巻き上げる馬鹿はしなかった。

藩の繁栄は、民の心身の健康と為政者への信頼がなければ達成できない。

このことを明確に意識していたのだろう。

 

何処にも阿呆はいるもので、鷹山のこの時も七家騒動が起きている。

このとき鷹山は、二名を切腹に、五名を追放した。

今のように、失政を行っても退職金をせしめて、職を辞するだけで平然としていられるような時代ではなかった。

改革派近臣に発覚した収賄の不正に容赦せず、禁固処分にするなど厳しい処分を行った。

人事に公平公正を欠けば、組織は内部から瓦解する。

部下は、人事のありようにトップリーダーの器量を推し量るものだ。

そして鷹山は、財政、産業、教育の改革にも手を付け、民衆の意識改革すなわち既成概念や慣行の払拭に取り掛かった。

 

改革の指導についての鷹山の事績は,藩主の時代と隠退後の後見役としての時代に分けられる

鷹山が藩政建て直しに着手してから50余年、米沢藩の借財はほとんど返済されたうえ、蓄蔵するまでになったといわれている。

 

「してみせて、言って聞かせて、させてみる」。

藩主を頂点とする身分階層制が確立した江戸中期に、鷹山ほど柔軟な発想を持ちえた為政者はまれである。

既成概念に凝り固まり、己の利益追求に躍起となるような輩には政治は無理である。

引退したときに治広に与えた伝国の辞はことに有名であるが、それについてはまた別に記してみようと思う。