徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

聖徳太子の人間性と人間観

2020-01-11 13:33:11 | 随想

~聖徳太子に嫉妬する現代官僚~

 

昔から様々なお札の顔になった聖徳太子。

千四百年に亘って、多くの人々から尊崇を集め、太子信仰は現代の今も我々に大きなロマンを与えている。

太子は用明大王の皇子として生まれ、厩戸の皇子とか、豊聡耳皇子と呼ばれたように小さなころから耳聡く、聡明な子であったと言われている。

我々が最も親しんでいる聖徳太子と言う名は、太子の死後に、その遺徳をたたえて送られた諡号である。

それ故生前の太子の名は厩戸皇子と呼ばれている。

彼の青年期は父の用明大王が早逝した後、物部氏と蘇我氏との熾烈な戦いの真っただ中であった。

皇子には蘇我の血が流れており、必然的に蘇我と物部の戦いに巻き込まれていった。

物部が蘇我に滅ぼされた後は、蘇我馬子の権力が猛威を振るい、おのれに添わないものは大王であろうと、皇族であろうと次々に殺戮された時代であった。

馬子は大王を操り人形の様に傀儡大王を操る大臣として権勢をふるっていた。

古代の政治形態は大和政権が出来た当初から、天神地祇の主宰者として祭り上げられた大王を頂点にした、豪族連合政権であった。

大王は神祇主宰者ではあっても政に関しては権威も権力も持っていなかった。

厩戸の皇子の少年期から青年期に掛けての政治の中心は守屋を滅ぼして以来、蘇我馬子で、大臣としてすべての権限を握っていたといっていい。

 

ここで厩戸の皇子について述べようというのではない。

今から何年か前日本の学校教育の教科書から、聖徳太子の名称を消そうという語論が国会などで侃々諤々議論されているという。

政治屋っていうのは何とも暇を持て余す職業らしい。

この聖徳太子という名称を消すという話しはもう何年も前の事だから、すでに消えてしまったのかどうかは知らない。

聖徳太子が為したという偉業に対する、みすぼらしい嫉妬。

国家を動かそうかという職業ならもっと建設的な事項について、精力をつぎ込んでほしいものである。

どうせこんな議題は文部省の役人ばらが言い出したことなのだろうが、今の日本そんなくだらないことに精力をつぎ込むほど安穏ではなかろう。

 

彼が推古天皇の摂政として行った様々な事跡は彼一人で行ったのではないとして、聖徳太子の尊称は必要ないとして、

聖徳太子と言う名称を消してしまおうと、学説ともいえないようなことを宣う御仁がいる。

その尻馬に乗って歴史の教科書から、聖徳太子と言う文字を消してしまおうと文部官僚が阿呆丸出しに考えているという。

役人という生き物の、人間としての器の小ささが見えている。

太古の事跡は殆どが推測であり、文書が残っているような形跡があってもそれがどれ程の信憑性があるか、それさえも推測の域を出ない。

日本国の正史だといっている日本書紀にしてからが、その内容が真実を書いているという根拠になるものは何もない。

中国の史記と比べる価値もない、役人のいう日本の正史。

拙劣な文章、必要も無いような出来事を延々と並べたて、他の残存する史料と比べても、食い違いの多い書であることは歴然としている。

太子には3人の側近、ブレーンがあったといわれているが。高句麗の慧慈、それに新羅系渡来氏族である秦河勝、は確かであるが、

あと一人は確かではないが、百済系と思われる覚、だと言われている。

彼の事跡として挙げられるのは「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」

などであるが、これを一人でやったとは思えないというのが聖徳太子を消そうという理由としている。

これらのものを厩戸の太子が完全に独裁して作り上げたと思っている方が間抜けなのであり、当時の政がどの様であったか考えれば、

一人でやったかどうかなどと言う阿呆な考えは出てこないのは明らかであろう。

聖徳と言う尊称を与えた人々も、これらが厩戸の皇太子がこれらすべてを独裁したとは思って尊称を与えたわけではない。

と言うよりも蘇我馬子の権力は大王を凌ぐものであり、己の政に邪魔になる者は、大王であろうと皇子であろうと、何人も弑逆してきた。

第一候補であった豊御食炊屋姫の皇子、竹田の皇子が死して以来、

厩戸の皇子が泊瀬部大王が弑逆されて以後空位となっている大王位に付くように馬子に迫られていたことは明らかであろう。

厩戸にしてみれば己の抱いていた理想を実現するためには、大王位に付くことは不利であると考えていた。

当時の状況を考えると、厩戸の皇子が大王位に付いても、蘇我馬子の傀儡になることは明らかであることを見越していた。

それをブレーンと協議しながら、拒否し続けた。

馬子を立てて皇子の立場から馬子を説得する方法を選んだと思える。

これらは、彼のブレーンとも意見の一致を見ていたと思われる。

尊称を消そうとしている者たちにしても、確かな証拠があって言い出した事ではない。

これだけの、大きな事業は厩戸皇太子一人では出来なかったろうと、己の能力と比較して言い出した事であり、

厩戸の人間としての器の大きさを、現代の己の人間としてあるいは学識と比較しているのだろう。

大体がそれ自体が不遜なのであり、聖徳太子と人々に崇められ、尊称をたてまつられた人間とは器が違う、人間の質が違うということを考慮に入れる必要がある。

それさえできない様な人間が彼一人の事跡ではないなどと言うこと自他、人間の器の狭小さを思い知るべきであろう。

おのれの小さな器で、聖徳太子という大きな器を量ろうとすること自体が無謀なのであり、不遜なのである。

この様なことを言い出す輩の能力など、厩戸皇子の人間性や言われている能力と比べると、宇宙の塵ほど大きさもなかろう。

太子は当時としては全く異例ともいえる様な考えを持っており、人間の平等を主張している。

勿論この彼の言う平等は現代における平等とは全く違ったものであはあるが・・・・・

その現代の平等とて、人間すべてが平等に扱われているかと言えば決してそうではない。

現代の人々はみな平等と思っているかもしれないが、決して平等には扱われてはいない。

聖徳太子を抹殺しようとする者が挙げている十二冠の官位について述べるならば、厩戸は成年に達する前から氏族中心の世の成り立ちに疑問を抱いていた。

強力氏族に属する者は阿呆でもチョンでも、労することなく民草を酷使し、能力のあるものでも決して上へと行くことは出来ない仕組み、

そんな仕組みを少年の頃ころから気づいていた厩戸は、慧慈と言う師を得て、中国や朝鮮三国の文化を吸収し、己の内に同化して、官位制度について研究していた。

この当時の倭の国は中国や朝鮮三国の文化とは比べ物にならない程遅れていたことを厩戸は十分に承知していた。

当時の道家の思想も民の長寿と幸せを根本にしている。

諸豪族が莫大な財を蓄え、生を満喫できるのも民草が働くからである。

民草が働くからこの様な生活が出来る。

だが諸豪族は民草が牛馬のように働くのは当然の事と思っている。

だがこれは間違っている、能力のあるものはそれなりに上へと昇ることが出来る様にする必要がある。

これが厩戸の皇子の人間観であり、当時の、いや現代にも通用する人間観である。

これが官位を作り出す厩戸の理想の一つの源になっていた。

官位にしてもどの様に権力者馬子を説得するか、ブレーンと協議したことであろう。

当時の高句麗の官位制度は十二階級、百済の官位制度は十六階級。

この官位制度に習熟していない我が国で十六階級もの制度は煩雑と思った厩戸は、高句麗の十二階級を選んで、その名称をどの様にするか悩んだ。

恩と徳は中国から入った思想であるが、恩は慈しみ、恵みであり、仏教の思想の影響を受けている。

徳は儒教の思想であるが、当時の道教に於いても最も大切なものとされている。

厩戸は師の慧慈から道教についても教えられ道教思想にも精通していたと思われる。

因みに、慧慈は、飛鳥の時代に高句麗から渡来した僧で、厩戸皇子の師である。

儒教に於いて人の守るべき、仁義礼智信は五常の道であるが、前漢の武帝の時,天子の道ともされたと言う。

そして天子が五常の道を治め得たら、徳は広く一般に及ぶ様になるというのである。

厩戸はこの五常が後漢の頃、天の五星に配した陰陽五行に結びついたことは、少年の頃最初の師、恵弁から教わっていたというが、

更に慧慈から詳しい知識を得ていた。

その結びつきを記した書は後漢の班固が撰述した漢書の天文志だという。

そこの五常は仁義礼智信の順位は仁礼信義智となっている。

何故、仁義が仁礼に変わったかについて慧慈は国を治めるには礼が大切であるという認識が強くなった為であると。

この徳と謂う文字の意味を厩戸は研究して、五常の上に徳を置いた官位を決めたといわれている。

一方馬子は百済方式を考えていたようであるが、厩戸の説得で十二階の官位が決定したと言われている。

どんな制度であろうと、一つのことを成し遂げるのに一人で何事も為し得るものはなかろう。

厩戸一人でやったものではないから尊称は値しないなどと阿呆を言うのは現代人の器の小ささ、そして教科書からも聖徳太子の名を消すというのは、

聖徳太子などとは比べ物にならない器の小さな無能な文部官僚のやりそうなことである。

官位に例を採って書いているのだが、日本書紀には書かれていない、六百年の遣隋使派遣にしても、

当時厩戸が中国や朝鮮三国の文化を取入れ隋と接触を望んでいた。

厩戸の説得を馬子が飲んだと考えた方がいい。

こんな些細なというより重大な出来事を簡単に書き落とす日本書紀など国史にはとても値しない。

日本側の記録にはないが、中国側にはっきりと六百年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されている。

書紀を読んだら例の、あの有名な日の出国の天子~云々の国書を持った小野妹子が最初の遣隋使だと思ってしまう。

この当時馬子が実権を握って独裁を始めて以来、馬子がなした国事は何も記されていない。

厩戸が皇太子となり、摂政となって以後に、内に秘めていた様々な理想、そのための施策が表に現れたと考えるべきで、

十七条憲法も後の時代のものと言われてはいるが、厩戸の人間性、人間観の考え方を推し量って書かれた公算が大きい。

その草案が厩戸によって書かれていた可能性さえある。

歴史と言うものはすべからく推理推測で何一つ真実を語っていることなどないと思った方がいい。

日本書紀に書かれたことが日本の歴史だなどと思う事自体に誤りがある。

それを裏付ける資料は僅かに考古学によって発掘された物から推量して僅かに裏付けられるに過ぎない。

聖徳太子に関する上宮聖徳法王帝説なども太子についての現存最古の伝記、

古代史の第一級の史料だと言われていても、これにさへ疑問符をつけるものがいる。

そのうち法大王と呼ばれたことにさえ文句をつける輩が出ないとは限らない。

これほどの人物が今我が国に現れたら,姥捨て山へ捨てた老い先短い者の生活を脅かす様な非人間的な政を行う事は絶対に在り得なかったろう。

おのれの政治の失敗は、昔から腹切って責めを負ったが、現今の政治屋は人道も地に落ちたか、

己の政の失敗を己の費やす垂れ流しの経費や収入をカットするなど考えもせず、全く方向違いの、人間としての最弱者にその責めを負わせようとしている。

人間に限らずあらゆる形ある物は、経年劣化でメンティナンスが必要なのは世の理。

その年老いた人間のメインティナンスの為の費用負担さえカットし、その保険料を増額する外道が今の政治屋の本性である。

参政権の行使は民主主義の証だなどと浮かれていると、己の首を絞めることになる。

如何に現代が荒んだ世の中とは言え、己は安楽で、一番弱い者をいじめる事が政治の根本と考えている輩がいるとは・・・・・

政の失敗を重ねた上げくが国家の破産にも等しい一千数百兆に及ぶ赤字。

よくもまあ~経費の垂れ流し、給与はお手盛り、失政しても腹切りどころか、己のものはカットもしない。

年寄りがいる、彼らがいれば、彼らを食い物にすればいい、これが現代の曽我馬子。

好き勝手放題はさすがの古の権力者蘇我馬子も太刀打ちできなかろう。

ビッグバン以来膨張を続ける宇宙の様に,政治の破綻は際限もなく膨張し、連れた財政赤字も膨張を続けている。

宇宙の膨張が際限がない様に、今の政治屋官僚がのさばっている限り、日本と言う国の未来はない。