徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

情けは人の為ならず

2020-01-28 16:57:35 | 随想

項羽と劉邦や平家物語を読むと必ずと云っていいほど思い起こすのは情けを掛けるという事・・・・・

情けは人の為ならず、この言葉をどのように解するはは大変難しい。

情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、情けをかけた人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。

人には親切にせよという教えとして用いられるのが普通かもしれない。

そうとばかり言えないのが人の世のさだめなのである。

けれども、

人の為ならず、は人の為なりの古語で断定であり、人のためであるという意味、の全体を「ず」で否定していると考えると人のためではない、という意味になる。

情けをかけることは、その人のためにならない、の意味で用いるのは、本来は誤用であるのだが、

本来の意味の言わんとしている事と同じくらいに、解釈を誤っている人が意外に多い。

と言うよりはおそらく人々の半数は誤った解釈をしているのかも知れない。

このような誤用が生じるのは、打ち消しの「ず」が何処に掛かっているかの解釈の相違であるが、

為になる、にかかっていると解釈すると、「ためにならない」という意味になるからである。

国語の問題を解決するために、書いたのではなくこの教訓としていることを実践したがために、

己のいや己を含めた一族すべての命脈を断たれた人々が、中国や、我が国の昔々に起って居る。

 

情けを掛けられた者はいずれも非情にも本人のみならず、一族もろとも滅ぼして全滅させているのが共通している。

そして、己の国を建て栄耀栄華を独り占めしているのも同じであるが、そのいずれもが、殆ど無能に近い輩で、

周りの者に煽られて、情けを仇で返した結果を招いている。

中國のその茫洋とした支配者は天下を永続させたが、我が国のそれは本当に凡庸で能がなかった、ためにその世を継続させることが出来なかったのは只々凡庸で、

周りの者の佞臣、奸臣を見抜けなかった阿呆な処は秦の始皇帝以上であった。

我が国の場合はそれに嫉み妬みが加わった、無能に輪を掛けたものであったが単に、あっさりと乗っ取られてしまっている。

 

扨、中国の史記に書かれているから知る人も多いが、鴻門の会と言う言葉で表される、始皇帝の死後、

秦帝国を滅亡に導くよう決起した劉邦と項羽との会談として知られている。

この時の劉邦の軍事力は項羽のそれにははるかに及ばない。

劉邦はひたすら寛恕を希うところであるが、項羽の側近の多くは劉邦を弑する事を進言するのだが・・・・・

鴻門の会を史記の項羽本紀に従って書くと・・・・・

前206年、漢の劉邦と楚の項羽が秦都咸陽の郊外の鴻門で一触即発の危機を孕んで対決した。

楚漢の争覇戦の端緒となった会談である。

戦いを避けて、安易な南から関中に入ったのは劉邦であり、函谷関の砦に兵を置いて、項羽の侵入を防ごうとしたが、

項羽は一気に函谷関を突破し、鴻門に布陣して、劉邦の軍を殲滅しようとした。

戦力差は歴然としており、劉邦は項羽の叔父、項伯を通じて和解を申し入れた。

劉邦はひたすら謝罪するのみで、項羽も側近の反対を押してまで、謝罪を受け入れた。

 

この時の情けで、劉邦は生き延びて、延々と続く戦いに突入するのだが、何年にも亘って負け続けた劉邦が逆転して、項羽は垓下で自刃する。

重要な戦いの場で、敵将に掛けた情けが仇となって、己だけではなく、項一族すべてが根絶やしにされてしまう。

この垓下で項羽が自刃する時、良く知られた言葉、四面楚歌はこの時に起因する。

楚歌は本来なら自陣から聞こえなければならない、にも拘らず楚歌は敵の陣営から聞こえてきた。

兵のほとんどが寝返ったのだろう・・・・・

 

虞兮虞兮 奈若何   虞や虞や 汝を奈何せん

 

項羽は寵姫に対する憐憫の情をこの言葉で表したという。

断腸の思いであったろう。

何年にも亘って追い続け、逃げ続けた劉邦に今は己が囲まれて終焉を迎えようとしている。

要らぬ情けが仇となって身を滅ぼした。

 

平家物語を滅びの美学という人もいる。

 

この項羽と劉邦の物語を読んでいると、項羽の死にゆく様も何か物悲しい滅びの美学と言えるのかもしれない。

 

同じ様に余計な情けを掛けたばかりに、己一族を滅ぼしてしまったのが我が国でも見ることが出来る。

平治の乱と保元の乱とは共によく知られている、平安末期の平氏と源氏の争いと天皇家内部の権力争いである。

天壌無窮と言い神の子孫であるという天皇家の内部で権力争いをし、手当たり次第に女色を漁る様を見せたり、

今様に狂い臣下の佞臣、奸臣の暴政を放置するなど、秦の始皇帝の暴政など物の数ではない。

この保元、平治の乱のすべての端緒は白河の女色に狂った狂気にある。

白河と言う男、女とみれば、手当たり次第に、昼となく夜と無く閨に引きずり込み犯し、孕めば臣下に払い下げるという悪辣な輩であった。

事の発端は、藤原璋子を白河が己の猶子にするのだが、この璋子も淫乱の相があったのか、十四歳にして間違いを犯し、

親の白河から折檻を受けるが、その白河が猶子の璋子に手を出して、次々に子を産ませるのだが、そうしながら、この璋子を己の息子鳥羽の后として嫁がせる。

因みに猶子とは兄弟、臣籍または他人の子を養って自分の子としたもの。

名義だけのものと世襲とするものとがある。・・・広辞苑による。

それ以後も、己の息子の嫁となった璋子に次々に子を産ませる破廉恥極まりない天皇であった。

この璋子、白河の子を生み、鳥羽の子を生み、十年で七人も産めば満足であったろうが、白河の死後はひっそりとしていたというから、欲求不満ではあったろう。

譲位して鳥羽に皇位を譲ったのちも、実権を握り院政を敷いていたが、依然として女狂いは収まらない。

それから己の子に皇位を継がせたく鳥羽に譲位を迫り、己と璋子の子、崇徳天皇が皇位に登る。

一方、鳥羽は藤原得子に手を付けて子を産ませるが、この得子強かな女で、陰険姑息な手段を使って鳥羽を籠絡し、

崇徳に譲位させておのれの子を皇位に付ける、これが近衛であるが、近衛は若くして死んでしまう。

ここで崇徳は重祚するか、己の子が皇位に付けると思っていたが、今様狂いの後白河が皇位についた・・・・・。

崇徳が譲位するとき、欺かれて皇弟に譲位する形にされてしまって、院政を敷くこともできなかった。

この様な陰険な策を弄する輩が国の支配者であれば国が乱れない筈はない。

この崇徳が怨霊となって様々に祟るのだが、明治天皇が崇徳の怨霊供養を行ったという話もある。

 

白河法皇の女狂いがこの複雑な関係を作り出し、権力争いが激化させ、様々な人間を巻き込んで動乱が始まる。

保元の乱で皇位の権力争いが平氏と源氏を巻き込み、後の論功行賞に不満を持つ源氏が平家との間で平治の乱を引き起こす。

この源氏の義朝は出来のいい武将ではなく、平家に敗れ殺されてしまう。

其の子の頼朝、範頼、義経の三人が殺されるところを、清盛の義母、池の禅尼の差し出口によって命長らえてしまう。

この清盛も白河の落胤で、平の忠盛に下げ渡された女から生まれたと言われている。

その平忠盛の室が藤原宗兼の女で、己の出自を鼻にかけ長男の清盛を差し置いて己の子に平家の跡を継がせようとしていた。

夫忠盛が逝って後、出家して池の禅にと呼ばれる様になるが、平治の乱の後、義朝の子たちが捕えられたとき、

池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。

義朝の子たちの助命の為に池禅尼が断食をし始めたとも言われており、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪に減刑したとも言われている。

清盛のこの情けが平家を根絶やしにすることになる。

この女の差し出口が日本の歴史を変えたともいえる。

大切な時に女の情に絡んだ差し出口は凡そ碌な事にはならない。

頼朝などと言う他愛もない男が、ただ源氏の嫡流と言うだけで兵が集まるのだから人間と言う生き物の頭の中は全く分からない。

楚にしても、平家にしても、滅びの原因は数多くあるが、一つひとつ辿って行くと、項羽の、清盛の情けに行きつく。

楚の項羽の様に、清盛が掛けた情けが平家一族を滅ぼしてしまう。

情けや、恩は着せるものではなく、着るものだとは言うが、戦国の世であっても、太平の世であっても、それは相手に依りけりである。

歴史に若し、などと言うことはありえないのだが、清盛が義朝の子すべてを弑していたら、歴史は随分と変わっていたであろう。

 

情けなどと言うものは戦国の世の武将にとっては禁忌である。

後の世の信長は非情だと言うものが多いが、戦いの中の殺戮は当然の事であり、非難される謂れはない。

非情と言うのは、この保元の乱の後白河の佞臣信西の様な人倫に悖ることを平然と行う輩のことを言う。

当時死刑を宣告されても、実際は罪一等を減じられて、遠流にされていた。

藤原仲麻呂の反乱以来三百数十年、死罪は行われていなかったが、信西が強固に死罪を主張し、罪人は義朝の親を義朝に切らせ、

平家の清盛には叔父、を切らせる死刑の執行を行わせた。

故意に同属の者の処刑を清盛、義朝に強いた、信西の人倫に外れたことを強要する輩が権力を握っていた。

権力を握れば何でもできるという考え、これが日本の歴史なのである。

そんな遺伝子が現代にも脈々と伝わっている。

この様な狂気が朝廷内の権力争に於いてだけであれば、民草には何の痛痒もない。

だが、この様な狂気の持ち主が政を行えば、当然民草に降りかかってくる。

それは過去の歴史が物語っている。

これがただ過去の歴史の中の出来事だけとは言えないところが、恐ろしい。