趙州と南泉という禅僧の問答に対して無門が頌っている。
その問答というのは・・・
趙州が問う、如何なるか是れ道。南泉曰く、平常心是れ道、であると。
平常心とはありのまま、そのままという意味なのだろう、
これを四季の移りゆくことになぞらえて人の生き方を無門和尚は次の頌であらわしおた。
春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、
若もし閑事の心頭に掛る無くんば、
便是れ人間の好時節 無門関第十九則に載っている。
心がいつも安らかで有りうるためには、自分の得べき利益やあるいは失った損失などの俗念を脱却することできなければならない。
得をした、損をしたと、心に拘る何かが蟠っているならば、心に涼風が吹き渡ることは無い。
春には百花、秋には月、夏には涼風、冬は雪、と四季にはそれぞれ愛すべき風物がある。
もし、閑事の心頭に掛かること無ければ、すなわちこれ、人間の好時節だ。
役にも立たないつまらないことに、心を煩わせていることが無かったら、人の生き様はこの四季のごとく絶えざる興趣に満ち満ちたものになるだろう。
これは無門関の著者無門和尚の頌だが、これと同じ境地を北宋の学者程明道が秋日偶成と題する律詩で詠っている。
閑来 事の従容ならざるはなし
睡り覚むれば 東窓 日すでに紅なり
萬物 静観すれば 皆自得し
四時の佳興 人と同じうす
道は通ず 天地有形の外に
風雲変態の中に 思は入る
富貴にして淫せず 貧賤にして楽しむ
男児ここに到らば 是れ豪雄
朝、目覚めると、東の窓は、すでに明るくなっている。
ああ~今日も目覚めた、明るくなった窓の外の光を眺めて、ゆったりと床の中で至福を感じる。
眠りにつくという事は明日の朝、目覚めることを何の疑いもなく眠るという事である。
だが、老いさらばえたものや、病に伏しているものにとっては、眠りにつくという事はただ休眠するという事とは限らない。
そのまま、永遠の眠りにつくこともありうる、明日の朝必ずしも目覚めるとは限らない。
眠りにつくとき、あすのあさ明るい光が迎えてくれることを願って目を閉じる。
だから、目が覚めた時、ああ~今日も目覚めた、明るくなった窓の外の光を眺めて、ゆったりと床の中で至福を感じる。
早朝に起き出して、通勤地獄を味わったものも、引退して、仕事を離れ、閑暇の身になると、
何事も好みのままになるようになり、心もゆったりと過ごすことができる。
このゆったりとした気分、何物にも代えがたい。
宇宙のすべてを支配する法則に従って、生々変化する自然と心を一つにすれば、富貴に淫することも無く、貧賤もまた楽し。
人間などという生き物は天地の間で自然のままに踊らされていると考えるならば、それに諾々と従うことも一つの生き方ではあろうが、
しかし好むと好まざるとに関わらず、この世に生を受けた折角の人生それでは面白くも無い。
富貴に淫することも無く、己の思う通りに生きて、貧賤を楽しむ境地、ここに至れば男児の本懐というべきであろう。