去来抄に次のような言葉がある。
「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云う有り。これを二つに分かって数えたまえども、その基は一つなり。
不易を知らざれば基立ちがたく、流行をわきまえざれば風新たならず」
芭蕉が奥の細道を旅して体得したものでしょう。
これは芭蕉の言葉を弟子の去来が、去来抄の中に書きとめたもの。
不易と流行、この概念と言うか言葉と言うか、現代において事あるごとに思い起こす必要がありそうな言葉である。
不変の真理を知らなければ基礎立ちがたく、すなわち基礎が確立せず、刻々と変わる流行即ち変化する様を知らなければ風新たならず、
すなわち新に進展することが出来ない、と言うことであろう。
ただ大切なことは、その根本は一つであるという事、これは特に心に留め置く必要があり、忘れてはならない。
これは、この不易流行と言われる概念、この殺伐とした激変する世の中を生きていくうえで、自在に使いこなせる能力を養う必要がありそう。
流行を追いかけるばかりが目立つ今の世の中ではあるが、世の中の状況ががどんなに変わろうとも、変えてはいけないもの、あるいは変わらないもの、
すなわち不変の真理ともいうべきものがある。
これが不易と言う概念として現れている。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
とても心にかかる言葉なのだが、方丈記だったかね、鴨長明さん、芭蕉さん、同じ心境かも知れない。
一芸に秀でた人々は、同じような境地に達すると見える。
この世の中のあらゆるところで、会社企業などでも十分に活用できる言葉であろう。
この世の中と言うより森羅万象あらゆるものが、刻々と変化しているが、その変化の中から、不易なものを生み出してきたのだろう。
激動する世のあらゆるものの生命は短くすぐに変転する。
目先の流行を追い捉われては、河の流れに浮かぶ泡沫の様にすぐに消え去ってしまう。
人間生きるにあたって、その世の中で、必要とされるもの、されないものの真実を見極めなければならない。
必要ないと思われるものも実はとても大切なものであるということもある。
老子に、あるいは荘子に、無の働きとして、無用の用などと言われてきた言葉がある。
老子道徳経の上、十一章に記されている無用の用である。
三十輻共一轂。当其無、有車之用。
挺埴以為器。当其無、有器之用。
鑿戸牖以為室。当其無、有室之用。
故有之以為利、無之以為用。
読み下すと~
三十の輻、一つの轂を共にす。其の無にあたって、車の用あり。
埴を挺ちて以て器を為る。其の無にあたって器の用あり。
戸牖を鑿ちて以って室を為る。其の無用にあたって、室の用あり。
故に有の以って利を為すは、無の以って用をなせばなり。
有に対する無の根源的な働きを説いている。
無があるから有が生きるというのである。
何かがあることによって、利益がもたらされるのは、何もないことがその根底でその効用を遂げているからだ、というのである。
荘子も同じ様に無用の用をことあるごとに説いている。
有用とは・・・役に立つということは大切な事ではあるが、浅はかな人間共の頭で判断する有用など、本当に有用なのか如何、わかったものではない。
老子と同じように、もっと根源的な立場から見れば、人間共の言う有用など取るに足らぬものだというのである。
人間共が無用と捨て去ったものの中に本当に有用なものがあるのではないか・・・というのである。
荘子は 人は皆、有用の用のみ知って、無用の用を知ろうとしない。
憐れむべきことよ、と言って嘆くのである。
ところが、人によっては無用のものも、有用となるという。
道即ち実在の世界において、実在世界の真相を悟る真知を持ち、道と一つになった境地を生きる者、
自己の人生を自己の人生として生きていくもの、そのようなものに掛かれば無用のものも、有用なものになる、という。
ただ、現今そのような人間が存在するかどうかは、利に奔り、欲に奔るばかりでは・・・
荘子はこのように言っている。
木が無用な人間にたいして・・・・・・
お前もわたしも、自然界の一物に過ぎない。
物が物の価値付けをしてどうなるのだ。
価値付けするなら、お前のように有用であろうとして自らの生命を削っているものこそ、実は無用な人間なのだ。
無用な人間に私が無用な木であるかどうかわかるはずはないだろう。
山木は用あるが故に伐られ、灯油は自ら燃えて尽きる。
肉桂は食らうべく伐られ、漆木は用うべく裂かれる。
人はみな有用の用を知りて、無用の用を知らず。
参考
荘子内篇 金谷治 註訳 岩波文庫
荘子 福永光司著 中公新書
老子 金谷治 註訳 講談社学術文庫
去来抄 潁原 退蔵 註訳 岩波文庫