徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

人間の感情~心の動き~

2020-01-10 14:18:31 | 随想

人間の、いや人の心の内をのぞいてみれば、様々な情感が渦巻いている。

妬み、嫉み 羨望・・・ 裏切り

この世で、未だ過ってこの感情を抱いたことはないと、言い切れる人はまずいないだろう。

人間様の心に湧き上がる様々な感情あるいは心の動き・・・・これほど複雑なものはなかろう。

妬み、嫉み、いわゆる嫉妬は、裏切りと共に、人間感情の醜さの代表的なものの一つであろう。

人間の心の中にどんな感情がわき起ころうとも、それが行為となって外部に現れない限り、外部に対して何の影響も及ぼさない

例えそれが重大な犯罪を意図する様な心の動きであっても、心の内にとどまっている限り何の害悪もない。

だが、ひとたびその感情が僅かでも外部に現れると、様々な軋轢が生じてくる。

これらの妬みや嫉みの感情に裏打ちされた行動が外に現れるとき、実に陰険姑息な行動となって表れてくる。

人間の嫉みや妬みの感情、あるいは裏切りの感情が行為となって表れた時、それは人間の悪の最たるものであるのだが、

何時の世にも、見え隠れしながら世に蔓延って、人々を悩ませる悪である。

妬み嫉みは一語でいえば嫉妬である。

嫉妬は女性に多いなどと言われるが、とんでもない、人間だれしもこの感情が心の奥底にひしめいている。

人間の感情が内にひっそりと秘められている内は、どんな者であっても人を害することはない。

それが一たび表に現れると、人と人との摩擦が起こる。

ギリシャ神話における、ヘラの様な女の嫉妬は目を覆うばかりであるが、淫靡に内にこもった嫉妬が社会に及ぼす影響は見過ごされてはならない。

出る杭は打たれるというが、これが嫉妬の現れに他ならない。

出ようとしても己の能力では出ることもできない輩が、策を弄して頭を押さえようとする。

策を弄するすべもない輩は、只々羨望するのみ・・・・・ならまだ可愛い。

策を弄すれば己でも何とか追いつける、あるいは上位にいる者にとっては、

追い抜かれる恐れを回避する為にとる行動が杭の頭を叩こうとする行動になって表れる。

出た杭に対して、並の頭では策を弄しても太刀打ちできないと、悟ったのが出過ぎた杭は打たれないということなのだろう。

要するに能力の違いを思い知らされ、叩こうにも叩けない状態・・・・・

叩けないなら抜こうと、試みるかも知れないが、悪知恵のみが働く姑息な輩の頭では、手におえる様なものではなかろう。

優越する頭脳の持ち主なら、ずう~ンと頭を出して、打てるものなら、打ってみよ、というかもしれない。

だが我が国の如く、途中に無能者が混在する様な縦組織の社会、縦の組織を重視する社会では、頭を出すと嫌われることが多い。

この縦社会に於いて、如何の様な訳か無能なものが、組織上部に存在することがる。

これは縦社会の組織に於いては致命的な事なのではあるが、感情の生き物である人間社会においては避けられない様である。

特に我が国の様な終身雇用の年功序列型の形態をとる社会では、無能なものがどっかと上位に腰を据えている。

それが太平洋戦争の初期の敗戦の様な結末を招く。

この凡庸な連中が縦社会の上位を占めると、いわゆる優秀性の抜け落ちた連中が追い抜かれることを危惧するのである。

様々な策を弄して、行く手を阻もうとする。

これは無能な輩が組織の上位にいるとき顕著にみられる現象である。

特に組織が能力を重視した上下関係から成り立っている場合に現れることが多い。

我が国の歴史を振り返ってみると、出る杭よりも、出ない杭を作り出すような教育が行われていた様に思う。

出自を重視したり、世襲を重視する社会では、衆に優れた俊英の士は阻害されることが多いというのは、当然と言えば当然であろう。

組織に於いて、能のあるなしを重視して、上下関係が組み立てられているところでは、出ない杭より出る杭の方が歓迎される。

その様な縦組織の社会では早晩組織に破綻が見えてくる。

権力を握ったものにとっては、出ない杭の方が当然扱いやすく、頭を出すものは敬遠されるのは至極当然の事であろう。

その権力者が愚鈍であればあるだけその感が強い。

昔からよく聞かれる言葉だが上司が愚鈍だと部下は苦労する、というのは本当だろう。

例えば軍隊などに置いて無能な指揮官の下の兵卒は命の危険にさらされる可能性が飛躍的に高まる。

どんな社会に限らず、能のないものが上昇志向を抱くとき、阿諛追従の特技を発揮せざるを得ないであろう。

これが組織の縦社会に加わるとき様々な不都合が惹起されるのである。

我が国に見られるような、年功序列型の組織社会においてのように、組織上位者の能力が必ずしも優れているとは言えない組織社会では、

この言葉を十分に吟味しながら、頭を出す様にする必要がある。

それは、上位者が頭を叩こうとするのは、自分を追い越す可能性を示唆する嫉妬、偏狭な心、からかもしれない。

アメリカの様な実力による組織社会なら、当然杭は頭を出さなければ切り捨てられる。

出ない杭など必要はなく、ただ腐るを待つだけとなるであろう。

と言うよりも腐るのを待つほどの猶予は与えてくれまい。

見限られると、容赦なく切り捨てられる、・・・・・

終身雇用が原則の我が国における、ぬるま湯につかった、可もなく不可もない、平々凡々などはどは通用しない。

アメリカンドリームなどとよく言われるが、能のないものが成功を夢見ても、とても叶わぬ所である。

アメリカンドリームは成功ばかりが目立つ様言われているが、その対極にある失敗の悲惨な夢を考えておかないと、人生を誤ることになる。

何よりも己の能力の限界を知ることが必要であろう。

ただ我が国の様な島国根性の偏狭な組織編成の社会では、只々、黙って従う頭を出さない従順な杭が歓迎されるのかも知れない。

雑多な人種の血が混ざり合うアメリカには、我が国では及びもつかないIQの高い連中がごろごろしている。

とは言ってもその対極もあるのであって、天国と地獄ほどのの差がある。

誰もが平均的であるのと、どちらが良いのか一概には言えない。

人の心に芽生える感情が交差する世の中は、漱石が言うように、とかくこの世は住みにくいということなのだが、

この言葉もあまりにも有名になりすぎて、手垢が付き過ぎてしまった。

住みにくさが高じると、どこかへ引っ越したくなるのだが、何処へ引っ越しても住みにくいと悟った時、さてどうするのがいいのか・・・・・

人を作ったのは神でもなければ鬼でもない。

矢張り向こう三軒両隣の人々だろう。

ただの人が造った国が住みにくいと言って、引っ越す国はあるまい。

あるとすれば人でなしの国へ行くしかなかろう。

人でなしの国ははなお住みにくかろう。

住みにくいところを束の間の命とは言っても、少しは寛げて、束の間でも住みよくするしかなかろう。

と漱石は言う。

人生など束の間、その束の間の人生を少しでも寛げるように、生きていきたいものである。

この殺伐とした世の中、政治屋共の無能結果とは言え、少なくとも老後は王維が詠うように・・・・・

 

独坐幽篁裏、 

弾琴復長嘯  

深林人不知  

明月来相照  

 

読み下してみれば、その心境がよくわかる。

 

独り坐す幽篁の裏(うち)

琴を弾じて復た長嘯す

深林人知らず

明月来って相照らす

 

王維の心境は後の二句にあらわれている。

奥深いこの林の中にわが庵があるどは誰も知らないけれど、

明月だけは訪ね来て煌々と照らしてくれる。

 

と、ゆっくりと、旅立つ前の束の間を過ごしたいものである。

尤も、今の世では望むべくもないが・・・・

如何すれば住みよくなるか、それは人それぞれの心の内にあるのだ。

とはいっても我が国の様な老いれば姥捨て山が待っている社会では望むべくもない望みではあるのだが・・・・

嫉みや妬みの感情は、恐らくあらゆる人々の心の中に、大なり小なり芽生える感情であろうが、裏切りの感情も多くの人の心に潜んでいることだろう。

ただこの感情は行為として現れることは、妬みや嫉みの感情ほど多くはあるまい。

裏切りと言うものは決定的な断絶を生じさせかねないからである。

古い戦国の世では、裏切りは日常茶飯事であったが、ひとたび裏切りという行為を犯したものは、そのものの人格が破壊されたものと思っていい。

一たび裏切りの烙印を押されたものは、社会的信用を失墜する。

古い時代からの、裏切り等節操のなさで夙に有名になったのは真田昌幸。

この真田昌幸、あっちへ付いたり、こっちへ付いたり、忙しい男であったようだが、どちらが勝っても真田の家が存続する様に、

兄弟を両方の陣営に別けた策士として有名なのだが、それでも生き残った方も重要視されなかったようである。

弱小領主であってみれば、どちらに付くかによって己の将来の存亡がかかっているとなれば仕方のないことかもしれない。

だが一度裏切ると、裏切って味方に付いた方からも決して信頼は置いてもらえない。

裏切り者は何時また自分を裏切るか、そんな輩に信の置けるはずはない。

徳川の初期においても、豊臣恩顧の武将が徳川に味方して、良い目を見たと思ったが、これも恩あるものを裏切った節操のなさを見られて、

殆どが取り潰されて、憂き目を見ている。

何処の世のものも、この恩あるものを裏切ったものは人間として、最悪なものとみているのであろう。

ダンテにしても、神曲地獄篇において、地獄の最深部の九圏に裏切り者の地獄を設定している。

世に有名な裏切り者はキリストを裏切ったユダ、カエサルを裏切ったブルトウスとカシウス・・・・・・

これらはあまりにも有名なので、説明の要はあるまい。

この裏切りと言う行為は何も古い時代だけの事ではない。

我々は日常茶飯事、常に裏切りを目にし、裏切りに出合っていることを認識し、肝に銘じたい。

何時の日にかその裏切りの償いをさせるために・・・・