徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

人生の楽しみは晩年から

2020-01-23 14:28:43 | 随想

宋代に淅江総督と言うから役人であろう人物がいた、名を蘇軾と言う。

宋代の第一級の詩人であったようである。

王安石の時代で彼の法に反対したために地方に飛ばされていたが、朝廷の政に反対の詩をつくり誹謗したかどで逮捕されたりもした。

彼の作った詩に「贈劉景文」というのがある。

原文は必要ないだろうがとりあえずは載せてみよう。

荷盡已無擎雨蓋、

菊殘猶有傲霜枝。

一年好景君須記、

正是橙黄橘綠時。

この七言絶句からどれ程の内容を掴み取ることが出来るのだろう。

蘇軾と劉景文は詩をもってしばしば昌和していたようである。

その劉景文に贈った初冬の作である。

何の変哲もない季節の情景描写である。

こんな詩を友に贈ってもそれほどのものとは思ってくれないだろうが、

能々吟味して送ってくれたものの真意を汲みとると考えさせられる詠である様な気がする。

漢字の羅列を日本流に読み下せば、次のようになるのだが、中国人にとってこの様な意味で読んでいるのであろうか。

漢詩に限らず漢字の羅列を日本流に訳したとき、漢字の一つ一つにそれ程の意味を持たせているということにとても奇異に感じるのである。

 

荷は 盡きて 已に 雨を擎るの蓋無く,

菊は 殘われて 猶ほ 霜に傲る枝 有り。

一年の好景 君須からく記すべし,

正に是れ 橙は黄に 橘は 綠なる時。

 

ここまで読み下せば後は現代語にしてもそうは難しくはなかろうと思うのだが、

どの様に読み下すかで意味が全く違ったものになることもあるであろう。

 

蓮の花は散り果て、大きな傘のように雨を受けていた葉ももはやない。

菊の花も萎んでしまったが、それでも霜にめげず傲然と突っ張っている枝はまだある。

一年を通じて最も見応えのある情景を、君よ、是非心に止めてほしい。

将に柚子は黄色にうれ、蜜柑がまだ緑のこの季節に。

                                  ―‐松枝茂夫―

という意味なのだが、このままではそれほどの意味を持つ詩とも思えない。

蘇軾は一体何を言いたくてこの詩を劉景文に贈ったのだろうか。

これは劉景文の境遇を知らなければただの何の変哲もない詩で終わっていたであろう。

友、景文は老齢期に入り、父や兄を早く亡くして、気分的にも落ち込んでいたという伏線があって初めて、

この晩秋初冬の景色を一年で一番見応えのある景色として受け止め眺めてくれ、人間も人生の初冬にあたる老齢期は一番いい時期だといったのである。

人生の晩秋から初冬とも言うべき時期の見応えのある風景を心に止める様詩に託したのだろう。

とは言えこの世の中、年老いていく者たちに暖かな手を差し伸べ、人生における一番いい時期にしてくれる国ばかりとは限らない。

東洋の東の外れにある海の中の小さな島国の老人たちは、年老いると姥捨て山と言うところえ捨てられてしまう。

棄てられるだけならまだいい。

棄てられたあげくの果てにまだまだ搾り取られる。

捨てられるものに与えたものを残しておくのは惜しいというのである、搾れるものはとことん絞る。

それ程、国の民は困窮しているのだが、国を差配する政治屋や役人たちの古来からの一貫した考え方であってみれば、

民にとっては如何ともなしがたい。

特に現代は過酷である、病身の子を抱えた母親が食べるものもなく、子とともに飢えて生を終えるものさえいる。

この国ではお上思想と言うのが蔓延していて、お上に逆らうことはタブーとされていた。

お上はこの世の中のお上と言われる者達のなかでも最高の財を懐に入れながら、

役に立たなくなった年寄りから搾取することを至上の喜びとしているがごとくに剥ぎ取っていく。

この海の中の小さな島に、この世の中でも一風変わった人間と言う生き物が住んでいる。

老齢期が人生の一番いい時期だと、中国の詩人は慰めてくれるが、そうはいかない処が、東の海のまっただ中にある。

 

我は好き好んでこんな薄情な輩が治める国に生まれてきたわけではない。

これでは天を呪いたくなる、なあ~天公よ!!

同じ様に考えたのが遥か昔の隋、唐の時代にもいた。

我昔未生時      唐、王梵志

我昔未生時、冥冥無所知。

天公強生我、生我復何爲。

無衣使我寒、無食使我饑。

還你天公我、還我未生時。

 

~我昔未だ生まれざりし時~

我昔未だ生まれざる時、

冥冥として知る所無し。

天公強ひて我を生み、

我を生みて復何をか爲せる。

衣 無くして我をして寒からしめ、

食 無くして我をして饑ゑしむ。

你、天公に我を還かへさん、

我に未まだ生まれざりし時を還へせ。

生まれる以前に帰りたい

 

むかし未だ生まれていない時は、冥々として知るところなし。

――我が未だ生まれる以前は、全く何も知らなかった。――

天公強いて我を生み、われを生んで復何を為せるか。

―― しかるに天公は頼みもせぬのにわれを生んだ。われを生んで一体何をしてくれたか。――

衣なくして我を寒えしめ、食無くしてわれを飢えしむ。

――着るものもなく私に寒い思いをさせ、食べるものもなく我にひもじい思いをさせただけだろう。――

これ天公よ。このわしをお前さんに返すから、わしに生まれる前の時を返してくれ。

-還你天公我,還我未生時。-

これは実にいい。

これ你天公よ、と呼びかけるとこるがこの詩のクライマックスなのだろう。

我を天公よお前に我を返すから、われに未生の時即ち生まれる前の時を返してくれ。

我を不幸にした責任を天公に取れと迫っているのである。

そうすれば我が生まれる時は、我の好きな時に好きな国に生まれる。

人間と言う生き物、親を選ぶことも、生きるためのところを選ぶことも全くできない、不自由な生き物としてこの世に出てくるのである。

この世に生まれた後は死を待つばかりである。

永遠にこの世に生きながらえたいと足掻く者も居るが、天公に生まれる前の時へ返せとすごむものも居る。

奇想天外なと言うよりも生まれ変われるものならと誰もが思う。

だが、この作者、王梵志のように天公よと呼びかけ、我を不幸にした責任を取れ、と迫る発想はなかなか思い浮かばない。

この王梵志なる人物、隋から初唐に掛けての人物で、その詩は、社会あるいは人生を論じて後々にまで伝承されて人気を博したという。

この様な諧謔に富んだ詩であってみれば、庶民層にとっては痛快極まりない感じを受けたのであろう。

 

 

参考文献

中国名詩選 下               松枝茂夫編           岩波文庫

漢詩名句集                            奥平 卓著            PHP文庫

 

 

 

 

 

 

 

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