さかのぼること 1/10
「その日」は突然やってきた。
嫁がそれまでかかっていた産婦人科の診察で転院を勧められ岐阜大学医学部附属病院(以下岐大病院)への紹介状を書いてもらったのが8日。この日は初診のはずだった。僕はといえば別件で出先にいて用事を済ませた11時過ぎに携帯が鳴る。「入院することになった」というものだった。
はじめは検査入院みたいなものだろうと考えた。自宅には何があってもいいようにと随分前から一通りの入院のための荷造りがしてあってそれを車に詰め込んで母と一緒に岐大病院に向かう。転院を勧められる前から道順などはリサーチしてある。ここまでは万全だ。
駐車場に到着すると嫁が出向いてきていて僕たちに手を振って出迎えてくれる。整理しておくと嫁は自分でクルマを運転してここへ来た。入院ともなれば帰りはどうなるかわからない、ということで僕と母は母のクルマでここへ来た。僕は嫁のクルマで自宅に戻ればよい、という計算だ。これまた万全の体制だ。
昼食をどうしたのかはよくは覚えていない。自宅で食べてから出発したのかそれとも岐大病院構内にあるローソンで調達したのか・・・ちなみに病院内にはタリーズ・コーヒーまである。とにかく母と嫁と僕、3人そろったところで入院手続きのため4階東病棟というところに行き受付を済ませる。すぐに個室に案内される。普通個室への入院は患者の意向を汲んで手配されるものだと思うのだが思えばこのことがこれから起こる嵐のような出来事を示唆していたのだろう。ナースステーションにも近い。
ひとまず病室に入るとすぐに医師の先生がやってきた。多少早口で僕たちに言う。「お母さんの体にこれ以上の負担をかけないためにも妊娠を終わらせましょう。」 字面で意味はわかっても頭の芯で理解する、ということができなかった。僕なりに言葉を選んで「それは今日生まれるということですか?」と尋ねると「そうです。帝王切開を行います。」という答えが返ってきた。今日僕と嫁の息子が生まれる・・・
軽く眩暈を起こしたことをよく覚えている。予定日よりも2ヶ月弱早い。でも嫁は大したもので動揺しているようなそぶりは微塵も見せなかった。2時過ぎに手術ということらしい。1時間後だ。名古屋に住む義母に連絡をとると駆けつけるということで義母をどのように迎えにいくか?なんてことにも頭を巡らせる。手術が終わって嫁が戻ってくるまでに2時間ほどかかるということだ。
そこから嫁が手術室に向かうまではそれこそ嵐のような展開で手術着に着替えたり胎児の心音を拾うための機材をつけたり、手術や入院に関する説明を僕が受けたりであっという間に嫁は移動式のベッドに横になり手術室に消えていった。僕が右足首を骨折して手術したときとは大違いだ。
病室で待つ間、母とはいろいろな話をした。9年前に他界した父のこと、親になることへの心構えなど。だけど会話は断続的で二人とも落ち着かない。ツイッターにも「待つことがつらいとは思わないんだけどとにかく落ち着かない。」とつぶやいている。
嫁が手術室に消えて1時間とすこし経った頃、母が病室の外が少し騒がしいのに気づき外へ出てみる。そこには小児科のスタッフに運ばれている1台の保育器があり中には小さな男の赤ちゃんがいた。小児科の先生は「無事に生まれました。これからいろいろ検査をしなくてはいけませんがひとまずは元気です。」と僕に説明し保育器を止めて中の赤ちゃんを見せてくれた。「何グラムですか?」と尋ねると「1508gです。」との答え。はじめ僕は1580gと聞き違えてしまった。この病室の隣はNICUになっているので保育器はここを通ることになる。母が気づかなければ見逃すところだった。保育器に入った息子はNICUへと消えていった。
それからしばらくして手術を終えた嫁がベッドに乗せられて戻ってきた。部分麻酔なので意識もしっかりしている「お疲れ様、ありがとう。息子は元気そうだったよ」と声をかけ労をねぎらう。嫁もホッとしたような感じだった。それからしばらくして父親の僕がNICUに呼ばれる。病室にきた看護師さんから「先生からお父さんに説明がありますのでNICUに来ていただけますか?」という声掛けだったと思う。こうして僕は第三者から「お父さん」と呼ばれてしまった。気持ちをグッとシフトアップしてNICUに向かう。NICUへの入り方、携帯を機内モードにしておけば写真などをとるのはOKなどと説明を受ける。外で待っている嫁や母や義母のためなんとしてでも動画をとらねばならない、変な使命感に燃えていたことをよく覚えている。
NICUで聞いた先生からの説明は体重のことを除けば順調そのものということでホッとして保育器のなかの息子を覗いてみる。こうして僕は父親になった。早速10秒ほどカメラを回した。世の中のお父さんがよくやっている光景だ。嫁の病室に戻り駆けつけた義母や母、義兄に動画を見せそれにみんなが顔を緩めたそのとき、父親になった自分を実感した。これから新しい日々が始まる。