太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

徳島県側の太鼓台等の見学について-③

2021年05月02日 | 見学・取材等

旧・日和佐町の太鼓台(ちょうさ)

日和佐の太鼓台を紹介する今回が、徳島県下太鼓台の最終となります。現在、美波町日和佐には8台の太鼓台があります。箇条書き的な記録での初見は、宮大工・重兵衛家の「よろずひかえ帳」(寛政7年1795の項)で、〝みこしたいこ〟として初めて記録されています。写真で見るように、各町太鼓台の蒲団部下の彫刻が特に素晴らしいです。太鼓台は太平洋・大浜海岸のうねりの中へ威勢よく入ります。瀬戸内でも穏やかな海に入る光景(神輿や太鼓台の浜降り)は何カ所かで見られますが、やはり太平洋での海入りは圧巻です。

蒲団部の構造について眺めてみたいと思います。蒲団は枠型のものです。枠内部が見えるカタチは上方に多いです。日和佐は蒲生田岬や紀伊水道などを経由して淡路島・泉州・上方に近いので、この蒲団部のカタチを頼りに類型をたどっていけば、伝播先が判明するかも知れません。蒲団枠の固定は、「斜交い」に組んでいました。その固定方法も各太鼓台により、少しずつ変化し、後発のものがより堅固なカタチになっているように思います。日和佐のように、蒲団部を斜交いに組み上げる地方も、文化圏各地で数多く見られます。

今一つ理解できていないのは、蒲団部天に張り巡らせた幕と、傘の存在です。天幕は、蒲団部が神聖な神様の依り代と見做せば、降臨する目印のためなのかも知れません。傘については、〝天候が悪くなる時につけるようだ〟と地元の方から聞きましたが、徳島県では神輿に天幕(屋根、傘?)を飾っているので、その亜流かも知れないと思いました。

また、太鼓叩きの乗り子が大きく後方へ反り返る所作についても、長崎の〝こっこでしょ〟や、和歌山県日高川河口域の〝四つ太鼓〟など、文化圏各地で広く見られます。

      

(写真上)最初から、日和佐八幡神社境内に設けられている各町の太鼓蔵(太鼓納屋)と奉納町名。太鼓台の舁棒と外観。海入りする太鼓台の様子2枚。どの地区とも、蒲団部下の彫刻は素晴らしいです。乗り子座部の様子。蒲団部の構造と、蒲団枠を固定する斜交いの状況。斜交いの真ん中で蒲団枠を固定していますが、複数の固定方法が見られました。蒲団部天の幕と傘は、文化圏の他の地方では見ていません。幕は神様が降臨する依り代でしようか。傘は、写真(徳島市勝占町)のように、神輿に屋根を飾ることがあるので、それの亜流なのでしょうか。クライマックスの折に、太鼓叩きが後方へ反り返る。このような所作はかなりの地方で見られますが、そのうち長崎と御坊では、両手を大きく広げて反り返っています。最後の3枚は、祭礼終了後に太鼓納屋前で行われていた翌年度祭礼への引継式(申し送り)の様子です。(日和佐での撮影は昭和60年10月1985のものです)

旧・由岐町志和岐の太鼓台

日和佐の東隣の志和岐にも、日和佐からと伝わる太鼓台があります。以下は昭和54年10月(1979)に写したもの。上の日和佐と見比べることで、蒲団部等の理解がより深まることを期待いたします。

(終)

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徳島県側の太鼓台等の見学について-②

2021年04月30日 | 見学・取材等

前回の徳島県側太鼓台①で紹介した太鼓台たちは、昔の曼陀峠(佐野~大野原)や境目峠(佐野~川之江)などを通って、讃岐や伊予方面から伝播してきたものでした。しかも伝えられた太鼓台は、現在は盛んとなっている西讃岐や東伊予の二世代以上、実に100年以上も前のものもあります。西讃や東予地方と昔から経済的・文化的な交流が盛んであった徳島県側には、その両地ではもう既に過去のものとなってしまった年代物の魅力的な太鼓台たちが、世代を超えて大切に伝承されていたのです。両地から見学や調査に参加された人々は、失われた自分たち太鼓台の〝過去の姿・カタチ〟を、ほとんど理解できないでいます。隣接する徳島県側に残されている太鼓台たちを、その〝祖先・かけがえのない遺産〟として、見学・調査では熱い想いで接していたのです。それは、だだ単に〝過去の見えざる遺産を追体験する〟というだけではなく、この目で直に過去の遺産と対面して、少しでも〝正確・公平に理解し、後世へ伝えたい〟と願っているようでした。前回や今回の情報発信につながる大掛かりな太鼓台文化の見学・調査・発信活動を可能にしたのは、大勢の、地元の皆様や太鼓台文化を探求する友人たちの、伝統文化に対する真摯な向き合いがあったればこそなのです。(下左から、2012.9.9三好市池田町イタノ、同日池田町西山、同日池田町ウマバ、2014.9.7三好市山城町光兼にて)

 

ただ、私たちが実見した徳島県西部の太鼓台も、現在では伝播当時の華やかさは全く失われてしまい、間違いなく衰退・消滅の方向へと突き進んでいます。さまざまな発展途上の太鼓台を数多く見ることが出来た、約20年ほど前の瀬戸内の島々がそうであったように、訪れた県西部でも超々が付くほどの少子・高齢化と、恒常的な人口減少の荒波に翻弄され、残念ながら太鼓台廃絶の流れをくい止められないでいます。古いもの・過去の遺産・無形の伝承等々、私たちが喉から手が出るほど知りたい手だての〝歴史を語れる客観的な太鼓台文化遺産〟が、残念ながら既に廃絶した地区も多いため、今や〝万事休す〟の瀬戸際にあると言っても過言ではありません。遺っていてくれさえすれば、まだまだ解明の余地があるはずの私たちの伝統文化は、現在では、その正確な歴史さえ理解できない〝存続の最大危機にある〟と言っても決して過言ではありません。

太鼓台文化圏の各地では、地域を象徴する太鼓台の消滅だけではなく、太鼓台の伝承を通じて支えあってきた地域コミュニティさえも、継承者の高齢化や若者不足が深刻で、間違いなく衰退・消滅の危機にあります。私は、太鼓台文化圏各地の置かれている厳しい立ち位置を、改めて問いかけたいと思います。

ところで、四国への太鼓台(この場合には、蒲団型の太鼓台だけに限らす、多種多様の形態をした太鼓台をさす)の伝播については、その経路として〝上方→淡路島→吉野川(船便)→阿波池田→西讃岐or東伊予〟を唱える説があります。果たして、そうなのでしょうか。未だこの説に納得できる客観的な史料にお目にかかれていませんので、私はその説には同調していません。私の見聞きする限り、客観的な徳島県下の太鼓台事情は次のとおりであることを、関連画像を添えて発信しておきたいと思います。

淡路は〝阿波路〟という言い方もあることから(江戸時代に阿波藩であったので)、ここでは淡路島全域を徳島県の関連地として紹介します。上方に近いこともあり、現在はその影響でかなり大型になった蒲団型の太鼓台(だんじり)が各集落にあります。同時に、過去においては、今よりもずっと規模が小さかったことや、曲芸的な所作をする比較的小型・簡素な太鼓台(遣いだんじり)も存在しているのも事実です。

左から、かっての規模を偲ばせている旧・南淡町沼島、写真裏にS14.4.10の記入があった旧・西淡町伊加利本村のだんじりと保管蔵及び収納断片・計5枚、旧・西淡町伊加利山口のだんじりと蒲団内部、旧・南淡町阿万上町、旧・津名町志筑、旧・南淡町福良備前町、同五分一、旧・北淡町斗ノ内浜の水引幕、旧・南淡町阿万塩屋町の水引幕、旧・南淡町阿万吹上町の水引幕、五色町都志長林寺のつかいだんじり2枚、旧・三原町上田八幡のつかいだんじり2枚、旧・一宮町高山のつかいだんじり2枚。

        

◆鳴門市・徳島市・小松島市の、紀伊水道の海岸沿いの地方及び吉野川下流域の地方。

淡路島に近いことから蒲団型の太鼓台が分布しているものと思われがちだが、そうではなく、小型の屋根型太鼓台(さっせぃ・あばれ)が伝承されている。

左から、鳴門市瀬戸町明神・2枚、徳島市勝占町・2枚。

◆吉野川中流域

やや大型の屋根型太鼓台が分布する。阿波市土成町御所神社の勇み屋台(高橋普一氏「阿波市の祭りと民俗芸能」を参考させていただきました)のうち1台は、小太鼓を四方に積み、太鼓叩きの乗り子は外向きに座って打つ形態。旧・麻植郡山川町の勇み屋台(斜めに太鼓を積み、お囃子も乗る。舁棒は前後で長さが異なる)は勇壮に石段を登る。美馬市脇町には、愛媛県東予や香川県西讃と同様の蒲団型太鼓台(よいやしょ)がある。

左から、土成町の勇み屋台3枚。山川町の勇み屋台2枚。

 

脇町・脇人神社の太鼓台

脇町の太鼓台は、地元では「よいやしょ」(掛声からの名称)とも称している。形態や装飾の状況からは、東伊予や西讃岐からの伝播が考えられる。残念ながら、年号記載の道具箱等は確認できていない。装飾刺繍や太鼓台規模に古い時代性を秘めているが、年代特定は不明である。結び方や下に垂れるとんぼのカタチからは、明治初年頃に新居浜から広島県大崎下島大長(現・呉市豊町)へ渡った〝大長・櫓〟の当該部位によく似ている。恐らく、東予方面から中古購入した太鼓台ではないかと思う。水引幕は力強く相当に痛みが激しいが、こちらも創建当時からほぼ手が加えられてないように思う。この幕は、上部の乳・縁(へり)の紋印や、幕全体の波頭のカタチ及び海女の足裏表現等から、松里庵・髙木工房につながる縫師の流儀であると考えられる。精細で厚みの少ない蒲団〆の表側と裏側からは、卓越した縫師の息吹が感じられるようだ。蒲団は7畳蒲団で、内側の閂は2カ所である。

左から、水引幕は新しいものを付けていたよいやしょ。元々この太鼓台に飾られていた幕の画像は後ろにある。カラーは大崎下島の大長の櫓で、とんぼorくくりがよく似ている。〝海女の珠取〟の海女にも龍にも、琴平の松里庵・髙木家の特徴が見られる)最後は蒲団〆の表と裏側。刺繍針の細やかな痕跡からは、昔の職人の手を抜かない丁寧さが認められる。

 

◆吉野川上流域(三好市池田町~同市山城町には前回①の蒲団型太鼓台が分布している)

今回の太鼓台探訪では、明治初期前後の今から凡そ150年程前、讃岐と東伊予に爆発的に広まった刺繡型太鼓台の影響を受けた、脇町-池田-山城の太鼓台の分布状況について紹介する。

三好市池田町公民館に保存されていた太鼓台の掛蒲団

30年ほど前に民俗資料室の壁面に展示されていたが、近年問い合わせたけれども行方は分からなかった。

三好市池田町イタノの太鼓台

建替え前の八幡神社拝殿をバックに撮影している。蒲団〆は鯉の瀧上りで、かっての坂出市の内濱太鼓台にも採用されていた。カラーは坂出・内濱のもので、坂出市・T.T氏所有、西条市・O.T氏等撮影。現在の西讃・東予地方では鯉の瀧上り図柄は珍しいが、かっては存在していた。なお内濱の裏地補強部分から、「大正3・1914年1月22日木曜日」付け大阪朝日新聞の断片が出てきた。

三好市池田町中西の太鼓台

JR三繩駅近くの一宮神社に奉納されている。太鼓台は、讃岐や伊予方面から伝播したものが数組、大切に保管されている。阿波・讃岐・伊予一帯の旧態を偲ぶには、甚だ貴重な遺産であると思う。

左から、中西太鼓台及び組立風景と蒲団部の構造。蒲団構造は阿・讃・予地方の少し前の標準的な形態である。古風漂う虎の蒲団〆の中身は、古綿かと思いきや、燈心が詰められていた。水引幕も年代物である。モノクロの幕の乳部分には、かろうじて紋の〝組合角〟が確認できる。この紋は松里庵・髙木工房の刺繍に多い。一宮神社にはだんじりも奉納されている。道具保管箱も複数あった。

三好市池田町川崎の太鼓台

太鼓台は廃絶していた。神社社務所の民俗資料室に、四本柱を飾る虹梁が遺されていた。

三好市山城町光兼の太鼓台

山間地であり、残念ながら人口減少から太鼓台は廃絶していた。水引幕の上段が光兼太鼓台で使用されていたもの。下段は明治13年1880製の三豊市山本町・大辻太鼓台で使われていた松里庵・髙木製の幕で、坂出市のT.T氏が復元し所有。蒲団〆は、銀色のものが光兼太鼓台のもの。少し太めのものは観音寺市大野原町・辻太鼓台所有のもの。辻の蒲団〆は制作年代は不明であるが、同町のS.T氏により松里庵・髙木製であることが確認されている。両氏には見学日当日に持参していただき、光兼地区に遺る古刺繍と参考比較させていただいた。

三好市山城町大月の太鼓台

大月地区の太鼓台は、別稿「四国山地の太鼓台」にて紹介しているので、そちらをご参考いただきたい。往時の盛大さ・華やかさには及ばないものの、四所神社のお膝元の同地区の太鼓台がまだまだ現役である。

(終)

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徳島県側の太鼓台等の見学について-①

2021年04月20日 | 見学・取材等

徳島県三好市の吉野川・池田ダム湖の北東岸から、徳島・香川両県境に連なる阿讃山脈の急坂を車でしばらく登ると、西山地区に着く。そこから西の山腹に沿った道路は、洞草(ほらくさ)-馬場(うまば)の集落へと続き、その先のT字に分かれた右方は、四国霊場66番札所・雲辺寺へと登り道が伸びている。西山と馬場には太鼓台、洞草にはだんじりが伝えられている。そのT字を左方に曲がると、井ノ久保集落の三社神社の横を通って雲辺寺への登り道入口に降りていく。そこから川之江方面への国道192号線沿いの、馬路・佐野地区にも太鼓台が伝えられている。

西山(西山本名)太鼓台

このうち、装飾刺繍を明治23、24年(1890-91)の両年に新調した西山太鼓台は、香川県の中讃から西讃・愛媛県東予・徳島県西阿地方の一帯に広がる巨大な〝刺繍太鼓台〟の発展に大きな功績のあった、松里庵・髙木縫師と、髙木縫師に続いて興った山下縫師(西山地区は山下縫師の故郷で、旧姓は川人氏。見学・調査に訪れた2012年9月、初めて知った)との、珍しい両師共同での〝コラボ制作の太鼓台〟である。西山太鼓台に関する情報発信としては、本ブログの昼提灯余話(2)や、冊子『太鼓台文化の歴史』(2013.3観音寺太鼓台研究グループ/刊の75㌻)等にて紹介している。そのうちの昼提灯余話(2)では、髙木・山下両縫師のそれぞれ初代と目される髙木定七師・山下茂太郎師について、以下の比較表のように、方や伝統の技・髙木縫師、方や新進気鋭の技・山下縫師として、互いの密接な関係性を述べている。しかし山下縫師の出身地である現在の西山地区は、急激な過疎化の進行により誕生から約130年を経た今、倉庫の中で半ば放置状態となっている。四国北岸地方の刺繍型太鼓台発展の礎を確かなものとした〝西山・コラボ太鼓台〟の盛衰は、真に悔しい限りである。

以下の写真は、上段が地元出身の山下(旧姓・川人)縫師の、蒲団締及び昼雪洞関連の品々。下段は髙木縫師関連の掛蒲団と水引幕に関する品々。これ以降の両縫師の工房は、互いを信頼しあった切磋琢磨が続き、この地方の太鼓台の大型化・豪華絢爛化など、太鼓台の巨大・均一化へと突き進むこととなった。

洞草(ほらくさ)だんじり

西山地区から西へ進むと畑の中に川人家庄屋屋敷がある。その辺りが洞草集落で、だんじりの装飾刺繍は山下茂太郎工房の作である。

 

馬場(うまば)太鼓台

昭和60年(1985)に見学した馬場・四所神社秋祭りの太鼓台は、現在の東予・西讃岐の太鼓台に比べると一回り小振りであった。装飾類の痛みも既に相当に目立っていて、その何年か後に再訪問した時には、蒲団〆なども更に素人の手が加えられていた。馬場の隣集落の西山からは、川人茂太郎縫師(後の山下茂太郎縫師、山下縫師の初代)が出ている。山下縫師のお弟子さんとして、馬場からは、森本民蔵縫師(親族の方からは、山下工房の一番弟子と聞いた)や、後に淡路島で成功された梶内近一縫師を輩出している。四所神社には、若き森本縫師が大正3年(1914)に年季明けした際の、奉納刺繍絵馬(最後の画像)がある。森本縫師は不運にも若くして他界したと聞いた。

   

井ノ久保太鼓台

国道192号の阿波池田方面から四国霊場・雲辺寺への登り道を行くと、井ノ久保・三社神社があり、そこに太鼓台が受け継がれている。太鼓台の道具保管箱には明治中期から後期の年号記載があり、伊予方面で使われていたものであることが分かる。写真の金縄保管箱に書かれている〝東伊予三嶋村・上町若連中・町中持處、明治廿四年旧九月吉日〟からは、香川県三豊市山本町・河内上組太鼓台に伝えられた道具箱〝金大八ツ房并同小房入箱、明治廿六年秋、新拵東雲(上町/久保太鼓台の別名)〟との関連も見えてきそうに思う。蒲団枠は明治20年製、閂は中央に1カ所であった。太鼓叩きの乗り子は、顔の少し右手でバチを十字に組んでいた。この所作も各地で同様なものが見られている。なお現在の神社へは、太鼓台は平たんな道路から境内へ直に入れるが、道路整備がされていなかった頃には、境内を見上げる足場の悪い急坂を、地域総出にて宮入していたそうである。(最後の写真)

   

馬路太鼓台

雲辺寺方面から下ってくると国道192号へ出る。国道を伊予方面に走ると、右手に杉の大木が目に留まる。馬路地区の境宮神社である。ここにも太鼓台が現役で奉納されている。飾られている蒲団〆と水引幕では、制作した工房は異なっていると思う。水引幕は松里庵・髙木工房製の特徴がみられているが、蒲団〆の方はそうではないように思う。

遺されている道具箱の蓋書き等(最後の3枚の画像)からは、「干時天保六年(1835)・乙未八月吉□日〝高欄掛廻(幕) □入箱〟□(若連中)」(縦長い板のもの、□は不明文字)、「天保六(1835)乙未〝衣装水引・天蒲団入 箱〟八月吉祥日 辻若中」(辻は、曼陀峠下の讃岐大野原の辻地区である)、「安政二年(1855)〝 蜻蛉補従(とんぼ補充)入箱〟卯八月求之馬若連」(馬若連は馬路若連中のこと)が確認できる。なお、天蒲団と蜻蛉補充入箱については、「天保4年の伊吹島・南部太鼓台への見積書について」の、詳細解説のC(上蒲団)及びD(とんぼ結)を参照していただきたい。写真の蒲団〆も水引幕も、箱書きの時代よりもかなり後の時代のもので、水引幕の方がより古いと思う。

    

佐野太鼓台

馬路地区より更に伊予寄りの、ちょうど讃岐の曼陀峠(まんだ―)を下ってきた佐野集落にも、太鼓台が出されている。蒲団部の内部には閂穴がない。四本柱を下から支える〝せり上げ〟と称する部位がよく見える。台脚の四脚の外側から斜めに貫かれた部位(先端は補強のため鉄を被せている)が、それである。大阪府貝塚市や伊吹島などでは、普段は高いまま運行する太鼓台を、鳥居や随身門を通過する際に低く下げるための構造を〝せり上げ〟(実際は〝せり下げ〟であるが)と称している。太鼓台を上下する必要のない地域では、高さを一定したままで運行するため、佐野太鼓台のような構造となっている。西讃岐から東伊予・西阿波にかけての地方では、この部位を四本柱を支える構造としてとらえているため、〝せり上げ〟のことはほゞ話題にのぼることはない。ただ確かに、川之江地方では、今も〝せり上げ〟の語彙を使用していると聞いている。最後の3枚は、お祭り終了後の秋の夕刻、後片付け風景。

(終)

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芸予諸島海域の太鼓台

2021年03月17日 | 見学・取材等

芸予諸島の太鼓台分布

愛媛県今治市と広島県尾道市から三原市沖にかけての芸予諸島にも、各種の太鼓台が数多く分布している。太鼓台の初期段階に登場した櫓型太鼓台は見られないものの、四本柱型・平天井型・屋根型の太鼓台は各所に見られる。その概要は以下の地図のようである。

現在しまなみ海道の架かる今治市と尾道市との間の南北の海域に散らばる大小の島々。このエリアは、遣隋使や遣唐使の時代から海賊・村上水軍の時代を経て近世・近代の帆船の時代に至るまで、常に瀬戸内大動脈の〝海の難所〟と位置付けられていた。芸予諸島と称されるこのエリアは、島と島との間隔が狭く海流が複雑に流れる環境下にあっても、海流を知り尽くした小型・無動力船を使った島同士の行き来は、自然と濃密であった。また、入り混じった島々の帰属についても現在の県境とは異なり、安芸と伊予の間では今とは支配が異なる地域もあった。そして、複雑な地形で相互に近い島々は、祭礼などの伝統文化においても、同様な共通する奉納物が多々見られる。中でも、経済活動に付随して西日本一帯に撹拌された近世の太鼓台文化が、この海域でも各所に広まっている。このエリアに住む人々の生活が互いに影響を及ぼし合ってはいるものの、太鼓台の導入時期に若干の年代的差があったのか、発展段階の異なる太鼓台(即ち、簡素・小型で祖型的なものから、かなり豪華で大型の太鼓台まで)文化を育んできた。上の略地図上に、異なる形態の太鼓台伝承地域の概要を示しておく。

この海域の太鼓台

簡素な太鼓台として、大崎下島の南に位置する斎島の櫓(尼崎から伝わると伝承あり)、少し大きくなったと聞く呉市安浦町三津口のだんじり(3枚)、今治市・大浜八幡神社の奉納絵馬(嘉永5年1852)、最後は越智大島・渦浦のやぐら

越智大島の屋根型太鼓台・やぐら。今治市吉海町(前4枚、乗り子は四本柱に縛りつけている)と同市宮窪町(後2枚、分厚い飾り蒲団を尻に敷き、四本柱に括りつけられている)

最初の2枚は今治市波止浜町・龍神社の奉納絵馬(慶応3年1867)、上島町魚島のだんじり(後方は芝居小屋)、同町上弓削のだんじり

「文政3年(1820)大坂・三井納」の道具箱が伝わる大崎下島・沖友の櫓(2枚目の絵馬は天保13年1842のもの。蒲団を下した夜間奉納時を描いている?)、3,4枚目の御手洗・櫓の始まりは、文政13(1830)年の住吉神社建立(主には大坂・鴻池の寄進)と関連するのだろうか?、5枚目は三原市幸崎町能地のふとんだんじり、最後2枚は大崎下島・大長の櫓(明治初期に新居浜から伝えられた太鼓台。装飾刺繍は後代のもの)

芸予諸島海域の各種太鼓台を眺めてみると、太鼓台先進地の大坂や装飾刺繍の豪華な四国から、時代を超えてこのエリアに集められて来たようにさえ感じる。実際には以外と狭いエリアではあるが、これほど多い種類の太鼓台の存在は、文化の研究を志す者には大変ありがたい。この地方が、西日本における〝太鼓台文化圏の縮図〟と言われる所以である。幸いなことに、各地では古い文化遺産的な品々も、まだまだ大切に伝承されている。この地方からの遺産情報を基に、客観的な太鼓台文化の解明に一層役立てたいと想う。

(終) 

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燧灘・魚島だんじり<H15.10.5見学>

2021年03月11日 | 見学・取材等

初めに

私のふるさと香川県西部・観音寺市辺の漁師は、魚島のことを”沖の島”と呼んでいる。多島海の瀬戸内でも、ゆるやかな円弧をなす四国北岸の燧灘には島が少ない。その中でも魚島はその名のとおり、かっては鯛網漁に沸いた遥か沖合いの未知の島であって、私にとっては見えてはいるが、しかし遠い島であった。私の家からは歩いて10分もすれば、魚島は伊吹島の右後方に重なるように眺められ、直線距離にして約30kmでしかない。父の代まで漁師をしていた関係で、子供の頃には漁船に乗せられて沖へも出たが、"伊吹島-円上島(マルガメ)-股島(マタ)-魚島諸島-弓削島-尾道"へと連なる"飛び石列島"は、現在に至ってもなお、私の原風景の大きな部分を占めている。伊吹島や遠くの島影が夕日に染まる光景などは、内海の"至宝"と呼ぶにふさわしい、絶景的美しさである。

1枚目は魚島の展望台から、江の島(無人島)や、その後方・伊吹島から香川県西部を望む。2枚目は1枚目の逆方向から望む。即ち、香川県西部から伊吹島と伊吹島の後方に重なる魚島や弓削島方面を望む。3枚目は、四国側から見る燧灘の日の入り。

魚島への交通は、今治港から弓削島まで船で行き、そこで魚島村(現在は愛媛県越智郡上島町魚島)営の高速船に乗り換える方法と、因島市土生(ハブ)港始発の、同じ高速船に乗る方法がある。今回私は、四国側から"しまなみ海道"を因島土生港まで行き、午前8時発の便に乗った。四国・香川県からは燧灘をぐるりと半周したことになる。乗船時間は約1時間、約4時間の片道行程であった。

魚島の太鼓台"だんじり"

昭和50年頃に太鼓台の分布調査を行った際、「伊吹島に太鼓台があるのだから、その向こうの魚島にも太鼓台があるのではないか」-まず、そのように思い立った。その後、つたない問い合わせに、当時の教育長さんからご丁寧な返信をいただき、頑丈な3畳色違いの蒲団型太鼓台"だんじり"の存在を知った。(結果として、燧灘・飛び石列島の伊吹島、魚島、弓削島には太鼓台が伝承されていた)その折にいただいた「広報うおしま・第18号」(S53.11.20)の冒頭ページには、<老人パワー爆発新調のダンジリに張切る明治青年>と題して、港の造成地において練られている写真が掲載されていた。以降、私にとって魚島だんじりは、是非とも見学したい太鼓台の一つになった。過疎の小さな島の太鼓台、瀬戸内孤島の太鼓台、人々とだんじりとの関わり、その歴史等々、ある一種の懐かしさをイメージしながら、どれをとっても興味の尽きることはなかった。

亀居八幡神社

港に着き、人家が密集する急な坂道を上り詰めると亀居八幡神社に着く。現在は島を循環する県道を通れば、神社の鳥居まで車で容易に訪れることもできる。「安永7戊戌八月」(1778)と刻まれた鳥居が、循環道路と社叢とを分けている。境内は思いのほか広い。鳥居から拝殿までは、直線で優に100mはある。島の頂上付近に位置する境内は、島一番の立地条件の良さであった。島民こぞって神域を大切にしてきたことが窺い知れる。

拝殿向かって左側に神社再建記念碑が建てられている。元禄6年(1693)とあるから創建は更に古いことが偲ばれ、瀬戸内のこの地域において、かっては魚島が重要な位置を占めていたことが想像できる。なお、本殿・拝殿の他、神殿・神馬舎・舞台(芝居小屋)・御手洗舎・だんじり小屋・絵馬堂等が建てられており、その他に石燈篭や構築物も数多くある。それらの奉納した時期を示すと、鳥居の安永7年以外では、享和三亥(1803)・文化十一戌(1814)・文政七申(1824)・文政九戌(1826)・文政十三庚寅(1830)・天保二辛卯(1831)・天保四癸巳(1834)・天保十二(1841)・弘化三丙(1846)・弘化四未(1847)・嘉永三酉(1850)・安政三(1856)などとあり、18~19世紀の幕末期に集中している。

上記写真は魚島だんじりの概要-長い参道を曳かれていくだんじりと、だんじりに奉仕する人々及び"横倒し"の様子。担ぎ手の若者は、本当に少ない。蒲団部の構造とだんじり本体。

だんじりの規模は、蒲団上端から台足(台車含まず)までが約275cm、舁棒の長さは前後で約5m強、横棒が約3.5mであった。舁棒は井形に組む。台車と太鼓台は固定されていて、長老の方にお尋ねしても「台から外したことはない」と言っていた。 だんじりの構造や地理的・経済的関係から、広島県福山市の鞆浦にある"ちょうさい"(太鼓台、下の写真3枚)と、何らかの関連があるのではないか、と私は考えている。なお最後の写真は、上島町弓削島・上弓削地区のだんじりである。

お祭りの現状と課題

昭和40年頃まで魚島の秋祭りは、旧暦の8月14~16日の3日間であった。現在は10月上旬の金・土・日曜日になっている。第1日目が宵宮で、午後7時から、舞台で芝居やカラオケ大会などがある。以前は、この晩には島民全員が"おこもり(参篭)"を行っていた。2日目の午前10時頃から神輿の宮出しがある。だんじりは最終の日曜日に出している。

魚島村は、役場のある魚島と、高井神島(先祖は塩飽諸島の高見島から移住してきたらしい)、江ノ島(無人島で、島周囲の漁場は"吉田磯"と呼ばれ、鯛網の好漁場として名高い)及びいくつかの小属島からなっている。1992年(昭和53年10月)当時、村全体で人口が535人、200世帯であった。2004年10月1日に、当時の弓削町・生名村・岩城村と合併して「上島町」となったが、旧・魚島村人口は334人、世帯数は177戸と大幅に減少している。 訪問した2004年(H15)当時、有人島の高井神島を除くと、魚島には260人位しか住んでいなかった。わずか260人の島が、3日間にもわたるお祭りを執行していたことを、私には想像できなかった。

私は、3日目の朝からダンジリ奉納が終わる夕方までを、見学させていただいた。まず青年団員の少ないこと、若い人が少ないこと、高齢化が進行していることが特徴的だった。後で聞けば"島の若者はほとんどいない"のが現状らしかった。漁業で生きる島なので、若い後継者が大勢いるかと思ったのだが、そうではなかった。若い時に島から出て、彼の地に生活の根を下ろすと、なかなかUターンもままならないのが現状。確かに漁業は島の基幹産業ではあるが、従事者は高齢化している。従って、当日のだんじり運行に参加したのは、学校の先生・駐在さん・役場の職員・漁師さん・村会議員の皆さんの10名余りであり、他は年配者や女性や子供たちであった。高校生が2人そばにいたが、残念ながら見ているだけであった。

運行の様子をスナップした写真でもお分かりのように、確かに少人数での運行を余儀なくされている。頑丈で立派なだんじりが伝承されているのだから、もう少し何とかならないものかと考えてしまった。ある祭典関係者が、「お祭り期間を3日間に設定しているのは、神輿とダンジリを同日運行できないから」と話されていた。参加者数を数えてみて、私もそう思わざるを得なかった。お祭りをわずか島民260名が行うのは、既に人的限度を超えていると思った。島に住み、島を守る人々と、島外に出て生活している人々との"共同作業"が、必要不可欠と感じた。

そのような観点が許されるのなら、「お祭り3日間が、長いかどうか」も、再考してもよいのではないか。金・土・日曜開催というのは、当時としてはよくよく考え抜いた設定だったと思う。しかし、新しい観点の場合、金曜日に仕事や学校が終わってから船便を利用してまでは、遠い魚島までは帰れないと思う。折角、家族・親戚が一緒になって楽しめる工夫の芝居やカラオケ大会があるのだから、少しもったいない気持ちがする。これらを土曜日の晩に設定できるのなら、少なくとも子供たちは帰省しやすいと思う。そして最終の日曜は神輿とダンジリを一緒に運行し、島内外の子供たちや出身者に協力してもらい、思い切り神輿やダンジリに取り掛からせたらどうだろうか。気ぜわしく生活する子供たちや出身者にとっても、何物にも変えがたい体験と達成感が得られると思うのだが。

現状は残念ながら、「帰省客はほとんどいない」と聞いた。最終日、帰りの船便で弓削港で降りたのは、女子高生らしき2人と今治から来ていた写真屋さん1人で、終着の因島土生港まで乗っていたのは、釣り客3人と私たち2人だけであった。汗ばむほどの上天気だったし、さわやかな一日であったのに、帰省客の少ないことがとても不可解でならなかった。

"島からの情報発信を"= 島の出身者は渇望している

わずか260人に減少してしまった(現在は更に過疎化が進行している)故郷・魚島を活性化できるのは、恐らく島外に住む島出身者・関係者かも知れない。それら人々とのコンタクトを、島全体としてどうとるか、ということが今後ますます重要になってくると思う。一言でいえば、「島からは、タイミングよく新鮮な情報を発信する。島出身者・関係者は、その情報を漏らすことなく素早くキャッチする(できる)」ということに尽きる。登録制・会員制など、どのような方法があるのか。魚島に住む人々と、島出身者及び家族とを固く結びつける情報ラインの整備が、本当に重要だと思う。

掛声"伊勢音頭”

だんじりを運行する時の掛声は、「ヤレ、ヤレ」か「カヤセー」くらいであった。「チョウサ」の掛声は神輿を担ぐ時には使うが、だんじりでは使用しないらしい。以下の伊勢音頭と言われているだんじり運行時の音頭も、「くどき」をする者がいないため、かろうじてメモを見ながらの唄となっていた。以下に特徴的なものを記す。

◎ めでためでたが三つ重なりて、一昨年(おととし)や、下(しも)にて金もうけ、去年は南に蔵を建て、

 今年はせがれに嫁もろて、嫁をもろたるお祝いに、犬と猿とが舞を舞う、

 いぬまい、さるまい、いなすまい

◎ 娘十七・八は嫁入り盛り、たんす長持挟(はさ)み箱、これほど仕立てやるからにゃ、二度と戻ると思うなよ、

 父さん母さん、そりゃ無理よ、もののたとえにあるとおり、

 東が曇れば雨とやら、西が曇れば風とやら、北が曇れば雪とやら、たとえ南がすいたとて、

 千石積んだる船でさえ、港出る時やまんまとも、出て行く沖の模様次第、風が変れば後戻る、

 そういう私も同じこと、殿に縁なきゃ後戻る

◎一かけ、二かけ、三かけて、四かけて、五かけて、橋架けて、橋の欄干(らんかん)に腰かけて、

 はるか向こうを眺むれば、白いかもめが三つ連れて、三つ三つ連れて六つ連れて、

 あれ見やしゃんせ、かかさんよ、池や小川の小鳥さえ、

 夫婦仲良く暮らすのに、なぜに私は一人者(旅)

◎今度この丁(ちょう)に、豆腐屋ができて、そのまた豆腐が申すには、わしほど因果なものはない  

 朝は早よから起こされて、水攻め火攻めに遭わされて、水攻め火攻めはいとわねど、四角箱にと詰められて、

 一丁二丁の切り売りや、後に残りしおからまで、一銭二銭のつまみ売り、

 汁まで瓶に詰められて、牛の乳やのかわりなし、

 親はどこじゃと聞いたなら、親は畑でまめでおる

◎これのお家をちょいと褒めましょか、

 表は黄金(こがね)の門がまえ、裏に廻りて眺むれば、七巻半の姫小松、

 一の枝には金や銀、二のまた枝には鈴がもり、三の枝には短冊を、

 上から鶴が舞い下り、下から亀がはい上る、末は鶴亀五葉の松

◎ゆうべ夢見た目出度い夢を、

 いざなぎ山の楠で、新造つくりて今朝おろし、

 帆柱金の延べがねで、帆は法華経(ほっけきょう)の八の巻、

 帆縄や手縄は琴の糸、斜(はす)や両帆は三味の糸、

 艫(とも)の真向こに松植えて、松のあらせを帆に受けて、

 宝ヶ島へと乗り込んで、よろずの宝を積みこんで、

 七福神が舵(かじ)を取り、この家さして走りこむ

◎ちょいとボタモチよ、おさえてこねて、

 小豆や黄な粉のべべを着て、楊子箸(ようじはし)をば杖につき、

 口の番所や歯の関所、奥歯の茶屋にて腰をかけ、のどの細道お茶で越す、

 お腹に一夜の宿をとり、明日はお立ちか下くだり

◎そこらあたりの姉(あね)さんよ、私の言うこと聞いてくれ、二度とは頼まぬ一度だけ、

 三千世界の星の数、お山で木の数、萱(かや)の数、

 神戸兵庫の船の数、七里ヶ浜の砂の数、

 これほどこまごま頼むのに、姉さナ、くまがい、ふたごころ

◎伊勢は豊久野、銭影松よ、今は枯木で、朽ちかかる

◎伊勢は萱葺(かやぶ)き、春日は桧皮(ひかわ)、八幡はちまん、こけら葺き

◎新造つくりて、浮かべて見れば、沖のカモメの、浮くごとく

◎わしとお前は、卵の仲よ、わしが白味で、黄身を抱く

◎伊勢へ伊勢へと、萱(かや)の穂はなびく、伊勢は萱葺き、こけら葺き

◎新造つくりて、なに積みなさる、鯛を積みます、めでたいを

◎新造つくりて、なに積みなさる、昆布を積みます、よろこぶを

◎ちょいと出します、藪から笹を、つけておくれよ、短冊を

◎娘十七・八は新造の船よ、人が見たがる、乗りたがる

◎わしとお前は将棋の駒よ、飛車飛車王手(ひしゃびしゃおうて)、今日までも、

 なんの桂馬や、歩(ぶ)あいさつ、金銀つこうて下さるな

 私が女房の角なれば、盤の上にて王手指す

(終)

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