各地の昼提灯
太鼓台に付属する昼提灯は、提灯とは言っても実際に明かりを灯す実用的なものではない。淡路島や近畿方面等でよく見られる豪華な刺繍を施した飾り提灯で、四吊りが一組のものである。現在でも、一部琴平などの中讃地域では丸い小型の飾り提灯を採用している地区があるが、中西讃から東予地方にかけてのほとんどの太鼓台では、その場所に大きな房を飾るのが現在の姿である。四国北岸の紹介する昼提灯は、関西圏の昼提灯と比べ、筒部分が細長く、かなり胴長である。
・写真左から、淡路島沼島(ぬしま)/淡路島/明石市/三木市/加西市/奈良県宇陀市/鞆の浦
・写真左から、坂出市(S・T氏提供)/丸亀市塩屋/高瀬町下麻/詫間町箱浦/西条市(H・S氏提供)/山本町大辻(坂出市S・T氏復元)
今回は「昼提灯・余話(1)」として、山本町・大辻太鼓台で使用されていた獅子・牡丹図柄のものを紹介し、後日に「昼提灯・余話(2)」として、山城町・大月太鼓台と池田町・西山太鼓台の「酷似した昼提灯」について述べたいと思う。
縫屋「松里庵・髙木家」のサイン
平成16年(2004)5月、知人に紹介されて坂出市のS・Tさん宅を訪問し、昼提灯の分解・復元作業の一部を見学させていただいた。古い時代の太鼓台に採用された昼提灯に、太鼓台刺繍の縫屋・高木家の工房名「松里庵」(しょうりあん)が、外からは全く見えない「筒内部にサインされている」とのことであった。
松里庵・髙木家は、香川県・中西讃から愛媛県・東予地方にかけての太鼓台装飾刺繍の著名な縫屋で、明治時代の中頃までは琴平で活躍した家柄である。元々は芝居(金毘羅芝居や各地の地芝居等)で使われた豪華な刺繍衣裳を主に手掛けられていたと考えられているが、各地で太鼓台が盛んになった明治中期以降は、太鼓台の装飾刺繍に転進している。(明治末期の時点では、後に同業となる山下家と共に、この地方の太鼓台の豪華及び流布・発展に大きな影響を与えている)
昼提灯の「復元」作業
S・Tさん宅では、年代光りのする見事な昼提灯が天井から吊るしてあった。視線を作業台に移すと、そこには桐の正目板で丁寧に作られた本体である円筒2本と、筒から剥ぎ取られた復元作業途中の刺繍片があった。
・復元作業の各部位。外からは見えないところに〝落書き〟的に書かれている。(何れも坂出市S・Tさんから提供)
開口一番、S・Tさんは「私の作業は、本来的には邪道です」と刺繍復元作業に対する自論を話された。「自分は素人であるにも関わらず、昔の職人さんが丹精込めて制作し、歴史を経過した美術工芸品を、いくら細心の注意を払って修復すると言っても、その作品の値打ちを反故にしてしまう、行ってはならない行為です」と。「しかし、余りにも繊細で素晴らしい作品が、その存在すらも正当に世間に知られないまま埋もれてしまうことの方がなお悔しい。無数の針の一刺し、糸の流れ、詰めた古綿の量と正確な充填位置等々、可能な限り忠実に、手間と時間を惜しまず復元を成し遂げたい。完了した折には何らかのかたちで披露・紹介したい」と、熱く話された。
年数が経ち、役目を終えた昼提灯であり刺繍である。しかも金糸が垂れ下がり、そのままでは鑑賞できるような状態ではなかった。S・Tさんの古刺繍に対する態度は、過去によく見た“間違った延命策”とは明らかに別次元のものである。私たちは、年代物の刺繍幕等を、一時凌ぎだけで思慮もなくラッカーをやボンドを使い作品を殺してしまった例をよく知っている。
太鼓台刺繍は、制作直後の現役最初の時から「傷み」は進行し続ける。細心の注意を払っても、やがては輝きを失い「美術工芸品や作品」の位置から転落し、その命運が尽きるのがごく当たり前である。しかし役目を終えた古刺繍にも、太鼓台文化圏トータルの「遺産」としての価値や役割があるはず、と私は常々考えている。遺していてくれさえすれば、後年役立つ時が必ず訪れると確信している。私は、S・Tさんの刺繍復元作業に対する真摯な姿勢を全面的に支持する。
なおこの昼提灯には、文殊菩薩が住むといわれる唐土・清涼山の石橋(しゃっきょう)があしらわれ、そこに文殊菩薩の眷属である百獣の王・獅子が現れ、咲き誇る百花の王・牡丹と戯れ狂う様子の図柄となっていた。
昼提灯から得た情報や解明事項等を、手短に振り返る。
❶S・Tさんが、新居浜のさる方から山本町・大辻太鼓台で使用されていた古い昼提灯を譲り受けた時の状況は、縫糸が長く垂れ下がり、刺繍の浮き上がりも全面に生じ、更には筒下部の刺繍には弱いラッカーが吹きつけられている等、見る影もない状態であった。しかし、金糸の細いこと、細やかで丁寧な作りであること、作品には人の目を惹きつける緊張感が十分に感じ取れることなどの理由から、「先人の素晴らしい作品を、陽の当たらないこのままでは何とも惜しい。できる限り使用されていた良好な状態に復して、後世へ伝えることができないか」との強い想いから、氏自ら復元作業に取り掛かられることとなった。
➋譲られた時点では、制作した縫師は東予地方の山下茂太郎縫師(前述の山下家初代、旧姓は川人氏。阿波池田出身、川之江へ進出、後に伊予三島住)と聞いていたので、それを信じていた。しかしその後、各地の古い刺繍を見る機会が増え、それぞれの縫師の家の流儀が何とはなく比較できるようになると、「山下縫師の作ではない」と思い始めるようになった。
➌そこで、他の刺繍と比較検討する部位として、最も特徴的であると感じられた“牡丹”に注目するようになった。牡丹を選んだ理由は、獅子や龍のように派手さこそ無いものの、平面的な作りではあるが不思議に立体感が感じ取れ、他の縫師のものとは一味違った味わいが感じられたからであった。
➍昼提灯四本のうち、二本が特に痛みが激しいため、提灯上下の“鉢”と呼ばれる部位を密封する筒蓋を取り外し、筒内部から手を差し入れて修復する作業を余儀なくされた。すると、筒内部のまだ十分に真新しい桧の正目板に、「讃岐琴ひ□ 金山寺町 松里庵・髙□」「縫し 定七・秀吉・金□郎・為子・定治郎 縫御用・松里庵 愛媛県」「讃州琴平 金山寺町 松里庵」などと墨書きされているのが見つかった。
➎また、分解した獅子刺繍の下絵裏面には「奉納 讃岐国琴平村 四国八十八ヶ所 同行十一人」と細かい文字での落書きが見つかった。この11人がどのような関係の人たちなのかは不明ではあるが、S・Tさんは恐らく昼提灯制作に携わった職人さんの人数ではないかと想像されていた。
❻丁度その当時、香川県歴史博物館(現・県立ミュージアム)で開催されていた「太鼓台を支えた技と心」展(H16.2.4~4.4)を見学した。「高木定七 ボタン図・元絵 松里庵」の説明書きが目に留まり、提灯の牡丹部分の写真と展示されていたボタン図・元絵とを、幾度か見比べる作業を行った。
❼それらの比較検討の結果、これまで山下茂太郎縫師の作と言われていたものが、実は髙木縫師の家の作であることが判り、琴平で作られたこと、現在の香川県が愛媛県の時代であった頃、即ち明治9年(1876)から明治21年(1888)までの間の制作になることが判明した。
❽更に画期的なこととして、後年、制作年を知ることとなった保管箱が、山本町・大辻太鼓台で現存していることが、山本町在住のY・Hさんの紹介によって判明した。
聞取り調査によると、保管箱は昭和26年(1951)に作り替えられていたが、その箱の落とし蓋に、旧保管箱の墨書が書き写されていたのである。「明治13年(1880)庚辰 遊獅子親子狂昼釣箱」とあった。定七縫師の生没年(1852嘉永5年-1920大正9年)からすると、27、28歳頃の作品ということになる。分解した筒の「讃州琴平 金山寺町 松里庵」記載とも合致することが明らかとなった。
❾判明した各史実から、定七縫師の20代後半の作品であるとするなら、これほど立派な作品が、単独で成し得たかどうか。むしろ、「縫し」として名前が記載されていた松里庵の定七以外の縫師たち(秀吉・金□郎・為子・定治郎)の存在や協同作業の有無などが、今後注目されてくるのではなかろうか。即ち松里庵・高木家には定七以前の凄腕の縫師たちが存在していた可能性が大であり、彼等及び彼女たちの制作努力無くしては、装飾刺繍を多用した現今の豪華太鼓台への発展は見られなかったかも知れない。またよく、「この作品は、○○縫師の作品」と、あたかも一人の縫師が単独で制作されたかのように語られるが、そうではなく、間違いなく多人数の職人の共同作業により、その家の流儀によって作られていることを、今一度再確認しておくべきだろうと思う。
太鼓台・豪華刺繍のルーツは、金毘羅大芝居と各地地芝居の衣裳にあり。
四国北岸の太鼓台は「刺繍太鼓台」である。どちらかといえば彫刻に重きを置く関西圏の太鼓台と比較しての話である。それでは、なぜ刺繍が四国北岸で豪華に発展したのか。これらの刺繍を生み出す素地はどこにあったのか。そして、豪華への芽生えはいつ頃なのか。そのキーワードは、松里庵・明治13年製のこの昼提灯にあるのではないか、と考えた。
豪華な立体刺繍を生み出した素地-それは、まさしく縫師集団・松里庵が活躍した金毘羅門前町そのものにあった、と断言する。金毘羅信仰・金毘羅参り・流し樽の風習・金毘羅社の全国分布・金毘羅船・金毘羅街道の隆盛などが物語るように、かっての琴平は全国や四国島内各地と直結していた。特に上方の豪奢な装飾文化-歌舞伎衣裳の装飾刺繍に代表されてよい-が、金毘羅大芝居の存在を通じて流入してきたことが、全てではないかと考えている。
各地に広まった中小の地芝居では、豪華な衣装群を「上方→琴平→各地」への図式で広まっていったと考える方が、芝居や衣裳を「上方から直接受け入れた」と考えるよりも各段に説得力があり、実際にも多かったと思われる。
私たちのグループ(観音寺太鼓台研究グループ)は、2016年から数年間に亘り公益財団法人福武財団の助成をいただき、香川県下の農村歌舞伎の衣裳調査を実施することができた。その主たる目的は、太鼓台古刺繍との共通点の確認や比較検討作業を実施することであった。そこでは、工房・松里庵で作られた太鼓台古刺繍との酷似点が多々認められた。このことから、各農村歌舞伎が所有する豪華刺繍衣裳は、伊勢参りなどの土産として帰路の大阪などで買って帰ったものよりも、松里庵のあった地元・近場(琴平及び工房移転先の観音寺)で制作したものの方が多かったというのは合理性がある。私たち観音寺太鼓台研究グループが地歌舞伎衣裳の調査をさせていただいたのは、農村歌舞伎祇園座(高松市香川町)・小海自治会(土庄町)・中山農村歌舞伎保存会(小豆島町)・肥土山農村歌舞伎保存会(土庄町)の全衣裳と、大部地区協議会(小豆島北部にある。四国村に寄託中)の一部豪華衣裳であった。そこでは、明らかに太鼓台古刺繍と酷似する表現が多々確認されている。
「松里庵」以前のこと
金毘羅大芝居が常小屋として金山寺町に建ったのは、天保6年(1835)と言われている。それまでは、門前町との境界辺において仮設の掛小屋で興行していた。
常小屋が建って間もない天保9年(1838)4月に、常小屋東側の金山寺町繁華地で45軒余が焼失した大火事が発生する。その折の被害状況を書き記した焼失略図「金山寺町図」が金光院「日帳」に残されている。『近世の芸能興行と地域社会』(神田由築・著/東京大学出版会)の71㌻には、常舞台の南側小路に、「白川屋 縫」と縫屋(ここは焼失を免れた)の存在が記されている。その向かいに「髙木屋」(消失)が確認できる。松里庵・髙木家と髙木屋が同一のものとは必ずしも特定できないが、明治13年(1880)制作の昼提灯筒内部に墨書された「讃州琴平 金山寺町 松里庵」とも合致することから、大火のあった天保9年からは40年余り後にはなるが、両者はほぼ同一のものとして間違いのないものと思われる。そして白川屋という縫屋との関係にも興味が沸いてくる。
実は、この地方の太鼓台装飾刺繍のルーツや発展過程をより正確に知るには、どうしても松里庵・髙木家の観音寺での初代である髙木定七縫師(嘉永5年1852~大正9年1920)以前の状況を学び知ることが是非とも必要となる。定七縫師は琴平で誕生している。既に紹介した明治13年の見事な昼提灯が、今のところ私の知る彼の最も若い時代の確かな作品である。そこには秀吉・金□郎・為子・定治郎などの複数の名前が書かれていた。また四国遍路に例えた「同行11人」の落書も眼にとまった。わずか27、8歳でそれだけの職人を束ねていたのだろうか。素朴な疑問として、彼以前の縫師の存在があったのではなかろうか、と思えて仕方がない。ましてや、松里庵と思われる「髙木屋」の小道を挟んだ直ぐ前に、「池田屋」という縫屋が存在する。池田屋と髙木屋はどのような関連があったのだろうか。現時点、北四国太鼓台の装飾刺繍の歴史解明は、ここのところで止まったままなのである。
松里庵・髙木家の東予・西讃への進出
髙木定七縫師が琴平から観音寺に拠点を移している。役所への届出は明治35年(1902)となっている。(観音寺での松里庵四代目・髙木敏郎氏よりご教示)果たして明治35年に移転してきたのが本当に正しいのだろうか。
2007年10月、山城町・大月太鼓台(現・三好市)昼提灯・再見学時のノート記録には、“松里庵の観音寺への拠点移動は、明治23年(1890)頃ではないか”との私のメモがある。その理由としては、大月太鼓台の昼提灯の取材を終えた帰り際に、初対面のご婦人から次のように声をかけられたからである。「明治7年(1874)生まれのひいおじいさんが16歳で新若に入った年(明治23年1890)に、この昼提灯を持ち帰るため、長老に従って険しい山道を観音寺まで往復した」と話されたことが一番の理由である。また曽祖父は、ことある毎に「大月の宝物」であると語っていた由。この話をしていただいたのは、私からの問いかけからではなく、ひ孫の方からの自発的発言であった。これは、縫屋としての松里庵が、当時既に観音寺に拠点を構えていたことを示す証左であると思う。
松里庵・髙木家では、恐らく明治23年当時には、主たる拠点を観音寺へ移し、琴平でも工房の一部を残していたのではないかと思われる。やがて太鼓台刺繍への転進が確かな実を挙げるようになる明治35年の時点で、正式に役所への届出を済ませたのではないかと思われる。
香川県が愛媛県であった時代(明治9年~21年)以降、東予・西讃地方の太鼓台への装飾刺繍の需要の高まりに後押しされながら、西条や新居浜に直結した海運の便を利用するため、観音寺に進出してきたのである。進出は、自分たちが生かされる道・活躍できる道であるか、逆に失敗して元も子もなくなるかを、二者択一する決断であったと思う。歌舞伎衣装に生きるか、太鼓台刺繍に生きるかの分かれ目であり、結果として歌舞伎衣装との決別であったと推察する。
同時代、川之江の山下縫師(後に伊予三島・住)の工房においても、東予・西讃地方での活躍があった。山下茂太郎縫師の一番弟子で、若くして亡くなったと聞く阿波池田町馬場出身・森本民蔵氏は、年季奉公のあけた大正3年(1914)に出身地の氏神・四所神社に鯉退治の刺繍絵馬を奉納している。
その弟弟子と聞く梶内近一縫師は、新天地を求め淡路島へ渡り、島内のだんじり(蒲団型の太鼓台)や阪神間の屋台やだんじりに大きな影響を与えることになる。
終章
現在の四国北岸地方(中・西讃、東予、西阿波)の太鼓台は、装飾刺繍が一層大きく厚みを増し豪華となっている。しかし明治初期のこの地方では、現在と比較すれば、幅狭く厚みも薄く小型でより簡素なものであった。同時に、多くの太鼓台に装飾刺繍が採用されていたのも、また事実である。そして、時代を経るに従い、作り替える毎にだんだんと大型化していった。西条まつりのみこし(福原敏男氏著『西条祭礼絵巻』2012の絵画史料)・詫間町箱浦屋台の年次別刺繍・徳島県山城町大月太鼓台の蒲団部最上端四隅の雲形刺繍飾り・広島県三原市能地四丁目のふとんだんじりの蒲団〆や古幕・大崎下島大長の櫓の古刺繍・まんのう町木ノ崎太鼓台の掛蒲団・まんのう町大向太鼓台の蒲団〆(鳩峯神社に掲額中)・山本町旧大辻太鼓台の昼提灯・観音寺市柞田町旧黒淵太鼓台で使われ同市本若太鼓台に里帰りした蒲団〆などに、その面影が残っている。
この地方の太鼓台の文献上での始期は、寛政初期から文化・文政期(1789~1830)にかけて多く認められている。恐らく、各地の太鼓台はその時代に競って登場し、金毘羅大芝居の衣装の影響を受け、以来百年そこそこで大きく変貌を遂げたものと思う。同時に、職人である縫師たちも、芝居の歌舞伎衣装と決別し、「これからは太鼓台刺繍の時代」と踏んで、琴平から新居浜・西条に船便のよい観音寺へ拠点を移し、数多くの職人たちが輩出し活躍した結果、この地方を「太鼓台文化圏の雄」の一つに成し得たものと思う。
同時に私たちは、松里庵・髙木定七縫師以前の職人事情についても多くを学び発信していかなければならない。最初は、例え簡素な装飾刺繍であっても、それを産み出してくれたからこそ、今日がある。その意味では、多少の傷みがあっても、先人たちの制作した古いものを後世へ受け継ぐことの重要さを、太鼓台文化圏の責務として遺していかなければならない。遺していてくれさえすれば、今は役立たずかも知れないが、多くの人々の調査・研究が進み、必ず陽の目が当り、古刺繍が必要となる時が訪れるはずである。
(終)