太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

種子島・鉄砲祭の〝太鼓山〟

2021年03月10日 | 見学・取材等

初めに

種子島へは平成 13(2001)年、真夏の鉄砲祭で訪れた。地元への事前聞き取りでご教示いただいた、掛声に郷里四国瀬戸内の太鼓台の掛声と同様な〝ちょうさ〟(よく聞くと、現地では「チョッサー」と言っている)を用いていたことがまず一つ。それと、四本柱上部の格天井の上に、紅白の大きな〝輪〟を積むカタチ(この形態は珍しい)であったこと。この大きな輪は、一体何を意味するのだろうか。ぜひとも実見しなければならない。西之表市西町で明治初年から奉納が続いている太鼓山。この〝ちょうさ&輪〟を通じ、遠く離れた南の太鼓台が、西日本の文化圏各地と〝どのように繋がるのか〟が知りたかった。種子島の太鼓台〝太鼓山〟(又はちょうさ、ちょっさーと呼称)は、今に至るまで日本最南端の太鼓台である。

関連画像の紹介

下画像は左から、太鼓山の全容・海と川からの上陸風景(Webから)、太鼓山の骨組み、椎の木や杉の枝及び竹笹(常緑の木々)・日の丸の旗を飾る太鼓山、大きな輪と詰められた藁縄の様子。(輪の凡そのサイズは、全体の直径が180cm・輪断面の直径が21cm、その一回りは70~75cm)。太鼓山の規模に関しては訪問時に「近年になり全体が一回り大型になった」と聞いた。なお当時の聞き取りメモには、輪は「毎年新しく作り替え、使用後は廃棄する。その理由は、海水や打ち水で長期の保存ができないから。一時期、大きなタイヤ・チューブを代用していたこともあったが、元の藁巻きに戻した」とあった。

運行所作の共通性について‥各地の関連画像紹介

種子島の太鼓山と文化圏各地の太鼓台との大きな共通点は、〝横倒しの所作であると思う。種子島では「180度を行なう」と称して、横棒の端を地面につけて、太鼓山を左右に倒す。種子島とほぼ同じ所作を行なう太鼓台は、各地を歩いていると、意外にも多いことが判った。以下の画像で紹介するように、簡素・小型の太鼓台から豪華・大型の太鼓台まで、各地に万遍なく広まっている。この荒々しい所作の共通性こそが、太鼓台が各地へ伝播されて行った当時の、「共通する太鼓台の担ぎ方・奉納所作の名残り」ではないか、と強く感じた。以下に各地の横倒し画像を紹介しながら、所作面からの文化圏の共通性を眺めたい。

最初は種子島・太鼓山の横倒し〝180度の様子。続いて簡素と思われる太鼓台の順に、隠岐島・西郷のだんじり舞→高松市女木島・太鼓→大阪天神祭・催し太鼓(枕太鼓、寝屋川市のF・S氏提供)→吹田市千里佐井寺・太鼓→尼崎・辰巳太鼓→淡路島・遣いだんじり(2ケ所)→丹後半島・此代のだんじり→倉敷・児島の千載楽→呉市倉橋島・鹿老渡のだんじり→さぬき市志度の太鼓→呉市大崎下島・御手洗の櫓(昼と夜、2枚)→同・沖友の櫓→愛媛県上島町・魚島のだんじり→小豆島・内海の太鼓→同・池田祭の絵馬(文化9年1812、画面右下で“返し”を行っている。既にこの時代に、太鼓台の横倒しは行われていた)。最後の2枚は、太鼓台の分布概要図と発展の想定図。

掛声〝チョッサー〟等について

種子島・太鼓山の掛声については、明治初期頃の伝播当時から多少の変遷があったものと思うが、訪問時点では、「チョウサ・チョッサ-・ヨイヨイ・サセ・トウザイナ、トウザイナ」が確認できた。このうち、「トウザイナ、トウザイナ」に関しては、太鼓山が祭の行列の先頭を行くことから、「東西・東西」と〝露払い的に発しているものと思われる。また「ヨイヨイ」は、各地の太鼓台でごく普通に使われている掛声である。勿論「チョウサ・チョッサ-」は、最も数多く発せられる太鼓台文化圏の代表的な掛声である。

太鼓台の蒲団部は、どのように誕生・変化・発展してきたか

太鼓山に用いられている掛声については、各地太鼓台との共通性が強く確認できた。更には、太鼓台を〝横倒し〟する所作も、各地の太鼓台と共通し、種子島が各地と強く結ばれていることが想像できた。ならば、太鼓山・形態の最大特徴とも言える天井部分に積む大きな輪についても、各地と関連し、太鼓台文化の客観的解明につながるヒントが秘められているのではないか、と私は考えた。果たして、この大きな藁巻きの輪は、一体何を意味し、どう各地の太鼓台へと繋がっていくのだろうか。以下に示した図は、蒲団型太鼓台の範疇において、「蒲団部が、どのような経緯で今日のポピュラーな姿になったのか」を、誕生から現在の大型且つ豪華となった蒲団部について、私感を交え想定したものである。下図は、上掲末尾画像の「太鼓台発展の想定図」の「蒲団型」部分の、〝変化・発展〟の具体的解明である。

太鼓山に積まれた大きな藁巻きの輪は、太鼓台発展想定図における〝鉢巻型太鼓台〟の鉢巻である。太鼓台の蒲団部は、最初は下の①の1枚物の薄い毛布のような〝1畳蒲団であったが、その改良型として、枚数を増やした同②の〝3畳蒲団となり、或いは1本型や3~5本型の鉢巻型〟に変化・発展していく。平らな本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと改良されていくのは、外観の見立てであって、即ち真横から眺めた場合、本物蒲団も鉢巻も同じように〝厚みと外縁の丸み〟が満たされれば、より簡便で美しい形態へと変化・改良されていくのはごく自然の成り行きではないか。それが、本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと変化した改良理由であったと思う。種子島の外で鉢巻蒲団型太鼓台に改良された太鼓台が、明治初期頃に種子島へもたらされる。導入された太鼓山の〝鉢巻〟をはじめカタチそのものも、少なくとも、かっては今よりも小規模であり、それが段々と大きくなり、今日の規模に発展したものと思う。種子島の場合には、近くに影響を与え合う太鼓台がないことから、導入した明治初期頃以降、島独自の〝大型化〟を繰り返してきたものと想う。

関連画像の一部紹介(左から)

上表①の毛布状の1枚蒲団を積む南予各地の太鼓台(愛南町柏・日振島・宇和島市小倉の各四つ太鼓) 上表④の、本物蒲団を3畳積む愛南町深浦の四つ太鼓 同じく本物3畳蒲団の沖友・櫓 同じく上表④関連、最上部の蒲団が本物の変形型・鉢巻蒲団となっている熊野市のよいや(2枚) 最後の2枚は、山口県周南市須々万の揉み山(2枚) 元々は、上表③の種子島・太鼓山のように一本の輪・鉢巻状であったが、組立の容易さ優先から、現在では四辺に分割して飾っていた。(本件は、地元古老からの聞き取りで判明した)

2022.10.15追記)

鉢巻型蒲団型太鼓台の外観と、変化・発展を繰り返して今日の枠蒲団型となった太鼓台との決定的相違点は、一体どこにあるのだろうか。それは、鉢巻蒲団型の外観が「円形」であるのに対し、枠蒲団型の外観が四角の「方形」をしていることではなかろうか。この相違点について、私的には「鉢巻蒲団=円形=円座=座る」であり、「枠蒲団=方形=大蒲団(掛蒲団)=寝る」であると考えている。(両者とも外枠だけが存在し、座り或いは寝る中央部は空洞)即ち、太鼓台への蒲団部の採用目的が❶「座るか、寝る」の用途目的の違いにあり、それは➋「蒲団」という語の使用用途が「座るから寝るに変化していった」ことと深く関連している。即ち➌「寝る蒲団よりも、座る蒲団が古い時代から在った」からではないか、と考えている。この間の考察に関しては「フトン(型)太鼓台の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか」(2019.7.11)や、「蒲団型太鼓台の〝蒲団部誕生〟について考える‥(2)」(2022.2.11)で示した〝寝具の「蒲団」と「蒲団型太鼓台」との関連〟表や、森岡貴志氏論文<「蒲団」の研究—漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」>を参照していただきたい。

(終)

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古刺繍見学

2020年03月01日 | 見学・取材等

2月24日(月・祝)に、愛媛県西予市野村町にある「西予市野村シルク博物館」へ、T・Y氏に案内していただき古刺繍の見学に行きました。野村町は乙亥大相撲で有名な、愛媛県南予地方のやや山間部に位置する静かなたたずまいの農山村で、町は、H18.7の肱川氾濫の惨状(https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/nomura)をようやく克服しつつありましたが、東京の国技館を模した乙亥会館は大規模な修復工事の最中であり、現時点でも館内の見学は叶いませんでした。

私たち(観音寺太鼓台研究グループ)は、これまで高松(香川町の祇園座)や小豆島(小海=廃絶・中山・肥土山)など、香川県に散らばる地歌舞伎に使われていた年代物の古衣裳を、太鼓台の装飾刺繍の先輩格として位置づけ、地歌舞伎・太鼓台双方の関係性探究を継続してきました。金毘羅大芝居や各地の地芝居等で使用されていた煌びやかな刺繍衣裳の技や表現が、後発伝統文化・太鼓台の装飾刺繍発展に大きな影響を与えてきたことが、今日多くの人々に理解されつつあります。高度に発達した太鼓台装飾刺繍などの場合、それは文化の中心である京・大坂から流入したものとの〝中央依存〟的な発想が多々見受けられますが、私は必ずしもそうではないと考えています。四国北岸地方の太鼓台の最大特徴である〝刺繍飾り〟の発展の過程をたどっていけば、間違いなく古い地歌舞伎の刺繍付き衣裳に突き当たります。太鼓台は模倣の文化ですが、その模倣の中にあっても、この地方の太鼓台は、長い年月をかけ、数多くの職人達によって独自の発展を遂げ、孤高の絢爛豪華につながっています。

本ブログでは、2019.9投稿の「地歌舞伎衣裳の古刺繍と太鼓台古刺繍との酷似点比較について」以下の一連の古衣裳と太鼓台の古刺繍比較を、金毘羅門前町で興った「松里庵・髙木工房」や、金毘羅大芝居の煌びやかな衣裳に影響を受けた「山下工房」の古刺繍を通じ、縷々考察を深めています。

今回見学の西予市野村シルク博物館には、古刺繍を纏ったものとして二種類の古刺繍作品が保管されていました。一つは地元「阿下歌舞伎」(あげ-)の古衣裳であり、もう一つは相撲文化の盛んな地元の素人相撲の力士が用いた「化粧回し」です。本稿では、見学させていただいたほんの一部を紹介いたします。今回見学させていただいた博物館の衣裳と化粧回しの古刺繍は、軽々に断言できませんが、これまで接してきた太鼓台古刺繍や年代物の刺繍付き歌舞伎衣裳に、相通じるものがあると感じました。今後更に全般的な調査をさせていただき、その共通性等について理解を深めて行きたいと考えています。

(大正2年)

(大正2年)

(明治22年)

(明治22年)

(明治22年?)

(明治32年)

※お忙しい中、博物館の皆様には大変お手数をお掛けしました。ありがとうございました。

(終)

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昼提灯・余話(2)

2019年09月18日 | 見学・取材等

◆初めに

今回の投稿は、太鼓台装飾刺繍の分野で先駆的で著名な縫師工房の「松里庵」のサインが、外からは見えない昼提灯の筒内部等に書かれていた前回の昼提灯・余話(1)(明治13年の三豊市山本町・大辻太鼓台の昼提灯)‥に続く投稿となる。今回は前回とは異なり、完成作品の図柄が酷似する徳島県三好市内・2地区の昼提灯及び昼雪洞(ひる-ぼんぼり。昼提灯に同じ)についての発信となる。2地区への何度かの取材行で得られた解明事項を、それらを制作した職人(縫師)たちの想いや人間模様を中心に、今日の太鼓台刺繍発展に繋がるエピソードを探り、発信したいと思う。

昼提灯・余話(1)でも触れているが、豪華な昼提灯は、四国の太鼓台では残念ながら過去のものになってしまった感がある。ただ、地区名などを入れた簡単な刺繍飾りの丸い小形の提灯や、規模的には小さくなるが胴長の簡素な飾り提灯ならば、中讃地域をはじめ広範囲で今も見ることはできる。余話(1)の大辻太鼓台の昼提灯及び今回紹介する大月太鼓台(三好市山城町大月)の昼提灯や、西山太鼓台(三好市池田町西山)の昼雪洞(ひる・ぼんぼり)は、簡素なそれらのものよりも、遥かに豪華な刺繍飾りの昼提灯である。

大月太鼓台の昼提灯

西山太鼓台の昼雪洞

西山と大月太鼓台の昼提灯・昼雪洞比較(2013.7.20~9.1観音寺市「太鼓台文化の歴史展」にて)

◆最初に出会った、大月太鼓台の昼提灯

198510月、徳島県山城町大月・四所神社(新田神社、相殿)の祭礼見学で、初めて四国山間地の太鼓台に出会った。当時の取材ノートを読み返すと「盛んであった時の神社祭礼(大月祭)では、吉野川支流の銅山川の谷筋別に5台の太鼓台が出ていた」と書いている。(脇・瀬貝・柴川、大月、大野・信正、小川谷・茂地、佐連・大谷の地区毎に)その内の神社地元の1台が大月太鼓台として、今も奉納を続け伝統を守っている。

なお大月祭に太鼓台が奉納された始期に関しては、後述する山城町郷土資料室(当時の山城中学校の空き教室が充てられていた)に保管されていた年号入りの保管箱に、江戸末期から明治時代のものがあったことや、大月太鼓台の形態が近年の西讃・東予(宇摩地方)地方のものと同形であること、取材で明らかになった昼提灯の購入先が明治中期の観音寺であったこと等から、少なくとも明治期の早い時期に、讃岐や伊予から受け入れられたものではないかと想像している。

さて大月太鼓台では、蒲団部最上段(8畳目に相当する。この蒲団状の部分は、7畳蒲団の蒲団押えや蒲団蓋として採用され、それが厚みのあるカタチとして発達したものだろうか。現在の西条〝みこし〟には8畳の蒲団を重ねたものがある)に巻きつけて飾る「雲形・古刺繍」が遺されている。その裏側には「安政五年午(1858)」と墨書されていた。また、同地区には「明治十五年午年(1882)蒲団〆并水引入」の保管箱があった。但し、こちらの使用中の蒲団〆と水引幕が、保管箱に書かれた年代に作られたかどうかは確認が取れない。水引幕は相当な年代物と思われ明治15年作成の可能性が大であるが、蒲団〆に関してはそれほどでもないようにも思えた。もしかすると、5地区から出されていた5台の太鼓台のうち、先に示した廃絶した4地区太鼓台から、大月太鼓台への良品転用があったのかも知れない。

そして、今回のテーマである龍が刺繍された昼提灯。こちらも保管箱はあるが、箱自体はかなり新しく、制作年や制作者等は無記入であった。ところが地域の伝承として、余話(1)で述べたように、明治23(1890)16歳で新若入りした方が、「長老に連れられ観音寺まで険しい山越えの道を行き、地域の宝物である昼提灯を貰い受けて帰った」との確かな言い伝えがある。ここでは、大月昼提灯を制作した縫師(職人)についての特定は、他の昼提灯作品と見比べて行なうこととし、「購入年が明治23年、購入先が観音寺」であったことだけを記憶に留めておきたい。

※前述の山城中学校の山城町郷土資料室へは2000年に再び訪れ、各地区で使われなくなった太鼓台部品や装飾刺繍及び保管箱等が一堂に集められていたのを確認している。しかし後年、山城町の太鼓台調査を更に継続したく思い、郷土資料室の所在を含め、太鼓台装飾品や保管箱等の行方を探索したが、残念ながら全ての所在が分からなくなってしまっていた。心残りで仕方がない。

◆図柄酷似のもう一つの昼提灯…西山太鼓台の昼雪洞(ひる・ぼんぼり)

琴平町出身のT・Yさんから、「三好市池田町の池田ダム湖から狭い山道を車で登った西山地区に、太鼓台が存在していた」という情報が届いたのは2011年頃のことであった。西山地区は標高480mと高い位置にあるため、既に過疎化や少子化が進み、2012年からは小学校も休校となっていた。太鼓台も出されなくなって久しいと聞いた。休校の年の9月に、観音寺太鼓台研究グループの28(当日の地元参加者を含めると40名ほどになった)が調査に訪れた際には、太鼓台は、奉納されていた鎌神社の保管倉庫で眠ったままであった。

ところで、東予・西讃地方で高木縫師と共に著名な山下縫師の初代・川人茂太郎縫師(山下茂太郎縫師の旧姓は川人-かわひと-氏)は、ここ「阿波国三好郡箸蔵(はしくら)村大字西山村」の出身であることが、その調査の際、道具箱の墨書により、私たちは初めて知ることとなった。茂太郎縫師は、元服祝いに金毘羅芝居の煌びやかな歌舞伎衣裳を見て、その道の職人を志したと言われている。西山太鼓台の装飾刺繍類は「間違いなく往時には見事であった」と、参加した誰もが認める出来栄えのもので、明治23(1890)から24年にかけて新調されていた。

23年に茂太郎縫師が「裁縫人」の肩書きで「昼雪洞」と「蒲団〆」を、その1年後には、当時既に著名であった松里庵・髙木定七縫師(工房)が「水引幕」と「掛蒲団」を、それぞれ分担して制作している。(しかし、水引幕や掛蒲団の保管箱には定七縫師のサインは書かれて無く、西山地区への納品が、形式的には茂太郎縫師からの単独納品のカタチとなっている)

文久元年(1861)生れの茂太郎縫師は、京都での長い修行の時代を経て、30歳前後の時に故郷・西山村へ太鼓台の新調刺繍を携えて〝錦を飾った〟ものと思われる。ただ合点がいかないのは、茂太郎縫師の故郷の太鼓台を、なぜ松里庵・高木定七縫師と共同で拵えることとなったのだろうか、という点である。地元の強い期待を受け、地元出身の茂太郎縫師が中心となって、終始一貫して拵え納めるのが通常ではなかっただろうか。他の縫師が共同制作する余地は無かったように思うが如何だろうか。その謎解きをしてみたいと思う。

山城町大月太鼓台での昼提灯が、「一体どこから購入されたか」を思い起こしていただきたい。「明治23年当時、観音寺から購入してきた」ことが、客観的なものとして特定できている。また、大月昼提灯は誰によって作られたかについては、他の刺繍作品と見比べることによって特定すると先送りしていたが、双方とも茂太郎縫師が制作した可能性が非常に高いことが、次のような比較検討結果から裏付けられた。

まず大月・西山の双方昼提灯と昼雪洞は、図柄的には全く酷似(同一と言ってよい)していた。また、各刺繍の<龍頭の比較>からも、茂太郎縫師が関わり制作したものであることが導かれた。個別具体的には、①大月昼提灯と、制作者が茂太郎縫師と判明した西山昼雪洞の龍頭比較、②大月昼提灯・龍頭と、同じく茂太郎縫師作の西山・蒲団〆の龍頭比較、或いは③茂太郎縫師を初めとする山下一門の縫師たちの制作した龍頭との比較、そして、④定七縫師が率いる松里庵制作の龍頭との違いなどを比較検討した。

その結果、双方の昼提灯・昼雪洞の制作が、茂太郎縫師であることに疑う余地がなくなった。疑う余地がないため、余話(1)で、古老が大月から貰い受けに行った観音寺には、そこに「茂太郎縫師が居た」と客観的にも言えるのではなかろうか。私は、「西山太鼓台の刺繍飾りの品々は、観音寺で作られた」と判断している。

これは、どういう事情を意味するのだろうか。西山太鼓台の昼雪洞も大月の昼提灯も、制作年は明治23年で同じ。そして西山も大月も、「観音寺」との関連が見え隠れしていた。茂太郎縫師が錦を飾った西山太鼓台新調が、松里庵・髙木家との共同作業であったこと。大月太鼓台では、昼提灯を観音寺まで貰い受けに行っていた。松里庵・髙木家の琴平から観音寺への移転は、役所への正式届は明治35年であった。ただ、大月・昼提灯の「観音寺で購入」の言い伝えから、明治23年の時点では、既に観音寺を主要制作拠点として、工房本体の大部分を琴平から移していたはずである。

◆酷似する昼提灯・昼雪洞は〝兄弟提灯〟

二つの酷似する昼提灯・昼雪洞は、作品同士の比較検討の結果や、制作者が茂太郎縫師であったことから〝兄弟提灯〟といえる作品であった。茂太郎縫師は明治23年の時点で観音寺に居た。髙木家も、その時点で主たる工房を観音寺に移していたものとしてもおかしくはない。私は、定七縫師と茂太郎縫師が、観音寺の松里庵・髙木工房で互いに切磋琢磨していたと考えている。先代の髙木一彦縫師(観音寺での松里庵・三代目)からの聞き取りでは、「昔は腕のある職人が、風呂敷包一つを持ってよく訪ねて来ていた」と話されていた。

京都での修行を終えた茂太郎縫師が、故郷に錦を飾った西山太鼓台。見事な昼雪洞や際立つ立体感を表現した龍・蒲団〆を目の当りにすると、松里庵の縫師たちの伝統的な技法とは一味異なる「立体化や革新的な刺繍表現」を発揮・推進したように思う。茂太郎縫師が西山と大月の昼提灯を制作したとする客観理由に、提灯の筒部分の構造に共通点が見られることも挙げておきたい。それは、祭礼提灯のように、竹ひごで丸みを形作り和紙を貼った構造となっており、余話(1)の松里庵で作られた大辻太鼓台のように、板貼りではなかった。もし仮に、大月の昼提灯を茂太郎縫師ではなく「観音寺で定七縫師が作った」ものだとするならば、十年前の大辻・昼提灯を意識して、板貼りにしたのではないだろうか。

茂太郎縫師と定七縫師の、明治23年の時点における関係について、私は、修行地の京都から四国へ帰ってきた茂太郎縫師が、当時まだ縫師として独立していなかったものと考えている。観音寺に拠点工房を構えていた松里庵・髙木定七縫師の元で、互いが一目を置く存在として、また定七縫師の片腕的存在として、更には良きライバルとしての関係を維持しながら、茂太郎縫師独立前の数年間、定七縫師の元で太鼓台縫師としての工房経営のノウハウを学んでいたものと推測する。西山太鼓台の保管箱にサインされた茂太郎縫師自らの肩書きに、縫師や縫箔師とは書かず「裁縫人」と記したのが、定七縫師に対する一種の遠慮感が働いているのではないかと想像する。

◆定七縫師と茂太郎縫師の〝強い関係性〟

髙木縫師と山下縫師との繋がりの強さを知る他の事象として、同一太鼓台の阿吽の龍蒲団〆の前後と左右を、それぞれが別々に制作している事例があることを、新居浜市のC・Oさんは「古刺繍コレクションへの思い」(2013『太鼓台文化の歴史』所収、96)の中で、珍しい事例として取り上げられている。(豊浜町・雲岡太鼓台の蒲団〆) 掲載された写真を比較すれば、全く同じ下絵が使われていたことが理解できる。この事例などは、太鼓台の新調・流行ラッシュ時の多忙なときに、互いに心を許せる職人同士が、分担して事に当たった強い絆さえ感じられるものではないかと思う。


◆西条にもあった昼提灯…下喜多川みこしのこと

西条市のH・Sさんからも、「西条にも、よく似た昼提灯があった」と、豪華であった下喜多川みこしの写真を添えて、情報提供していただいた。(「西条祭の古写真との比較から」-2013『太鼓台文化の歴史』所収、353645残念ながら現物の昼提灯は既になく、笛を吹きながらみこしに付き従う現在の〝笛吹き少女〟たちの背中の刺繍飾りに、当時の面影を伝えている。


「知りたい…髙木縫師と山下縫師より以前の縫屋・縫師事情…全く不明

髙木定七縫師の完成作品の確実な最初の事跡は、余話(1)の明治13(1880)大辻太鼓台に辿り着く。若干遅く世に出た山下茂太郎縫師は、故郷・西山太鼓台や大月昼提灯の明治23(1890)に辿り着く。西山太鼓台では、互いに信頼し合える縫師として共同にて1台の太鼓台を仕上げている。明治23年頃の時代背景は、西讃・東予各地で太鼓台の新調や導入が大いに進展した時代であった。この頃を境に、この地方の太鼓台の大型化や装飾刺繍の豪華への変化が各地で多く認められている。大月の昼提灯が作られたのは観音寺、それを制作した茂太郎縫師もまた、定七縫師の近くにいたことが確実となった。東予地方への海上交通の便の良い観音寺を拠点にして、松里庵・髙木縫師と、後に独立する山下縫師とが、強力なタッグを組んで北四国の太鼓台文化発展に尽すこととなる。中心となるこの両人の縫師の存在こそが、北四国太鼓台発展の原動力であったと言っても過言ではない。

ただ、残念なことに今に至るまで、彼等(特に定七縫師)以前の縫屋・縫師の状況が全く判明していない。定七・茂太郎縫師以降の縫師たちの活躍状況や太鼓台の発展などについては、比較的に時代が近いこともあり、今後の調査・研究で更に明らかになってくるものと考えている。しかしこの地方の太鼓台の更に古い時代のことを知ろうとするならば、明治初期以前の琴平での縫屋や縫師の状況を究める必要がある。太鼓台文化を探究している私たちにとっては、難しい探究テーマであるが、決して避けて通ることはできない重要事でもある。

◆まとめ(2022.10.26追加)

上記のように中・西讃~東予~西阿(せいあ‥徳島県西部・西阿波の略称)にかけての太鼓台装飾刺繍の発展については、明治中期(23~24年1890頃)に大きな転換期を迎え、髙木・山下両縫師がその先鞭をつけたと言っても過言ではない。両者の存在がなければ、恐らくこの地方の今日の豪華・大型への発展・変化は無かったのではなかろうか。その関係性の結晶が西山太鼓台の存在である。その意味で、現在〝朽ちていくままの西山太鼓台の姿〟をそのまま放置して置くことは、これらの地方の伝統文化・太鼓台にとって極めて大きな損失である。何とかして後世へ伝承していく方策を考え、公的機関等での保存等が出来ないものだろうか。遺していてくれさえすれば、後世の私たちが理解できることが多々ある。巨大で豪華な太鼓台装飾品だけが、この地方の〝宝物・遺産〟では無いはずだ。

そう言う私たちには、明治中期の西山太鼓台以前簡素・小型・素朴であったと思われる太鼓台装飾刺繡についての、更なる探究が求められている。幕末から明治初期の太鼓台装飾事情を客観的に知り、西山太鼓台の刺繍飾りへ至る〝私たちがまだ知らない装飾刺繡の道程〟を明らかにしていかなければならない。その意味でも今回の小論は、「それ以前はどうであったか」を想起させ、更なる探求心を芽生えさせてくれるものとなった。

本稿の末尾に、高木縫師と山下縫師の関係性を考察した「髙木・山下両縫師の時代と太鼓台発展について」を、参考添付した。(元資料名は「初期の太鼓台刺繡工房について」で、「北四国における太鼓台刺繡のターニングポイント」(2013.3観音寺太鼓台研究グループ刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』所収)

(終)

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昼提灯・余話(1)

2019年09月12日 | 見学・取材等

各地の昼提灯

太鼓台に付属する昼提灯は、提灯とは言っても実際に明かりを灯す実用的なものではない。淡路島や近畿方面等でよく見られる豪華な刺繍を施した飾り提灯で、四吊りが一組のものである。現在でも、一部琴平などの中讃地域では丸い小型の飾り提灯を採用している地区があるが、中西讃から東予地方にかけてのほとんどの太鼓台では、その場所に大きな房を飾るのが現在の姿である。四国北岸の紹介する昼提灯は、関西圏の昼提灯と比べ、筒部分が細長く、かなり胴長である。

・写真左から、淡路島沼島(ぬしま)/淡路島/明石市/三木市/加西市/奈良県宇陀市/鞆の浦

・写真左から、坂出市(S・T氏提供)/丸亀市塩屋/高瀬町下麻/詫間町箱浦/西条市(H・S氏提供)/山本町大辻(坂出市S・T氏復元)

今回は「昼提灯・余話(1)」として、山本町・大辻太鼓台で使用されていた獅子・牡丹図柄のものを紹介し、後日に「昼提灯・余話(2)」として、山城町・大月太鼓台と池田町・西山太鼓台の「酷似した昼提灯」について述べたいと思う。

縫屋「松里庵・髙木家」のサイン

平成16年(2004)5月、知人に紹介されて坂出市のS・Tさん宅を訪問し、昼提灯の分解・復元作業の一部を見学させていただいた。古い時代の太鼓台に採用された昼提灯に、太鼓台刺繍の縫屋・高木家の工房名「松里庵」(しょうりあん)が、外からは全く見えない「筒内部にサインされている」とのことであった。

松里庵・髙木家は、香川県・中西讃から愛媛県・東予地方にかけての太鼓台装飾刺繍の著名な縫屋で、明治時代の中頃までは琴平で活躍した家柄である。元々は芝居(金毘羅芝居や各地の地芝居等)で使われた豪華な刺繍衣裳を主に手掛けられていたと考えられているが、各地で太鼓台が盛んになった明治中期以降は、太鼓台の装飾刺繍に転進している。(明治末期の時点では、後に同業となる山下家と共に、この地方の太鼓台の豪華及び流布・発展に大きな影響を与えている)

昼提灯の「復元」作業

S・Tさん宅では、年代光りのする見事な昼提灯が天井から吊るしてあった。視線を作業台に移すと、そこには桐の正目板で丁寧に作られた本体である円筒2本と、筒から剥ぎ取られた復元作業途中の刺繍片があった。

・復元作業の各部位。外からは見えないところに〝落書き〟的に書かれている。(何れも坂出市S・Tさんから提供)

開口一番、S・Tさんは「私の作業は、本来的には邪道です」と刺繍復元作業に対する自論を話された。「自分は素人であるにも関わらず、昔の職人さんが丹精込めて制作し、歴史を経過した美術工芸品を、いくら細心の注意を払って修復すると言っても、その作品の値打ちを反故にしてしまう、行ってはならない行為です」と。「しかし、余りにも繊細で素晴らしい作品が、その存在すらも正当に世間に知られないまま埋もれてしまうことの方がなお悔しい。無数の針の一刺し、糸の流れ、詰めた古綿の量と正確な充填位置等々、可能な限り忠実に、手間と時間を惜しまず復元を成し遂げたい。完了した折には何らかのかたちで披露・紹介したい」と、熱く話された。

年数が経ち、役目を終えた昼提灯であり刺繍である。しかも金糸が垂れ下がり、そのままでは鑑賞できるような状態ではなかった。S・Tさんの古刺繍に対する態度は、過去によく見た“間違った延命策”とは明らかに別次元のものである。私たちは、年代物の刺繍幕等を、一時凌ぎだけで思慮もなくラッカーをやボンドを使い作品を殺してしまった例をよく知っている。

太鼓台刺繍は、制作直後の現役最初の時から「傷み」は進行し続ける。細心の注意を払っても、やがては輝きを失い「美術工芸品や作品」の位置から転落し、その命運が尽きるのがごく当たり前である。しかし役目を終えた古刺繍にも、太鼓台文化圏トータルの「遺産」としての価値や役割があるはず、と私は常々考えている。遺していてくれさえすれば、後年役立つ時が必ず訪れると確信している。私は、S・Tさんの刺繍復元作業に対する真摯な姿勢を全面的に支持する。

なおこの昼提灯には、文殊菩薩が住むといわれる唐土・清涼山の石橋(しゃっきょう)があしらわれ、そこに文殊菩薩の眷属である百獣の王・獅子が現れ、咲き誇る百花の王・牡丹と戯れ狂う様子の図柄となっていた。

昼提灯から得た情報や解明事項等を、手短に振り返る。

❶S・Tさんが、新居浜のさる方から山本町・大辻太鼓台で使用されていた古い昼提灯を譲り受けた時の状況は、縫糸が長く垂れ下がり、刺繍の浮き上がりも全面に生じ、更には筒下部の刺繍には弱いラッカーが吹きつけられている等、見る影もない状態であった。しかし、金糸の細いこと、細やかで丁寧な作りであること、作品には人の目を惹きつける緊張感が十分に感じ取れることなどの理由から、「先人の素晴らしい作品を、陽の当たらないこのままでは何とも惜しい。できる限り使用されていた良好な状態に復して、後世へ伝えることができないか」との強い想いから、氏自ら復元作業に取り掛かられることとなった。

➋譲られた時点では、制作した縫師は東予地方の山下茂太郎縫師(前述の山下家初代、旧姓は川人氏。阿波池田出身、川之江へ進出、後に伊予三島住)と聞いていたので、それを信じていた。しかしその後、各地の古い刺繍を見る機会が増え、それぞれの縫師の家の流儀が何とはなく比較できるようになると、「山下縫師の作ではない」と思い始めるようになった。

➌そこで、他の刺繍と比較検討する部位として、最も特徴的であると感じられた“牡丹”に注目するようになった。牡丹を選んだ理由は、獅子や龍のように派手さこそ無いものの、平面的な作りではあるが不思議に立体感が感じ取れ、他の縫師のものとは一味違った味わいが感じられたからであった。

➍昼提灯四本のうち、二本が特に痛みが激しいため、提灯上下の“鉢”と呼ばれる部位を密封する筒蓋を取り外し、筒内部から手を差し入れて修復する作業を余儀なくされた。すると、筒内部のまだ十分に真新しい桧の正目板に、「讃岐琴ひ□ 金山寺町 松里庵・髙□」「縫し 定七・秀吉・金□郎・為子・定治郎 縫御用・松里庵 愛媛県」「讃州琴平 金山寺町 松里庵」などと墨書きされているのが見つかった。

➎また、分解した獅子刺繍の下絵裏面には「奉納 讃岐国琴平村 四国八十八ヶ所 同行十一人」と細かい文字での落書きが見つかった。この11人がどのような関係の人たちなのかは不明ではあるが、S・Tさんは恐らく昼提灯制作に携わった職人さんの人数ではないかと想像されていた。

❻丁度その当時、香川県歴史博物館(現・県立ミュージアム)で開催されていた「太鼓台を支えた技と心」展(H16.2.4~4.4)を見学した。「高木定七 ボタン図・元絵 松里庵」の説明書きが目に留まり、提灯の牡丹部分の写真と展示されていたボタン図・元絵とを、幾度か見比べる作業を行った。

❼それらの比較検討の結果、これまで山下茂太郎縫師の作と言われていたものが、実は髙木縫師の家の作であることが判り、琴平で作られたこと、現在の香川県が愛媛県の時代であった頃、即ち明治9年(1876)から明治21年(1888)までの間の制作になることが判明した。

❽更に画期的なこととして、後年、制作年を知ることとなった保管箱が、山本町・大辻太鼓台で現存していることが、山本町在住のY・Hさんの紹介によって判明した。

聞取り調査によると、保管箱は昭和26年(1951)に作り替えられていたが、その箱の落とし蓋に、旧保管箱の墨書が書き写されていたのである。「明治13年(1880)庚辰 遊獅子親子狂昼釣箱」とあった。定七縫師の生没年(1852嘉永5年-1920大正9年)からすると、27、28歳頃の作品ということになる。分解した筒の「讃州琴平 金山寺町 松里庵」記載とも合致することが明らかとなった。

❾判明した各史実から、定七縫師の20代後半の作品であるとするなら、これほど立派な作品が、単独で成し得たかどうか。むしろ、「縫し」として名前が記載されていた松里庵の定七以外の縫師たち(秀吉・金□郎・為子・定治郎)の存在や協同作業の有無などが、今後注目されてくるのではなかろうか。即ち松里庵・高木家には定七以前の凄腕の縫師たちが存在していた可能性が大であり、彼等及び彼女たちの制作努力無くしては、装飾刺繍を多用した現今の豪華太鼓台への発展は見られなかったかも知れない。またよく、「この作品は、○○縫師の作品」と、あたかも一人の縫師が単独で制作されたかのように語られるが、そうではなく、間違いなく多人数の職人の共同作業により、その家の流儀によって作られていることを、今一度再確認しておくべきだろうと思う。

太鼓台・豪華刺繍のルーツは、金毘羅大芝居と各地地芝居の衣裳にあり。

四国北岸の太鼓台は「刺繍太鼓台」である。どちらかといえば彫刻に重きを置く関西圏の太鼓台と比較しての話である。それでは、なぜ刺繍が四国北岸で豪華に発展したのか。これらの刺繍を生み出す素地はどこにあったのか。そして、豪華への芽生えはいつ頃なのか。そのキーワードは、松里庵・明治13年製のこの昼提灯にあるのではないか、と考えた。

豪華な立体刺繍を生み出した素地-それは、まさしく縫師集団・松里庵が活躍した金毘羅門前町そのものにあった、と断言する。金毘羅信仰・金毘羅参り・流し樽の風習・金毘羅社の全国分布・金毘羅船・金毘羅街道の隆盛などが物語るように、かっての琴平は全国や四国島内各地と直結していた。特に上方の豪奢な装飾文化-歌舞伎衣裳の装飾刺繍に代表されてよい-が、金毘羅大芝居の存在を通じて流入してきたことが、全てではないかと考えている。

各地に広まった中小の地芝居では、豪華な衣装群を「上方→琴平→各地」への図式で広まっていったと考える方が、芝居や衣裳を「上方から直接受け入れた」と考えるよりも各段に説得力があり、実際にも多かったと思われる。

私たちのグループ(観音寺太鼓台研究グループ)は、2016年から数年間に亘り公益財団法人福武財団の助成をいただき、香川県下の農村歌舞伎の衣裳調査を実施することができた。その主たる目的は、太鼓台古刺繍との共通点の確認や比較検討作業を実施することであった。そこでは、工房・松里庵で作られた太鼓台古刺繍との酷似点が多々認められた。このことから、各農村歌舞伎が所有する豪華刺繍衣裳は、伊勢参りなどの土産として帰路の大阪などで買って帰ったものよりも、松里庵のあった地元・近場(琴平及び工房移転先の観音寺)で制作したものの方が多かったというのは合理性がある。私たち観音寺太鼓台研究グループが地歌舞伎衣裳の調査をさせていただいたのは、農村歌舞伎祇園座(高松市香川町)・小海自治会(土庄町)・中山農村歌舞伎保存会(小豆島町)・肥土山農村歌舞伎保存会(土庄町)の全衣裳と、大部地区協議会(小豆島北部にある。四国村に寄託中)の一部豪華衣裳であった。そこでは、明らかに太鼓台古刺繍と酷似する表現が多々確認されている。

「松里庵」以前のこと

金毘羅大芝居が常小屋として金山寺町に建ったのは、天保6年(1835)と言われている。それまでは、門前町との境界辺において仮設の掛小屋で興行していた。

常小屋が建って間もない天保9年(1838)4月に、常小屋東側の金山寺町繁華地で45軒余が焼失した大火事が発生する。その折の被害状況を書き記した焼失略図「金山寺町図」が金光院「日帳」に残されている。『近世の芸能興行と地域社会』(神田由築・著/東京大学出版会)の71㌻には、常舞台の南側小路に、「白川屋 縫」と縫屋(ここは焼失を免れた)の存在が記されている。その向かいに「髙木屋」(消失)が確認できる。松里庵・髙木家と髙木屋が同一のものとは必ずしも特定できないが、明治13年(1880)制作の昼提灯筒内部に墨書された「讃州琴平 金山寺町 松里庵」とも合致することから、大火のあった天保9年からは40年余り後にはなるが、両者はほぼ同一のものとして間違いのないものと思われる。そして白川屋という縫屋との関係にも興味が沸いてくる。

実は、この地方の太鼓台装飾刺繍のルーツや発展過程をより正確に知るには、どうしても松里庵・髙木家の観音寺での初代である髙木定七縫師(嘉永5年1852~大正9年1920)以前の状況を学び知ることが是非とも必要となる。定七縫師は琴平で誕生している。既に紹介した明治13年の見事な昼提灯が、今のところ私の知る彼の最も若い時代の確かな作品である。そこには秀吉・金□郎・為子・定治郎などの複数の名前が書かれていた。また四国遍路に例えた「同行11人」の落書も眼にとまった。わずか27、8歳でそれだけの職人を束ねていたのだろうか。素朴な疑問として、彼以前の縫師の存在があったのではなかろうか、と思えて仕方がない。ましてや、松里庵と思われる「髙木屋」の小道を挟んだ直ぐ前に、「池田屋」という縫屋が存在する。池田屋と髙木屋はどのような関連があったのだろうか。現時点、北四国太鼓台の装飾刺繍の歴史解明は、ここのところで止まったままなのである。

松里庵・髙木家の東予・西讃への進出

髙木定七縫師が琴平から観音寺に拠点を移している。役所への届出は明治35年(1902)となっている。(観音寺での松里庵四代目・髙木敏郎氏よりご教示)果たして明治35年に移転してきたのが本当に正しいのだろうか。

2007年10月、山城町・大月太鼓台(現・三好市)昼提灯・再見学時のノート記録には、“松里庵の観音寺への拠点移動は、明治23年(1890)頃ではないか”との私のメモがある。その理由としては、大月太鼓台の昼提灯の取材を終えた帰り際に、初対面のご婦人から次のように声をかけられたからである。「明治7年(1874)生まれのひいおじいさんが16歳で新若に入った年(明治23年1890)に、この昼提灯を持ち帰るため、長老に従って険しい山道を観音寺まで往復した」と話されたことが一番の理由である。また曽祖父は、ことある毎に「大月の宝物」であると語っていた由。この話をしていただいたのは、私からの問いかけからではなく、ひ孫の方からの自発的発言であった。これは、縫屋としての松里庵が、当時既に観音寺に拠点を構えていたことを示す証左であると思う。

松里庵・髙木家では、恐らく明治23年当時には、主たる拠点を観音寺へ移し、琴平でも工房の一部を残していたのではないかと思われる。やがて太鼓台刺繍への転進が確かな実を挙げるようになる明治35年の時点で、正式に役所への届出を済ませたのではないかと思われる。

香川県が愛媛県であった時代(明治9年~21年)以降、東予・西讃地方の太鼓台への装飾刺繍の需要の高まりに後押しされながら、西条や新居浜に直結した海運の便を利用するため、観音寺に進出してきたのである。進出は、自分たちが生かされる道・活躍できる道であるか、逆に失敗して元も子もなくなるかを、二者択一する決断であったと思う。歌舞伎衣装に生きるか、太鼓台刺繍に生きるかの分かれ目であり、結果として歌舞伎衣装との決別であったと推察する。

同時代、川之江の山下縫師(後に伊予三島・住)の工房においても、東予・西讃地方での活躍があった。山下茂太郎縫師の一番弟子で、若くして亡くなったと聞く阿波池田町馬場出身・森本民蔵氏は、年季奉公のあけた大正3年(1914)に出身地の氏神・四所神社に鯉退治の刺繍絵馬を奉納している。

その弟弟子と聞く梶内近一縫師は、新天地を求め淡路島へ渡り、島内のだんじり(蒲団型の太鼓台)や阪神間の屋台やだんじりに大きな影響を与えることになる。

終章

現在の四国北岸地方(中・西讃、東予、西阿波)の太鼓台は、装飾刺繍が一層大きく厚みを増し豪華となっている。しかし明治初期のこの地方では、現在と比較すれば、幅狭く厚みも薄く小型でより簡素なものであった。同時に、多くの太鼓台に装飾刺繍が採用されていたのも、また事実である。そして、時代を経るに従い、作り替える毎にだんだんと大型化していった。西条まつりのみこし(福原敏男氏著『西条祭礼絵巻』2012の絵画史料)・詫間町箱浦屋台の年次別刺繍・徳島県山城町大月太鼓台の蒲団部最上端四隅の雲形刺繍飾り・広島県三原市能地四丁目のふとんだんじりの蒲団〆や古幕・大崎下島大長の櫓の古刺繍・まんのう町木ノ崎太鼓台の掛蒲団・まんのう町大向太鼓台の蒲団〆(鳩峯神社に掲額中)・山本町旧大辻太鼓台の昼提灯・観音寺市柞田町旧黒淵太鼓台で使われ同市本若太鼓台に里帰りした蒲団〆などに、その面影が残っている。

この地方の太鼓台の文献上での始期は、寛政初期から文化・文政期(1789~1830)にかけて多く認められている。恐らく、各地の太鼓台はその時代に競って登場し、金毘羅大芝居の衣装の影響を受け、以来百年そこそこで大きく変貌を遂げたものと思う。同時に、職人である縫師たちも、芝居の歌舞伎衣装と決別し、「これからは太鼓台刺繍の時代」と踏んで、琴平から新居浜・西条に船便のよい観音寺へ拠点を移し、数多くの職人たちが輩出し活躍した結果、この地方を「太鼓台文化圏の雄」の一つに成し得たものと思う。

同時に私たちは、松里庵・髙木定七縫師以前の職人事情についても多くを学び発信していかなければならない。最初は、例え簡素な装飾刺繍であっても、それを産み出してくれたからこそ、今日がある。その意味では、多少の傷みがあっても、先人たちの制作した古いものを後世へ受け継ぐことの重要さを、太鼓台文化圏の責務として遺していかなければならない。遺していてくれさえすれば、今は役立たずかも知れないが、多くの人々の調査・研究が進み、必ず陽の目が当り、古刺繍が必要となる時が訪れるはずである。

(終)

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