太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

特徴的な「足・裏」表現と「四国、大阪、洲本」の桜井縫師について

2019年12月16日 | 研究

四国・大阪・淡路島の縫師-「櫻井」縫師の軌跡を追う

北四国における「明治期の基準太鼓台」と目される三豊市詫間町の箱浦屋台。その2代目龍形蒲団〆が、明治41年に当時の善通寺町に住む「櫻井喜三太」という縫師によって制作されていることが、箱浦地区で継承されてきた道具箱の墨書により判明している。四国での櫻井(桜井)縫師の名前は、太鼓台刺繍では箱浦屋台のこの蒲団〆以外では全く聞かない。(写真は、保管箱の署名と櫻井喜三太縫師が制作した2代目蒲団〆。最後は初代の蒲団〆で、屋台建造の明治8年製と見られている)

前稿<足・裏(F)>では「切れ込み深いリアルな足・裏表現」が、松里庵・髙木工房作品の大きな特徴であることを、地歌舞伎衣裳及び太鼓台古刺繍において、画像を示しながら指摘したところである。本稿で解明を試みようとするのは、作品に残された「特徴的な足・裏表現」と、「桜井喜三太縫師」の名前を介して、四国と大阪、更には淡路島側の太鼓台刺繍作品のお互いの関連を追い、太鼓台装飾面での豪華な刺繍の発展や広がりを、できるだけ客観的に眺め、解明していくことである。

表中の「櫻井喜三太・桜井喜三太・桜井・櫻井喜一」については、さまざまな検討から、私は同一人と見ているが、その件については後ほど納得の得られる説明をしたい。上表は、四国側と淡路島側の双方刺繍作品に見られる特徴的な足・裏表現や、箱浦及び伊加利・山口檀尻蒲団〆の火炎のカタチや配置の位置を比較した結果に基づいて作成したものである。表に取り上げた刺繍作品を比較しながら注意深く眺めていくと、そこからは四国箱浦・大阪・淡路島洲本での「桜井縫師」の足跡が見えてきそうである。その「櫻井喜三太」縫師は、大正10年には「ぬいや桜井喜三太(様)」として「大阪市南区安堂寺橋通り四丁目十六番地」に居を構えている。(大阪の地車大工・住吉大佐の『地車請取帳』の大正10年の記録にあり。H17.8兵庫地車研究会・編集発行)

次の比較写真は、上表の関連項目③(宇多津・山下太鼓台)と⑥(淡路島阿万上町檀尻)の幕である。箱浦屋台の保管箱に墨書された櫻井喜三太縫師の四国での活動母体と考えられる松里庵・髙木工房との関係性を加味して推論していくと、これらの幕の大元となった元絵が四国側にあり、阿万上町檀尻の幕が、宇多津・山下太鼓台の幕図柄から変化したのではないかと思われて仕方ない。その理由としては、①明治41年に桜井喜三太縫師が、箱浦屋台の2代目蒲団〆を制作した際に、明治29年に作られた同屋台の妖術較べの幕を、現地箱浦で実見している可能性が極めて高いと思われる。阿万上町檀尻の幕に縫われた切れ込み深いリアルな足・裏表現を、四国での修行中、既に箱浦屋台で実見していたものと思われる。

明治30年(1897)松里庵・髙木工房制作の宇多津・山下太鼓台幕の部分。左から実際の幕の向き、左右反転したもの、鬼らしく丸まった足。

淡路島・阿万上町檀尻の幕・部分。(「洲本・縫泊人・櫻井」の銘がある)

明治29年(1896)松里庵・髙木工房制作とみられる箱浦屋台の幕・部分。櫻井喜三太縫師は、明治41年の蒲団〆制作時に実見していたはず。

このように、表③の山下太鼓台幕と、表⑥の阿万上町檀尻幕との関連を縷々論じることが、四国側・刺繍と淡路島側・刺繍との関係性を知ることにつながるし、更に次に述べる表④の箱浦屋台の2代目龍形蒲団〆と表⑥の伊加利・山口檀尻の蒲団〆の火炎の図柄比較を行なうことで、「櫻井喜三太・桜井喜三太・桜井・櫻井喜一」の人物像の解明にもつながるものと考えている。同時に、表⑤に示す同姓同名の縫屋「桜井喜三太(様)」が、大阪の地車(だんじり)大工・住吉大佐の得意先として、大正10年に大阪で縫屋を営んでいたことが、櫻井縫師の四国以後の足跡を知ることにもつながってくる。そして、回りめぐって「四国―大阪―淡路島」という彼の足跡が見えてくる。その結果、「善通寺町・櫻井喜三太-大阪・桜井喜三太-洲本・桜井喜一」は、果して同一人であるのかどうかが重要事となる。結論として、前述したように、善通寺・大阪・洲本の「桜井縫師」は同一人であると考えている。(写真は、箱浦・2代目蒲団〆と伊加利・山口檀尻の下り龍の蒲団〆。双方の火炎の位置に注目したい。下の段は幕図柄と銘)

「櫻井喜三太」「桜井喜三太」「桜井」「櫻井喜一」を結びつける

「櫻井喜三太・桜井喜三太・桜井・櫻井喜一」について、私は同一人と見ていると記したが、その理由を述べてみたい。(1)「櫻井」「桜井」は全く同じ姓であり旧字と簡略な新字体であること。 (2)箱浦・2代目蒲団〆制作の明治41年から、大阪居住の『地車受取帳』に書かれた大正10年までは経過年が短いこと。 (3)箱浦の蒲団〆に、上方で数多く見られる蒲団〆下部の「〆隠し」(蒲団〆の取付穴を隠す刺繍本体とは別の部材。箱浦では獅噛が相当する)が備わっていて、箱浦2代目の蒲団〆が上方様式であること。このことから、櫻井喜三太縫師が上方方面に縁のある人物であることが偲ばれる。 (4)「桜井喜三太」と「桜井喜一」の関係であるが、「喜三太」という名前は子供っぽい印象を相手に与えはしないか。肩書きの縫泊人(縫箔師)には相応しいとは思えない。改名したのではないだろうか。淡路島へ進出するのにあわせ、喜一と改名したものと想像する。従って、単に「洲本・縫泊人・桜井」と下の名前を入れなかった阿万上町檀尻・幕よりも、「洲本・縫泊人・桜井喜一」とようやく下の名前まで入れた伊加利・山口檀尻・幕の方が、時間軸としては後のような気がする。

本表各項目の精査を通じ、箱浦・宇多津・大阪・淡路島のそれぞれで、太鼓台文化圏(特に刺繍太鼓台の分野)の豪華刺繍の発展や広がりの一端が垣間見えてくるはずである。推測するに、櫻井喜三太縫師は若い時に四国へ修行に来て、年季が明けて大阪へ帰り(出て)、縫屋として地車や蒲団太鼓台の装飾刺繍を手掛けていたものと想像する。残念ながら現時点では、大阪での縫屋・桜井喜三太縫師の作品には遭遇していない。その後、「櫻井・桜井」という名前の刺繍職人(下の名前は喜一、幕には縫泊人と表記)は、淡路島の洲本紺屋町で工房を構えていたらしいことが、南あわじ市の阿万上町や伊加利山口の檀尻幕に縫われているネームから分かる。しかし、そのネームに基づいて2010年6月に洲本城下の旧・紺屋町界隈を丹念に実地調査したが、縫屋を営んでいた工房存在の手がかりは全く得られなかった。大阪からの旅仕事(=泊り込みの出張仕事)であったかも知れない。

(終)
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