はぐれ雲

毎日世界のどこかや身の回りで起きることを自分のことばで書いていきます。かなり過激な場合もありますがいつも本音です。

勇気凛々瑠璃の色 ゆうきりんりんるりの色

2020-09-10 07:30:28 | 日記
このあたりの逝き場のないおぢさんたちも覚えがあるべ?。

そうそう押上にあたいのいとこがいて夏休みなんかよく泊まりがけで遊びに行ったよ。
ときどきそのいとこの通ってる曳舟の小学校に探検をかねて侵入したんだけど、
その小学校も、(通ってるがっこもそうだったけど)廊下のところどころがパタリと開くのよ。
何か所もあって開けると階段があってずっとずっとずっと歩くと防空壕(でっかい)に
行き着くしかけになっていたの。空襲警報なんかで使ったんだよね。
昔はけっこう内緒で遊べたんだね。当直の先生はきっと呑気にコヅカイさんと
話し込んでいたりしたんだね。昔は必ず男の先生がガードマンだか留守番していたもんね。

懐中電灯持って防空壕で遊んだりしたけどわくわく探検隊でいろんな地下道がその防空壕
へとつながっているの。そこで塩せんべいや固くなった焼き餅をかじるの。悪いけど
そのころは悲惨な戦争とか戦火の犠牲者とかちいとも感じなかったねえ。それよりあの、
頭の芯がしびれてどきがむねむねする心地よさって、気分って、
正直勇気凛凛瑠璃の色(ゆうきりんりんにじのいろ)~だったかもしんない。
まあ、少年探偵団というかどこにでもいるめでたい子どもだったわけよ。当時は。

押上に、どんでもなく広い原っぱがあったんだけど、そこは東洋紡?のどでかい工場の
跡地だったんだよね。いつも男の子とばかり遊んでいたから草野球とかバドミントン、
や鬼ごっこやメンチをして遊んだんだけど、そこではときどき骸骨も見つけたよ。
あたいたちは「あっガリッコツだ。」と言ってたけどね。
雨上がりのあととか、見えてくるんだよね。そういうのは掘ってから棒の先につけて(首)
おまわりさんに「はい」と持って行くのよ。そうすっと「おっ、これはだいぶ古いなあ」
とか言って、昔のことだからあたいたちの住所や名前も聞かれないしさ、まさか小学生が
殺したなんて想像もしない時代だったから特に書類とか書かされなかったし。
いま考えると、東京大空襲か関東大震災の犠牲者の方だったかもしれない。ご冥福をお祈りするばかりです。

それからその辺りの三角池でザリガニ。まっかちん。と言ってたけど。
するめの足ででザリを釣ってからそのザリを殺してその肉で次のザリを釣るのよ。
バケツにうようよ獲れてときどき指を挟まれたりするんだけど「イテーヨナニスルダ」
そのころは食用になるなんて夢にも知らなンだ。
どじょうもよく獲れた。めだか、フナ、時々カメ。ってな具合かな。

亀戸住んでたころに一回そこへ行ってみたんだけど、ちょ、超でっかいマンションみたいのが
いっぱい建ってしまっているし、曳舟小学校も校舎をすっかり建て替えてもうあの地下道の
抜け道や防空壕はすっかり無くなってしまったよ。
ハーラッパ(原っぱ)も消えてみんなヨーロッパへ出かける時代になったしねえ。

♪ぼーくらは町の子 元気な子~空を仰げば白い雲
みんなで行こう 胸張って ほらホームランだよホームラン
ホームラン(ちゃちゃちゃ)ホームラン(ちゃちゃちゃ)ホームラン教室~

こんなわけわからん歌が流れていたあの頃。その頃。

ついでに言っとくけど、浅草のうんこビル(金斗雲)のある朝日ビールのビルは
ホントは昔、煉瓦造りのビヤホールだったんだよ。椅子はビヤ樽でさ。
父ちゃんによく連れていってもらったけど決まったもんしか無かったよ。
ソーセージと枝豆と南京豆。だったかな。楽しみでね~。
ああ、下町、とくに浅草はくわしいよ。くやしいのは楽太郎=現円楽が絶賛してた鰻屋

「小柳」がちゃりで探し回ってもどうしても見つからないんだよね。
まあ、いっか。鰻はほとんど食べられないんだわ。


さっぱりきっぱりの強い大人の頭脳は原っぱで培われる。
そーゆ-こと。

I Just Call to Say I Love You

2020-09-09 08:22:02 | 日記
うわっ。
帰宅してドアを開けるとスティービーワンダーの歌声が!
仕事の疲れもふっとびました。

♪I Just Call to Say I Love You

シンプルで透明で繊細なメロディーなのにそれは
5月のみどりの風がわたり
すみれ色の恋が芽吹き
雨にぬれる山の木がゆれ
9月の青い月のしずくがこぼれ
かぐわしい薔薇の香りに満ちた夕暮れ・・・・

などの情景が思い浮かんできました。

今日はさんまを焼いてサトイモのにっころばしを作りました。
連れ合いはまだテニスから帰って来ず。
のどかな時間。まどかなこころ。
ビンボーしゃんだけど健康でありさえすればなんとかなるさぁ。
なんくるなんくる~。
僕は君に I Love You というためだけに電話した♪


カステラのはじっこ

2020-09-08 09:03:07 | 日記
台風10号の被害が最小限に抑えられて良かった。ま。これから家屋などの損壊も徐々に
あきらかになって行くのでしょうが。人の命にかかわる被害がほとんどないのは備えが
しっかりしていたしテレビなどで早め早めに呼びかけたからでしょう。

今日の小江戸の天気 ひとりぼっちで秋うらら。
朝早く自転車をこいで近くの「かにや」という和菓子工場へ行く。
工場の敷地内にショールームがあっていろとりどりの和菓子が並んでいる。
”いざ鎌倉” ”あばれんぼう”陽だまりの樹”ケンキ”・・・・。うまいのは知ってる。でもちょい高。
手つくりのくわんくわんしたねりきり”紅葉”、すいか”、”でめきん”などの生和菓子。400円。問題外ね。
で、手に取るのはきまってパックにぎっしり詰まったカステラのはじっこね。
焼きかげんで蜂蜜がはしっこでしっとりしていて、卵黄のこげた匂いがこれまたたまんない。
これ、1パックで180円。安すぎ。でも、すぐ売れちゃう。

種子島にポルトガルから440年前に伝わった異国の菓子。
江戸時代、人々はこれを箱に入れてお湯をひたして大事に味わったそうな・・・。。
わたいはかすてらにさらにバニラアイスを乗せて、テーブルにGO!
某あいすくりん=105円。かにやのかすてらいっぽん1500円のはしっこ180円。
早起きは1215円の得。

大根8本までなら可

2020-09-07 06:24:11 | 日記
でぶ。とよんで栗クリ
三ヶ月で5キロ太った。
いままで52キロだったのに。
ウエストが58から70になったのでびっくり。
5本あったジーンズが佩けなくなったのは悲しかったねえ。
だってスキニージーンズが一本しか佩けないんだもん。
でもってそれを洗濯すると乾くまでゴロンタゴロンタなんだもんヨナー(爆

でもって思い当たることはアレルギーの薬とビタメジンを一月のアタマカラ飲んでいるのね
あと、缶ビール350mlを2本飲んでいまつ。
先生んとこにいったさー。「もう年中5キロの米持ちあるいているみたい。」
んでもって食事がおいしいんですよ。
塩むすびがうまい。焼き芋がうめい。大根が・・・ふろふきがうまい。
しみチョコがうまい。しゃけがうめい。バタをたっぷりぬったトーストがうま。
キャベツのごまあえがうまいほうれん草がうまい。のサラダがうまい。
もうどしたらいいんだろ?

金曜日、ドクターに言ったらああそれは辛いですよねー。
でも野菜だったらいくら食べてもいいですよ。

ふーん。野菜だったら無制限なんですね。えっとちなみにどのくらい?

「一日大根8本まで可」

え?そんなに食べられない。携帯すれっていうんですか~
まてよ。三本なら。
一本はおでんにすれば軽くイケマス。
二本は大根サラダかな。いけちゃう。でも胃をやられる気も。
一本は大根おろしでおろし鍋作って鍋にいれちゃう。。


あーでもあと5本どーしよう。
通勤途中でかじりましょうか?

初秋の午後であった。

つかなんだか頭へきた。!!
シトをヴァカにしているやんけ。


どなん 与那国島

2020-09-06 07:23:34 | 日記
皆さんは与那国島(よなぐにじま)という島を知っていますか?。
名前を聞いたことはあっても行ったことのある人はほとんどいないのではないのでしょうか。 私も離島が好きなので、四半世紀前からずいぶんと遠くの島へも 旅しました。
石垣島が好きなので何度か足を運んでいるうちに、八重山には 自分が探していた物、すっかり忘れていた物がそっくりそのままあるというこに気付かせてもらいました。
花が花に生まれて喜んでいる
樹木が樹木に生まれて喜んでいる。
ついでに
わたしもわたしに生まれて喜んでしまった。 旅の人でなく東京人とかでもでなく、南の海が、あったかくってとてつもなく でっかい自然が、私を琉球人としてつつみこんでくれた。 おそらく訪れた人の多くは、同じような思いを抱かれたと思います。おおいなる怒涛のような自然・・・。その前に思わずひざまづいてしまう、そんな力が沖縄にはあるように思います。

春まだ浅き都会より、仕事の関係で与那国島に行く機会がありました。
 石垣島から飛行機で30分。台湾まで約125キロ。 石垣島からは
約 127キロの位置にある 日本最西端の島です。
島は昔から“ドナン“と呼ばれてまして”渡難”の字を あててそう読ませるほど厳しい自然環境にあったようです。

地図を広げてながめていた時点では、大型回遊魚が獲れる海、ハンマーヘッドの大群が泳ぐ海 。世界最大の蛾・ヨナクニサンの産地 などビッグでワイルドななイメージが先行していた

 パチンコやもなければゲーセンも無い。大型スーパーもマクドナルドも無いです。何もない。  木の葉の形をしたちっちゃな島です。
それでも来ていただけますか?。 そのかわり金は貯まりますよ。
案内してくれた人は冗談めかしてこう言った。(最後のフレーズでガクッ!そのかわりっていったい・・・)
久部良(くぶら)という村ののとある大きな古い民家の前で車を降りた。「ここで泊まってください。夕食は迎えに來ますのでそれまでしばらくお休みください。」こう言い残して車は走り去った。
オイオイ聞いてないヨー。築百年ってとこの古民家の〔冗談でなく)家の土間に荷物を持ったまま私は途方に暮れてしまった。
 家はあけっぱなし。島にはドロボウがいないそうだ。
誰もいないのでとりあえずあたりをあちこちと見て歩くことにする。とりあえず公衆電話を探そう。20分ほど行けばあるという。携帯が調子悪くバッテリーの残量が少ない。教えられたとうりに歩くが・・・・。行けども果てなく続く ウージー バタチと土地の人がいうサトウキビ畑以外、本当にあたりは車一台、人っ子一人通らなかった。
 あるのは夕焼けとトウキビ畑と吹き渡る風だけである。 まったくこの世の果てかと思うほど寂しいところだ。  腹が減るわ。、人恋しいわ。足がくたびれるわ。日が暮れかかるわ。
思わず、いい年をしていながら叱られた子供のように寄る辺無い気持ちになって涙ぐんでしまった。
でも、それは少しも嫌な気分ではなかった。それどころかなぜか懐かしいような安心できるようなシチエーションであったのだ。西岸良平の漫画の世界のような・・・。昭和40年代にタイムスリップ。なぜかおかっぱ頭にツギハギズボンの私がいて。デジャービューに近い気分。なぜだかわからないがとても素直な気分になってしまった。
 そのあたりには、ホカ弁もコンビ二もタバコ屋も、いわんや電話ボックスすらも見えなかった。
それに、先ほどからすれ違う人の数よりヤギの数の方が多いのは不思議だ。なだらかな丘、草原、道路に至るまでつながれたり,つながれなかったりしたヤギが夕日をいっぱいに浴びて草を噛んでいた。
道路を少し入ったところの草むらで赤ちゃんを生んでる最中のヤギがいた。[アーララ!」
生み終えるとお母さんヤギは子袋をひきずったまま歩き回りながら赤ちゃんヤギがモコモコとしながら立ちあがっていくのを見守っていた。
ここですっかり、私の与那国島に抱いていた”ビッグでワイルドなイメージ”は払拭されてしまった。
  しばらく行くと”闘牛場はコチラ”の案内板がみえてきた。「オオ。やぎさんだけでなく牛サンもいるんか?。ウーン。与那国は動物サイトも奥が深い・・・。」
 久々の信号を渡ったところに民宿を兼ねたよろずやのようなスーパーがあったので、沖縄限定のパイナップルハイチュウとオリオンビールとカップ麺をこれまた久々の定価どうりで買った。品物の値段プラス飛行機代or船賃かな。
あと”ウメ―シ”という黄色い竹に紅いボッチがついた箸を買った。20膳100円で安くてうれしかった。
旅先で箸をわすれたらお祭り騒ぎだ。大変だ。

 民家へ戻っても、まわりはあたりまえの静けさにつつまれていた。 テレビやDVDいわんやSNSなどが普及してない時代に、何かがそっと立ち帰らせてくれた  そして、その静けさの中で、わやわやと音をたてて身体と心の関節がほぐれて行く。
 夜になって仕事先の人が 迎えにくるまで、私はこの島独特のもったいないような 南国の暖かい闇をゆっくりと楽しむことにした。


続くかもしれなひ。