おはようございます!
今日は、何の日??
- 二十四節気・雑節等
- 新月
- 朔。月と太陽の黄経差が0°となる日。旧暦ではこの日が暦月の朔日となる。
- 交通信号の日
- 1931年(昭和6年)のこの日、東京の銀座や京橋などに赤・黄・青、3色の交通信号機が設置された。
- 蚊の日
- 1897年(明治30年)のこの日、ハマダラカ類の蚊の胃からマラリアの原虫を発見したのにちなんで、イギリスで制定された。
- マージャンの日
- (毎月第3木曜)
- NHK創立記念日
- 1926(大正15)年、社団法人日本放送協会(NHK)が設立された。
さて、高野山・・・・
今日からは、金剛峰寺編へ
壇上伽藍から金剛峰寺への道・・・・
伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇場伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。
蛇腹道というそうです。
紅葉の季節は、良さそうですよ~~
あじさいちゃんは、まだまだ元気にあっちこっちで咲いてました。
金剛峰寺
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、
和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約平坦地に位置する。
100ヶ寺以上の寺院が密集する、
日本では他に例を見ない宗教都市である。
京都の東寺とともに、
真言宗の宗祖である弘法大師空海が宗教活動の拠点とした寺であり、
真言密教の聖地、
また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。
2004年には高野山やかつての表参道である
高野山町石道(こうやさんちょういしみち)などが、
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからもわかるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。
全国の真言宗の総本山
でかいわ^^
まずは、手洗いから・・・・
そういえば、高野槙が悠仁さまのお印になりましたね。
正門
金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐられる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。
右のほうを見ますと小さな入り口があります。このくぐり戸は一般の僧侶がもっぱら使用しています。昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけでした。一般参拝の方はあまり関係のない話ですが、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのです。
なるほど・・・・
堂々としてますね^^
屋根を見ますと・・・・
天水桶
金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっています。その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶といいます。
これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました。
なるほど、火事を・・・・
続く・・・・
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
俳句の日ですか・・・・
一句いっときますか
この夏は 天候不順 どうなるん??
さっ、世界遺産シリーズ・高野山・・・・
壇上伽藍編は続く
今日も、配置図をば
大塔の鐘 高野四郎
お大師さまが鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。
現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。
現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせています。
高野四郎って・・・・人の名前でんな^^
建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。
昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。
このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。
不動堂
建久8年(1197年)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王というお方が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(現在の金輪塔<きんりんとう>所在地付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。
現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠(こうしょう)がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。当初は阿弥陀堂であったと推定されていますが、後に不動明王を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)が奉安されました。この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められています。
三味堂
済高(さいこう)座主(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。
後に壇場へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。
三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。
西行桜
伽藍、三昧堂の前に植わっている桜を西行桜と呼びます。以前の桜は、文化年間に枯れてしまったといわれ、現在の桜は後世のものだそうです。歌人としても有名な西行法師は、久安5年(1149)32歳頃から約30年間ほど高野山を往来していたといわれています。
三昧堂の西には蓮花乗院(現大会堂)が建っていますが、この堂の建築奉行を西行は仰せつかっていました。蓮花乗院は、安元元年(1175)、鳥羽天皇の皇女で五辻(いつつじ)斎院頌子(うたこ)内親王が鳥羽院の供養にと創建したのですが、もとは別の場所にあったものを、伽藍の現位置に移築しました。移転改築の奉行だったのが西行で、その際、三昧堂で朝夕のお勤めをして、そこには当然のように、桜の木が植えられていたのかも知れません。
東塔
大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。
天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。
昭和59年の・・・・
新しいですね^^
これで、壇上伽藍は終了
この中で、中に入れるのは”金堂”と”根本大塔”・・・
それ以外は、外から
続く・・・・
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
さっ、壇上伽藍の続きでございます。
お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、真然大徳によって建立されました。その計画とは、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、仁和2年(886年)に建立されました。
西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。
でかいよ^^
中には、残念ながら入れません・・・
外より。。。。
朱塗りやなくて・・・・
古さを感じれて、こっちのほうが好きなんです^^
伽藍、准胝堂(じゅんていどう)と西塔の間に位置する孔雀堂は、正治2年(1200)11月11日に落慶し、その本尊孔雀明王像は仏師快慶により造立されました。
孔雀堂の創建由来は、鎌倉時代の初め頃の話になります。正治元年(1199)の夏、近畿地方に長い期間雨が降らず、干ばつが起こりました。当時、こうした干ばつなどの自然現象に対し、朝廷の命令で、お坊さんが雨を降らすことを祈る「請雨経法」が行われていました。
正治元年(1199)8月3日には、東寺の長者、延杲(えんごう)僧正(1123~1206)に対して請雨祈願の依頼があり、京都の神泉苑というところで孔雀経法が修されました。孔雀経法は、雨を祈るのに特に効験があるとされていました。さすがこの時の修法は効果てきめんだったようで、今までの大干ばつから一変しての降雨となり、今度は止雨を祈らなければならなくなった程であったといわれています。時の後鳥羽院をはじめ、人々の喜びは想像に難くありません。
そうしたことによって、延杲僧正の法力の偉大さに対して、賞が贈られました。その賞が高野山に孔雀堂を建立することだったのです。孔雀堂の本尊製作に際しては、当時、無位時代の仏師であった快慶に依頼があり、本尊孔雀明王像は見事に造りあげられ、現在まで伝えられています。
孔雀は、中にいてまへんよ
准胝堂は御影堂の西隣に位置し、准胝観音(じゅんていかんのん)をおまつりしています。
准胝堂の歴史を調べて見ますと、どうも良く分からないというのが正直なところです。それは准胝堂自体が「准胝堂」という名前の他に、時代によっては「西御堂」とか「弥勒堂」とも呼ばれていたらしいことが、さらに難しくしているのかも知れません。
准胝堂の本尊となる准胝観音は、准胝仏母(じゅんていぶつも)とも呼ばれ、高野山ではお坊さんになるための儀式である「出家得度」の本尊として祀(まつ)られることで知られています。弘法大師が御在世の頃、出家得度の本尊とすべく大師自ら准胝観音を彫って当初、食堂(じきどう)に安置したのだそうです。その後、一説には天禄4年(973)頃になって准胝堂が建立され、その時、食堂から准胝観音像が移されたとも言われています。この辺りも諸説があって、判然としないわけです。
准胝堂建立後の記録では、正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)と五度類焼しています。こうした歴史の中、西塔が焼失したある一時期、西塔の五仏を准胝堂に仮安置したことから「西御堂」と呼ばれるようになったといい、また伽藍より北方に建っていたという弥勒堂の本尊を、一時期安置したので「弥勒堂」とも呼ばれたということです。
来ました^^
壇上伽藍のメインデッシュ
ほんと、でかい
人が、小さく見えますでしょ^^
お大師さま、真然大徳(だいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
北側に安置されている二体の仏様は多聞天(たもんてん)と持国天(じこくてん)で、江戸時代の作といわれています。この二尊(にそん)は、もともと中門に安置されていたもので、火災から奇跡的に免れて、西塔へ収められていました。
中は、もちろん撮影禁止・・・・
外からちょこっと^^
ほんと、中は立体の曼荼羅でした。
ここだけは、はずせませんね^^
続く・・・・
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
さっ、世界遺産 高野山シリーズ~~^^
毎日、参考のため地図つけておきますわ。
わかりやすいですもんね
大門~今日は壇上伽藍の紹介です。
お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇場伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。
各諸堂の案内順番は、高野山に伝わる『両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第』に則っています。ご紹介順に諸堂をご参拝されますことをおすすめ致します。
順番があるのですね・・・
見てから回ればよかった
適当に回ってしまった
では、順番どおりに・・・・
中門跡から入りまして・・・
金堂です・・・・
高野山御開創当時は講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。
現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。
内部の壁画は岡倉天心の理想に傾倒し、日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃくそんじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の薬師如来(秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
外国からも・・・
中は、もちろん撮影禁止でございます。
金堂の横に・・・・
金堂の西側に位置する松の木は、〈登天の松(とうてんのまつ)〉と呼ばれています。壇場伽藍の北側に位置する明王院の僧、如法(にょほう)上人が、久安5年(1149年)にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたそうです。
ちょうどその折、斎食の用意をしていた弟子の小如法は、師匠が登天するのを見て、あわててその後を追って昇天されたそうです。その時、小如法の手には杓子が握られており、昇天の途中にこの杓子が落ちてきたそうです。当時はこの松の周辺には芝が生い茂り、そこへ杓子が墜ちてきたことから〈杓子の芝(しゃくしのしば)〉と呼ばれるようになりました。
その、(地図でいうと)左手には・・・
鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されました。経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。
次は・・・・
六角さんの左手奥へ
御社です。
お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。社殿は三つあり、一宮は丹生(にう)明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神がまつられています。
丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。
ここは、中へ入れません・・・
外より
そのむかえには・・・・・
山王院
山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財となっています。
このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。
続く・・・・・
さあ、休みも終わりました
目覚めてまっか~~~?
今週は、きついよ
頑張りまひょか^^
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
さて、今日からは高野山の案内をば・・・・
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地であり総本山金剛峯寺がある。山内の寺院の数は117ヶ寺で、多くが宿坊を兼ねている。平成16年(2004年)7月7日、熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。高野山は金剛峯寺の山号でもある。太平洋戦争当時、海軍航空隊があった。また、かつては大阪市・堺市などの多くの小学校の林間学校(移動教室)の行き先となっていたが、1990年代以降は林間学校の目的地の多様化などもあり、減少傾向にある。
うんうん、わても5年生のとき林間学校で訪れました^^
それから、3回・・・今回で4回目の参拝でございます。
まずは、頂上に着くと・・・・
大門でございます。
裏からは・・・
ほんと、でかいですよ^^
高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。左右には運長作の金剛力士像が安置されています。正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。
迫力満点
ここから、参拝スタート。
5分ほど車で行ったところに、駐車場が
そうそう、地図をば・・・・
金剛峰寺の前の駐車場が、あっちこっち回るのにはいいかもです。
でも、9時には満車でしたけどね
もちろん、無料です^^
続く・・・・
さて、お盆休みも今日までですね。
大渋滞が待っている・・・・
気をつけて、帰ってくださいね
お仕事のみなさ~~ん・・・
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日?
- 二十四節気・雑節等
- 蜩鳴く
- 七十二候の一つ(38候)。
- 日中平和友好条約調印の日
- 1978年(昭和53年)のこの日、日本と中国の間で「平和友好条約」が調印され、10月23日に批准書が交され、日中の国交正常化が実現した。発行はこの年の12月23日。
- 君が代記念日
- 1893年(明治26年)のこの日、文部省が小学校の祝祭日の儀式用唱歌として公示。「君が代」は「古今集」の読み人知らずの和歌にイギリス軍楽隊長フェントンが曲を作り歌っていたが、メロディと歌詞が一致していないという理由で宮内庁雅楽課の林広守が現在の曲を製作した。
- 国際青少年デー
- 1999(平成11)年の国連総会で決定。国際デーの一つ。 1999年、リスボンで世界青少年担当閣僚会議が閉幕しました。
- 航空安全の日,茜雲忌
- 1985(昭和60)年、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出しました。生存者は4人でした。金属疲労による圧力隔壁破壊が原因とされています。 遺族らがつくる「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」とも呼ばれます。
- パンの日
- パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。 1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。この日を記念して毎月12日をパンの日としています。
- 晴れの特異日
- 晴れの確率が高い日。
いや~~、しかしなんですな・・・
昨日は、でっかい地震がありました。
東名高速も無残に。。。
でも、13日には、復旧するとか?
お盆の帰省も重なって、たいへんな渋滞ちゃいますか・・・・・
大雨・台風・地震・・・
いつ何時、どこで何が起こるかわかりまへん
とにかく、備えだけはしっかりしておきまひょ
さて、昨日の続きをば
浮見堂は、最高でした
ちこっと手振れ・・・
ほんと幻想的な猿沢池でした
さあ、今日から盆休み~~
って方も多いみたいですね。
いかがですか・・・なら灯花会へhttp://www.toukae.jp/index.html
14日までですよい~~
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
さっ。今日は土曜日の夜行きました・・・・・
奈良 灯花会http://www.toukae.jp/index.html
幻想的な世界が広がります・・・・
やっぱし、夜は三脚がないと・・・・
難しいでんな
続く・・・・
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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おはようございます!
今日は、何の日??
- 道の日
- 1986年(昭和61年)に建設省(現国土交通省)が制定したもので、1920年(大正9年)の8月10日に、日本で最初の道路整備計画が実施されたことに由来する。また、8月は「道路を守る月間」でもあるため、その期間内に設けるという意味合いもあった。
- 宿の日
- 全国旅館環境衛生同業組合青年部が1992年(平成4年)に制定した日。8月10日の語呂合せ。
- ホームヘルパーの日
- 富山県が制定。 富山県ホームヘルパー協議会のシンボルマークから、「ハー(8)ト(10)」「ハ(8)ト(10)」の語呂合せ。
- ハット(帽子)の日
- 全日本帽子協会が「8」「10」と「ハッ」「ト」の語呂合わせから制定。
- トイレの日
- 日本衛生設備機器工業会が制定。 この日とは別に、11月10日は日本トイレ協会が制定した「トイレの日」。
- イエローハットの日
- 自動車用品店チェーンのイエローハットが2002(平成14)年から実施。 「ハッ(8)ト(10)」の語呂合せ。
- 健康ハートの日
- 1985年(昭和60年)のこの日、日本心臓財団が創立15周年を記念して、21世紀の明るい健康運動となるように提唱したのが始まり。8と10でハートの語呂合せ。循環器疾患に関する知識の普及をうたっている。
- 国民皆泳の日
- 日本水泳連盟が1953年(昭和28年)に設けた日。
- [[諸外国の記念日]]
- 独立記念日
- (エクアドル) 1822年、エクアドルがスペインから独立しました。
- [[著名人の誕生日・命日]]
- 西鶴忌
- 1693年のこの日、『好色一代男』などで知られる江戸時代の浮世草紙の創始者、井原西鶴が52歳で没した。大阪・上本町の誓願寺にある彼の墓は、作家の幸田露伴が発見したとか。
国民、皆泳ぐ・・・・
仕事やなかったら、泳ぎまんねんけどな~~
さて、土曜日のお休みは、奈良の灯花会へ夕方から行ってきました。
http://www.toukae.jp/area_08.html
まずは、夕暮れ時の・・・・
猿沢池~興福寺五重の塔
池の周りは、ローソクの点灯を待つ人でいっぱい・・・
大阪とちがって、5時半ころは結構涼しく、歩いてても汗かきませんよ^^
盆地やから?
山とか神社仏閣・・・なら公園等、エアコンを使ってないから??
とにかく涼しかったのだわ
あの、並んでるコップのようなやつにローソクを入れて点灯
鹿ちゃんも角がかなり・・・・
この時期は、危険ですよ~~~、気をつけてくださいね。
今年の角きりはhttp://narashikanko.jp/j/ivnt/ivnt_data/ivnt108/
見に行くかな
市役所の前の”せんとくん”人気者でした。
記念撮影の行列ができてます^^
まずは、東大寺から・・・
と思ったら、東大寺は13と14日しかやってない。。。。
とりあえず参拝しますか^^
ライトアップされたら、迫力が増して・・・
怖いですよ^^
大仏殿・・・
ええもん見れました
観相窓が開いて、大仏様のお顔が・・・
聞いてみますと、お盆と正月の年二回開くそうです。
いいタイミングでしたわ
最後に素晴らしい夕空・・・・
東大寺から・・・
市役所の屋上からやったら、もっと綺麗やったのに。。。。
でも、ほんと幻想的な空。
素晴らしかったです
続く・・・
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
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おはようございます!
今日は、何の日??
- 二十四節気・雑節等
- 新月
- 朔。月と太陽の黄経差が0°となる日。旧暦ではこの日が暦月の朔日となる。
- 著作権制度の日
- 1899(明治32)年、日本の著作権制度が創設された。著作権制度は、著作者や演奏者の権利を定め、著作物等の公正な利用を図ることでその権利を保護し、文化の発展につくすことを目的としている。
- 聖マリア・マグダレーナの祝日
- マグダラのマリアの祝日。罪を悔いた罪人、改悛した娼婦を守護する聖者。
- 下駄の日
- 全国木製はきもの業組合連合会が下駄の良さを見直してもらおうと制定。由来は下駄の寸法で7寸7分と「7」の数字がよく使われるためと雪道で下駄の跡が「二の字」なる事から「22」に。
- ナッツの日
- 日本ナッツ協会が1996年(平成8年)12月に制定し、1997年(平成9年)から実施。「ナ(7)ッ(2)ツ(2)」の語呂合わせ。
- 夫婦の日
- 毎月の22日。「22」を「フーフ」にかけた語呂合わせによる。夫婦対話で明るいマイホーム作りをと1987年に毎日新聞が提唱し、制定。
さて、薬師寺も今日で最終回!
今日は、玄奘三蔵院をば・・・・
中も広い。
礼門だそうです。
玄奘塔です。
中には・・・・
いてはりました、三蔵法師はん^^
孫悟空は、いなかった・・・・?
中は、撮影禁止でしたが・・・・
平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしていました。
素晴らしい絵でしたよ。
これにて、薬師寺の巻・・・・お・わ・り
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
http://blog.goo.ne.jp/takomusume97/d/20080722
おはようございます!
今日は、何の日??
さて、薬師寺はんの3回目!~~
次は、金堂です。
立派でんな^^
真ん中に薬師如来さま・・
前にいてはるお坊さんが、いい話をしてくれはりました^^
それと、お坊さんの頭の上にある額??
あそこには・・・お正月の間だけのご本尊
吉祥天女画像
日本最古の色彩画だそうです。
見れてラッキーでした^^
ありがたや、ありがたや
そして、左右には・・・
日光・月光の菩薩が!
そうそう、普段は後ろに・・・・
写真のような金の・・・名前はわすれた^^
でも、今はないのです。
何でかと言うと・・・・
09年3月25日から、東京国立博物館で”薬師寺展”があるらしく、それに出席するために、引越し作業中なのです。
だから、珍しい背中からの仏様が見れました^^
ありがたや、ありがたや・・・
吉祥天女はんも行かれるみたいです。
ぜひ、東京国立博物館へおこしやす^^
って、もう終わってますけどね
さて、次は大講堂・・・
中には・・・
弥勒三尊像がいてはります^^
その裏には・・・
仏足石・・・
お釈迦さまがお亡くなりになって、約3~400年間はインドには仏像がありませんでした。これは仏さまを形に現わすのは勿体ないことであるとの考えからで、そのかわりに、仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹[ぼだいじゅ]や法輪に祈りを捧げてきました。この仏足石は側面に記される銘文により、インドの鹿野苑[ろくやおん](お釈迦さまが初めて法を説かれた所)の仏足石をもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石です。
ありがたや~~~
続く・・・・
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
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