
この飛行場は特攻隊の中継基地として。数多くの若き特攻隊を
見送った場所です。多くの犠牲が出ている場所でもあります
仕事で筑前の大刀洗には3~4度行きましたが平和会館に行く時間がありません
でした。鹿児島の知覧特攻会館も3度くらい行きましたが特攻前の両親にあてた
手紙の印象が強く残っています。戦争体験のない私は子供のころ父親の
話をとても真剣に訳もなく聞いていて≪お父様はかわいそうだったね…>と
言ったことを覚えています。父親の晩酌の相手をしながらハーモニカで
<故郷><月の砂漠><アリラン>などふきかたを教えてくれていました。そのためか
とても戦争の怖さと悲しさとつらさを味わっています。大刀洗記念会館には
若者や親子連れがたくさん見学に来ておりました。昭和20年3月20日
午前10時40分の大刀洗周辺の爆撃機のことが明細に記載されています。特攻隊の
若い兵士がどのような思いで飛び立っていったのでしょうか?なんだか
<バカ……どうしてこのような目に合わないといけないの……>
当時の教育の恐ろしさにぞっといたしました
しかしやっと大刀洗平和記念会館を訪ねたことが出来ほっとしました
死を覚悟した兵士たちが愛する家族に残した手紙や遺書
忘れてはならない戦争の悲劇を伝え、聞き、反省し
平和の大切さを感じる一瞬です
図書館の本やら、地域にある銘版などからの知識ばかりでした。戦争に駆り出されていった、見えない力の怖さをいつも思っています。
勉強も見てくれていた父
テニスの応援にもきた父
尺八もうまかった父
太刀洗記念館に特攻隊の方がふかれた
尺八が展示してありました
12時には1分間黙とう致しました
世界の紛争地域の子供達に心が痛みます
今日は終戦記念日、そしてお盆。
今は亡き両親を思いだします。
父親は戦争についてほとんど語りませんでした。
母親は「戦争だけは絶対にだめ」が口ぐせでした。
あそこの家で誰々が戦地で亡くなった,あそこは空襲でやられた。と、幼い頃によく聞いて育ちました。
明日は精霊送り、五山の送り火です。
両親を送り返します。
ピンクに染まっていたのや B29の編隊の音など覚えていますよ
特攻隊は私も知覧も太刀洗も行きました、涙、涙ですね。
小学校の同じクラスのS子さんは小さい頃、長崎に
居たそうで 23歳で白血病で亡くなられました。
私の周りだけでも 悲しい出来事が沢山有ります。
戦争は絶対反対です
心に響きました
どのような気持ちで飛び立ったのでしょうか?
五山の送り火は中継でしか知りません
壮大で凄いですね。準備が大変なのでしょうね!
また京都様の写真を楽しみにしておきます
両親の事を思い出せるのはお盆だけ…
毎年私たちも歳を重ねていきます
NHKで過去の戦争の記録を見せてくれるたびに<戦争は嫌だ…、してはいけない>と
強く感じます!
それだけ印象が強かったのですね
私は自慢ではないですが<?>小学校に
上がる前の記憶が何もないのです
それだけ学校に行きたくない症候群が強かったのでしょうか<給食が嫌で嫌で仕方がなかった?
ぼろ机で良く字の練習をしていたのだけ覚えています
戦争の話は父からの影響で興味がありました