薩摩芋郎 STORY

100の議論より100円の寄付。
人生は100の苦しみ1回の喜び。
SHOCHU IS MY LIFE

タニーヤン・ネパール放浪ダイヤメーズ8<ブラザー>

2005-09-07 | Weblog
しばらく屋上で冗談を言い合い近年のヒマーラヤの氷河のようにうち解けた
僕たち5人ブラザーズは、友人の自宅(最上階)に乱入しご家族からネワール
料理のおもてなしをうけた。指でつまみ喰うのだがどれも心がこもっていて
とてもおいしい。自家製の地酒「ラクシ」もグビグビ、ジャブジャブ頂く。
キツイがウマイ。お礼にブラザーやご家族に扇子や手ぬぐいをプレゼントした。
全員ラクシでベロベロになりみんなで窓から身を乗り出し近所のレディ達を
からかい始めた。近所の人達はみんな競馬を観ながら涼むために屋上に昇っていた。
僕が教えた「キレイデスネー」の連呼だ。友人の一人Mr.ShrastaからSuddが
隣のアパートに住む女に一目惚れしてるんでしょっちゅう来るんだと教えられた。
「あの娘」と指差す先にキリッとした顔立ちの美しいネパール美女がこっちを見て
はにかんでいた。すかさずみんなで「キレイデスネ~」の連呼だ。Shrastaが
彼女にネパール語で意味を伝えSuddのフォローをする。いい奴だ。
Suddは恥ずかしそうに彼女を見つめていた。久しぶりに純愛シーンを観た気分になる。
そうか、僕を誘ったのは彼女に逢う口実の一つやったんか、と妙に嬉しくもなった。
酔っ払い5人組でカトマンドゥを肩組んで徘徊しホテルに着いたのは18時30分に
なっていた。一人になった僕はシャワーの後レストランに行き、地酒をオーダー、
勢いで美人マネージャーを誘い呑み始めた。しばらくすると2人の日本人女性が
入ってきて食事し始めたが、話しかけてきたんでいっしょに呑みだした。
震災で会社が倒産し解雇されたんで、3ヶ月の予定で旅をしている関西女だった。
さらにベロベロになった僕は部屋に戻り、停電の中、座禅を組みしばし瞑想した。
いろんな出会いが連続した一期一会な一日だったにゃー・・意識が朦朧としてきて
関西女と「あとで部屋で呑もう」と約束したこともすっかり忘れ爆睡してしまった。

つづく

*ごちそうになったネワール料理
*タイトルに隠しダイヤメがあったのに気づいたヒトがいるかにゃー?

<9/5Trackback「夢バトン」を受けて>
Tbがよく解らずONE WAY返答しかできません。
Q1/小さい時何になりたかったですか?
 ○設計技師(理由は忘れたけど小学校の卒業アルバムに書いてました)
Q2/その夢はかないましたか?
 ○かなわぬ夢、というか小学校を卒業した後は明確な夢がなくなった気がする。
Q3/現在の夢は?
 ○大人になってからの夢だった独立と焼酎BARのOPENは実現できたが
 順調に赤字を増やし続け現在に至る。
 今の夢は10年後(子供が自立後)どっか九州の田舎に沖縄の赤瓦屋根の小さな
 民家を3~4棟再現し、かみさんと(離婚されてなかったら)のんびり民宿経営。
 焼酎BARを併設し毎日焼酎呑んで、三線弾きながらテゲテゲに過ごすこと。
Q4/宝くじで3億円当たったらどうする?
 ○1億寄付。残りで即、会社とBARの多額の借金を返済。(Oh!現実的)
 残りでQ3の夢の実現を5年早め遊びほうけ、たまに寄付。
Q5/あなたにとって夢のような世界とは?
 ○THUNDER BARが女性でいっぱいになって、ハーレム状態になり、
 デレデレになりながら浴びる程ジャブジャブ焼酎を呑むこと。
・・・疲れたのでこんなとこで。。

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ7<マンションの屋上>

2005-09-06 | Weblog
芝生が目映く陽光でキラキラ煌めく池が点在する美しい広場で競馬をやっていた。
国王も来ているらしい。日本で言えば「天皇杯」レースって感じ?
広場近くの小汚いけど懐かしい雰囲気の茶店でチャをごちそうなる。気が引けたが
どうしても奢ると譲らない。日本の事、家族の事やら聞かれた。僕の年を聞いて驚く。
同じ30才位と思ってたらしい。日本の女、ネパールの女の話で一気にブラザーだ。
経済や政治など難しい話は出来ないがやはり女の話は万国共通で盛り上がる。
店を出て10分位で友人のマンションに着いた。2人の男のネパール人が入り口で
出迎えてくれた。歴史を感じる洒落た建物だ。いきなり屋上に行こうと誘う。
オイオイ、輪姦かよ!?いよいよ貞操の危機かいなとちょっぴりビビるがみんなの
笑顔に囲まれ誘導されるまま階段を昇り始めた。最後は非常用梯子で昇る。
昇りきった僕は思わず目を見張りウオッという感嘆の声をあげる。
目の前に天国のようなパノラマが広がっていた。高層マンション等はなく視界は
360度開かれている。素晴らしく綺麗だ。ヒマーラヤ、アンナプルナ連峰が一望でき
王宮が白く輝き、山腹の寺院には雲の切れ間から後光がさしているようにも見えた。
野鳥が舞、さえずる。街の喧噪が嘘のようだ。地球の歩き方のようなガイドブックには
載っていないカトマンドゥNo1のビューポイントだと思った。
Suddと彼の友人は異国の僕にこのロケーションを見せたかったのか・・
観光スポットではない自分たちの街の日常の風景を。なんていい奴らなんだ。
警戒してた自分が思いっきり恥ずかしくなった。
そのうち、おじいちゃんや姪っ子も昇って来て、珍獣を見る様にジロジロ視られた。
持っていたコンパクトカメラでスナップ撮影してると、さらに友人が昇って来た。

つづく


*マンション屋上にて

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ6<ホテルマンの誘惑>

2005-09-05 | Weblog
難民学校を後にし、とりあえずビールじゃなく今夜のお宿を探そっかにゃーと
フラフラ喧噪の街を彷徨った。糞暑さでクラクラする。ノンガスのペットボトル
を購入し喉を潤す。カエルや鼠の屍骸、牛の糞に吐き気がする。ウエッ。
「修行、修行・・あー女が欲しい。いかんいかん。修行、修行・・あーラーメン
 喰いてー。いかんいかん。修行、修行・・あーまた糞踏んじまった!えー糞!」
などブツブツ呟きながらバザールの露天見たりネパールの女やヨーロッパ系の
女バックパッカーの尻や胸をチラチラ見ながら放浪する。
2時間程経ち、3軒チェックするがあまりの汚さに(確かに安いのだが)断念。
4軒目にタメル地区の瀟洒なホテルにたどり着いた。幸い空室ありだ。しかも
ロビーに佇むマネージャーがまだ30才位のネパール美女ビジョじゃねーか。
「よーし!」何がよーしかわからねーがとにかくチェックイン。
フロントのイケメンとネパールの女は美しいとか、この辺デンジャラスゾーンは
ないかとか世間話して部屋へ。シャワーですっきりし、ちょっと
ブラブラしよっかなーとフロントにKEYを渡す。すると、イケメンのMr.Suddが
「これからもし、予定がなかったら僕の友人の家に遊びに行きませんか?」
と誘ってきた。ちょっと馴れ馴れしくない?ホモかいな?いやーん。
とも思ったがこれも一人旅のおもろさ、流れにまかせるけど躯はまかせねーぞと
プチ固く誓い、いっしょにホテルを出た。

つづく

*路上解体現場の子供達

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ5<子供達の笑顔>

2005-09-02 | Weblog
長身の校長と名刺を交換し、お互い軽く自己紹介する。
「よく来ました。フクオカは日本のどこにありますか?あなたは何をされてますか?」
「フクオカは日本の西、九州の北に位置します。私はアドバタイジングの仕事を
 しています。」
そんな会話の後、僕はバックからおみやげのステーショナリーを取り出した。
ノート,鉛筆,消しゴム,色鉛筆,鉛筆削りなどが大量に入ったパッケージを手渡す。
空港で両替したルピーを入れた封筒も
「少ないですが、これで子供達が喜ぶ事に使ってください」
校長は受け取ると神妙な顔でポツリと言った。
「実は、昨日、ダライラマ14世が日本へ行きました。そして、今日あなたが来た。
 不思議ですね。ありがとうございます。仏陀に感謝します」
それから来日の記事がでている新聞を見せてくれた。
恐れ多くもあの観世音菩薩の生まれ変わりと言われるダライラマの来日を引き合いに
だされ恐縮したが日本に行っていたことを知る由もなくその偶然にちょっと驚く。
「子供達に逢っていかれませんか?」
「もちろん喜んで」
一気に軽くなったバックを背負い、授業中にも関わらず各教室で紹介され、あの夢の
中にいたような子供達の笑顔にようやくたどり着くことができた。
「Namaste」(こんにちは)と言うと、ニコッと微笑み返してくれ、はにかみながら
「Namaste」と応えてくれた。
 じわっときた。
「Dannya baad」(ありがとう)と僕は小声で呟いた。

つづく

*子供達の笑顔

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ4<チベット難民学校へ>

2005-09-01 | Weblog
トリブヴァン国際空港でドルからルピーに両替後、タクシーで予約していたHOTELに
直行。くそ不味いディナー後、気分転換に温かいシャワータイム。しかし、すぐに
停電になり冷水にちんこもちいちゃくなり震えながら疲れを洗い流す。予想はしていた
が想像以上にネパールのインフラは遅れていた。キャンドルを灯しベッドサイドで座禅
を組み瞑想しながらチベットの歴史に思いを巡らせた。

1950年、突然の中国の侵略、弾圧により国を追われたチベタンは45年たった今でも
ネパール、インドを目指し毎年数千人が亡命を計っている。しかし、ヒマラヤ越えは
子供、女性にはあまりに過酷で凍死者が多数でている。中国はチベット自治区で歴史
的価値がある寺院の約90%以上を破壊、東部では森林伐採が進むが植林さえしない。
さらに過去数十回も核実験を断行、核兵器発射基地まで造ってしまった。教育面でも
チベットの子供の半数は就学できず、差別や虐待、秘密警察による密告と投獄が日常
の風景になっている。チベット仏教の導師、後にノーベル平和賞を受賞した
「ダライラマ14世」の蜂起は武力制圧されやむなく1959年、インドに亡命、
ダラムサラに亡命政府を興しチベタンの最後の希望の地となっている・・・・・・
などなど。中国への怒りが沸くが睡魔に負けいつのまにか寝ちまった。

1995年3月30日、快晴
朝6時に起き、持参した栄養補助食品とスポーツ飲料で簡単な朝食を摂る。
チェックアウト後、旅の第一の目的地「チベット難民学校」を目指し歩き出す。
貧乏旅行なんでタクシーは使わない。バックパッカーの基本、徒歩である。
トホホ・・テクテク歩く。暑い。30度くらいだろうか?突き刺すような紫外線
たっぷりの日差しと異臭(神の化身とされる牛様の糞があちこちに。靴は糞まみれ)
さらには車の排気ガス、鳴り止まないクラクションで息苦しくなる。
しかも、バックは異常に重い。肩にくい込み腰まで痛くなりやがった。
ダルバール広場を経由しゴールデンテンプルでマニ車を回すが、逆に回し僧侶に
怒られ、マハダーボ寺院でお布施し祈りさらに歩き続ける。
「修行。修行・・えーー糞、暑い!」とぶつぶつ呟きながら延々歩き続けた。
2時間程歩いただろうか。
ようやく「チベット難民学校」<PRIMARY SCHOOL>の看板とゲートが
見えてきた。守衛のおじさんに来校の主旨を伝える。
アポなしにも関わらず丁重に学校を案内してくれた。そして校長室に通された。
冷たいチャを頂いていると5分もしないうちに長身の校長(Headmaster)が現れた。

つづく

*カトマンドゥの雑踏