この映画、原作者絲山秋子と本作の脚本家荒井晴彦の間で訴訟があったのをご存知だろうか。本作シナリオを出版するに当たって、「活字として残したくない」という原作者側の申し立てが結果として認められた裁判である。なんとその時の賠償額がたった1円という、映画の内容そのものよりも興味深いゴタゴタがとうもあったらしいのだ。
うつ病の痛いオバサンを演じた寺島しのぶをはじめ、前作『ヴァイブレータ』のスタッフをそのまま持ってきた製作側としては、本作を『ヴァイブレータ』の続編的に描き、二匹目のどじょうを狙うという皮算用が最初からあったはず。に対し、自身のうつ病体験談をベースに書いたデビュー作に作家はかなりの思い入れがあったのではないか。
小説を映画にする以上、当然脚色があってしかるべきなのだが、それが原作者の忍耐を超えるほどまでに改竄されてしまった時、こういう問題が発生しやすい。私はそう思うのである。事前にきっちり契約書で著作権関係はがんじがらめにする現在とは違って、まだ慣例がはばをきかせていた時代だったのである。
では、その“忍耐を超えるほど”の脚色とは一体なんだったのだろう。原作タイトル『イッツ・オンリー・トーク』(未読)から察するに、「単なるオバサンの妄想話だけど、うつに苦しんだのは本当のことなのよ」という作家の想いがかき消された内容のシナリオになっているのではないだろうか。
そもそも蒲田の痴漢おじさん、EDの大学同級生、離婚秒読みのいとこ、獣医の彼女がいるヤクザに囲まれモテモテ状態の薬ずけオバサンなどいるわけがない。都合が良すぎるのである。自分に興味を持ってもらうために、両親や友人が阪神淡路大震災や9.11で死んだと平気で嘘をつく痛いオバサンである。普通の男だったら真っ先に敬遠するタイプであろう。
つまり、そんな幻覚おばさんの妄想をリアルな出来事として演出したがために、この映画はとてつもなく甘ったるい虚弱な作品になりはててしまっているのである。オゾンやリンチならばまちがいなく、街中で見かけた男たちを勝手に自分の恋人に仕立て上げてしまう女の“痛さ”をテーマに夢落ちにしたと思われるのだが…どうだろう。
やわらかい生活
監督 廣木隆一(2005年)
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