ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

ハウルの動く城

2018年08月11日 | なつかシネマ篇

引退発表の席で、唯一「トゲのように心に突き刺さっている」作品がこの『ハウルの動く城』だと語っていた宮崎駿。当初、ジブリに憧れていた細田守を監督に招きいれて制作が進行していたものの途中降板、宮崎駿が監督を引き継いでおそらくゼロから作り直した因縁つきのアニメだ。

原因は宮崎の細田に対する嫉妬とも、細田の家庭事情(母親の発症)ともいわれているが、本当のところはよくわからない。「ゲーム的(ジブリらしい)ドラマがない」とデジタル肯定派の細田バージョンを遠回しに宮崎駿が批判したとか、しないとか。いずれにしても王様がお気に召さなかったのだから仕方がない。

「美しくなければ意味がない」外見重視の軽薄男子ハウルは女子にモテモテの魔法使い。ハウルの心臓をつけ狙う荒れ地の魔女に魔法をかけられ90歳の老婆になってしまったソフィーが、ハウルとある契約をかわした悪魔カルシファーが動かすお城に、カブ頭の案山子に導かれ掃除婦として転がりこむのだが…

地味ーな女子がモテ男のハートを魔法なしでつかむダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作に沿った映画前半は、お子さまと見ても充分楽しめるいつものジブリアニメーション。しかし、宮崎がプロデューサーの鈴木に「収拾がつかなくなった」と泣きついた映画後半は、シナリオ的に破綻をきたしている。

細田に喧嘩を売った手前引っ込みがつかなくなった駿先生、こともあろうにファンタジックなラブストーリーに、“老いの肯定”と“反戦”という重ーいテーマを2つもねじこんだのだ。そもそもソフィー、サリマン、荒れ地の魔女という3ババによるハウルのハート争奪戦がどこぞの戦争を極大化させている原因になっているにもかかわらず、その因果律を無視したエンディングにはジブリファンのお子さまだって納得しかねるだろう。

城に集ったソフィーや仲間を守るため、ライザップよりTBCがお似合いの弱虫ハウルがデビルマンに変身して参戦した時点で、もはやストーリー的にもQED。老人たちの見栄やプライドのため若者が戦争に駆り出されるのは、何も西部戦線にかぎったことではなく、一見平和そうにみえる日本の会社でも日常茶飯事だ。本作における犠牲者がたまたまハウルと細田守だったというだけなのである。

ハウルの動く城
監督 宮崎駿(2004年)
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