ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

ノーストリリア

2018年06月24日 | 映画評じゃないけど篇


『スキャナーに生きがいはない』&『アルファラルファ通り』におさめられている短編の登場人物が大集合。たった1枚の切手を入手するため、地球をまるごと買い取ってしまったロッド青年の物語は、混じりっ気なしのスミス印作品だ。

読みながら気になることが。はたして本長編が先なのか、それとも『スキャナーに生きがいはない』&『アルファラルファ通り』におさめられた短編の後に本長編が書かれたのか。そんな疑問がふと頭をもたげたのである。

後書きを読むと、コードウェイナー・スミスの頭の中では人類補完機構が統治する宇宙の全体像がすでにできあがっており、どちらが先に書かれたのかという問題はあまり意味をなさないそうなのだ。

なるほど、キャラクターが各々同時並行的に主人公ロッド青年に絡んでいく構成は、一方の物語を書いている時点ですでにもう一方の物語ができていないと、とてもとても整合性などとれようはずもなく、後から取って付けたようなわざとらしさも見当たらない。

ロッド・マクバン151世の莫大な財産をめぐって、生命もろとも奪い盗ろうと画策する悪人たち、その生命を守る愛すべき下級民たち、(本当はその財産目的なのかもしれないが)人生金じゃないよとロッド青年に説く賢人たちが、細大もらさず物語の中で生き生きと躍動しているのである。

現代社会との共通項をここで述べてもシラけるだけというのは分かってはいるが、スミス作品を読むたびにふと心に浮かぶもう一つの疑問がある。もしかしたら我々人間はみな、主人(真人)を失った下級民の末裔ではないのだろうかと。

遠い昔にその目的を果し終え、主人に見捨てられたままマンホームに放置され、ただただ数を増やすため繁殖を続けている人間を含む地球生物たち。一応支配機構なる組織は存在するものの、所詮同類の中におけるドングリの背比べ。「人間の再発見」はおろか、輪廻のごとき堂々巡りのはてに精神は放棄されていくのである。

「人間は、怖じ気づいたり退屈したとき邪悪になる。幸福でいそがしくしているときは善良になる。」  イ・テレケリ

ノーストリリア
著者 コードウェイナー・スミス
(ハヤカワ文庫SF)
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