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とにかくせっかちな郵便局窓口のシャオチーが、失われた七夕バレンタインデーを探し求める映画前半は、やっすい韓国ラブコメと大差がなく、こりゃ感想スルーかなってな軽い気持ちで眺めていた。だが、バス運転手グアダイの目線で語られる後半に入ってからの展開は、前半とはまったくの別物に変化する掘り出し物の1本である。
きけば監督のチェン・ユーシュンは、台湾ではエドワード・ヤンやホウ・シャオシェンと並ぶほど有名な人らしく、台湾ニューシネマの一翼をになう映画監督として期待された人だったそうだ。商業作品としては前作から20年以上の時を経て発表された本作、映画監督としてはかなりテンポの遅いチェン・ユーシュンがB面の主人公グアダイに自己を投影した作品なのかもしれない。
“1秒早いまたは1秒遅い”を映像で表現するとどうなるのか。シャオチーとグアダイの動きは逆なのでは?などといういらぬ突っ込みもあるようだが、同じ長さの映画を倍速でみたりスローでみたりすることを考えれば本作の表現で当っている気がする。通常の人の1分を61秒で生きているシャオチーは、倍速で動いている人と同じで、その分常人より詰め込まれた動きをするのは当然なのである。
後半、今までの貯金の利息という形で“オマケ”の1日をプレゼントされるグアダイ。周囲がフリーズしている中、一人だけ自由な動きを許されるグアダイが思いついたことは.....マネキン状態のシャオチーの手足を曲げて一緒に記念写真を撮るシーンなどは、『フローズン・タイム』というよりはフォン・トリアーの猟奇コメディ『ハウス・ジャック・ビルド』をつい思い出したのである。
チェン・ユーシュン曰く、グアダイがジャックのような変態男に見えないよう大変気をつかったと語っていたが、概ね成功しているといえるだろう。さて問題は、ラストシーンの舞台として「不思議な雰囲気を出せる場所」を選んだと監督が語っていた点である。もしも本作が見たまんまのハッピーエンドだったらノーマルな見せ方で十分だったはずなのだ。
映画中盤で登場するシャオチーの失踪親父が、どこぞから現れた僧侶の運転するスクーターに二人のりで退場するシークエンスが(作中のフローズン・タイムにもまして)シュールであり、一説によるとこの親父すでに死んでいた幽霊との解釈をする方もいるようなのだ。それを伏線ととらえるならば、ラストシーンで窓口に現れたグアダイもやはり交通事故にあって死んでしまっていたのではないだろうか。
シャオチーとのお別れのシーンで「再見」と告げるグアダイの表情に悲壮感が漂っており、再見シーンではシャオチーに「(手紙は)天使宛じゃないのね」と非常に意味深な突っ込みをされるグアダイ。“死”の臭いがプンプンと発っせられている、エンドロールで流れる英語の歌詞こそその決め手といえはしまいか。それは、事故にあってちょうど1年後の七夕の日に、生死を分けへだてる天の川をわたって織女(シャオチー)に会いにやって来た牽牛(グアダイ)の姿だったのかもしれない。
1秒先の彼女
監督 チェン・ユーシュン(2021年)
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