TAZUKO多鶴子

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『吉川英治』の言霊

2009-06-14 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『 ひとの生命を愛せない者に、
    自分の生命を愛せるわけはない。 』

 この言葉は
 宮本武蔵の小説で有名な 吉川英治の名言です。
 今日は小説家『吉川英治』の『宮本武蔵』の小説から
 多くの人々に感動を与えた言葉をご紹介します。
 下記の深い言霊をご覧下さい。



 『 波騒(なみざい)は

       世の常である。

   波にまかせて、
   泳ぎ上手に、
       雑魚は歌い
       雑魚は踊る。

   けれど、

   誰か知ろう、

   百尺下の水の心を。

        水の深さを。 』

    …… 吉川英治『宮本武蔵』より……

<吉川英治>
吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年)8月11日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生れ。
*生い立ち *
1892年8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっているが、地名としては中村根岸はなく旧地名で中村町と推定され現在の横浜市中区山元町に当たる。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出され、横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、刑務所に入れられ出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。
山内尋常高等小学校に入学。当時騎手の馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の雑誌『少年』に作文が入選した。家運が衰えたのはこのころで、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳のとき、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。
*『宮本武蔵』の誕生*
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、国民文学作家とされる。


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