TAZUKO多鶴子

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『青山二郎』以上の人物はいない…と今日も思う。

2010-07-10 | TAZUKO多鶴子からの伝言
TAZUKO多鶴子は多くの人々に出会い
多くの人々と語り
多くの歴史上に残る有名な人々の言葉を読み
それでも、やはり、何度も何度も感じます。
『青山二郎』以上の人物はいないと。
芸術の本質を観抜き、
感じ、
そして人物を観抜き、
もの言わぬ物までも観抜く
青山二郎の『眼』!
『青山二郎』を理解出来ないと芸術は理解出来ない。
そのように強く確信しているのです。
日本だけで無く世界の現代人に
はたしてどれだけそれを分かる人物がいるのでしょうか?
理解出来る人々が沢山いるのであれば
このような時代になっていないのではないか…。
そのように
何度考えても、思い…感じるのです。

<青山二郎>
ジイちゃんこと青山二郎は昭和54年3月27日に死んだ。青山の名があるところ、必然のように「高級な友情」に繋がった小林秀雄、師弟として繋がった白洲正子の名があった。小林は言う、「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と。「人が覗たれば蛙に化れ」という青山の言葉、俺だけがこの器の良さをわかる。人は蛙と見てくれればいい。外観に惑わされず、本物の中の本物を発掘するのが青山二郎の志したことと、青山の至福を白洲正子は観じる。死んだ人間の知ったことではなかろうが、「何もしなかった天才」の死こそ、「残念これに過ぎたるものはない。」

小林秀雄がようやく世にでたころ、中原中也、河上徹太郎、大岡昇平、永井龍男などはまだ無名、のち「青山学院」と称すようになる希有な才能のサロンの中心に青山二郎はいた。人物評に長けた河上が記した「色白の、愛嬌のある顔をそのまま端正に磨きあげて、眼の光だけは鋭く、純真率直故に、人の嘘や気取りは誤りなく見抜く、といった風、およそ粋だとか通だとかいったこととは反対の傍若無人の天才」


1901年-1979年。古陶磁器研究家、装丁家、評論家。東京市麻布区(東京都港区)の大地主の家に生まれる。生家は徳川家に重臣として仕えた青山家。浜田庄司、柳宗悦などと日本民芸運動の設立に関わるが、後にしりぞく。弟子・友人は数多く、北大路魯山人、中原中也、河上徹太郎、三好達治、中村光夫、宇野千代、大岡昇平、白洲正子など輝かしいメンバーとの交友は、後年「青山学校」とまでいわれた。特に関係の深かった小林秀雄は「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と語った程(後に絶交)。戦前から戦後にかけて古美術・骨董の世界を中心に、日本的な美学の形成にきわめて大きな影響をもたらした。

彼の残した数少ないエッセイや美術評論は、身も蓋もないが、また他に比類のない個性がある。一般に悪文として知られるが、見えすぎる目を持つことの狂気、ものいわぬモノが語り出す旋律と戦慄が共存するギリギリの美の世界。比類なき面白さと贅沢。

参考資料:はてなキーワード 等