小林秀雄、梅原龍三郎らが絶賛する絵画
『富岡鉄斎』(1836~1924年)
「最後の文人画家」と呼ばれる『富岡鉄斎』であるが
学者(儒者)が本職だと自称し、
絵画は余技である事を生涯貫く。
そして彼は画工と見られる事を嫌った。
「文人にとって最も重要なものは読書である。
書を読む事は、
博学多識になるばかりでなく、
古人の心にふれ、
自ら俗の部分をそぎ落とす行為に他ならない。
絵を描く主体である自分の人生(人格)を高めることこそが
文人の目指す理想の境地である。」
「自分は決して意味の無い絵は描かない」
「自分の絵をみる時は賛文を読んでくれ
(専門の画家が描いたものと区別してくれ)」
「絵は金にすべきものでは無いが、私は女子供を養わねばならぬ」
の言葉が口癖であったという。
富岡鉄斎は多くの展覧会の審査員になったが
自らは一般の展覧会に出品することはなかった。
その生き方にTAZUKO多鶴子は多くを学ぶ。
そして奥深い意味を観じる。
『富岡鉄斎』は京都に生まれ
石上神社、大鳥神社の宮司などを勤め
古社の復興などに尽力した一面と同時に絵の勉強をした。
89歳で没するまでに一万点以上の作品を描き
独自の境地を築きあげた。
幼少の頃の病気がもとで
耳が不自由であったが勉学に励み
儒学、国学、勤王思想、敬神思想、漢学、陽明学、
詩文、薫陶、南画、大和絵、などを学ぶ。
「鉄斎が鉄斎になりきったのは80歳を越してからである」
と小高氏の結論。
そして
「口の悪いので有名な横山大観も、
さすがに鉄斎については沈黙を守ると云う」
この文面は
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』に載っているのだが
更に青山二郎は云う、
「鉄斎の耳は、
南画家が世間を茶にして静寂を手に入れた、
その鋭い耳には及ばないかも知れません。
例えば静寂というものを知らない、
騒がしい耳かもしれません。
…昔の無声映画はそうだった。
…ひらひらした魂が無意識にじッと眼を捉えた先に、
…自然は人の心が顔に出るように、彼の前に姿を現すのでありました。
人の眼に静寂な古画が、彼を興奮させるのでした。
何故なら静に化粧された名画の奥には、
ただならぬ自然が捕らえられていたからです。
鉄斎の耳は、それはそれは良く見える耳で、
眼はいらなかったのです。
彼は手探りで描きました。
我々は鉄斎の画から色々な音を聞きます。
ざわざわ、さらさら、ぽちゃぽちゃ、
如何にも自然の中からの賑やかな楽しげな音です。
それは一見微笑を禁じ得ない、楽天的なものです。
苛立たしかった彼の一生は、何一つ不吉に感じることが出来ません。」
耳の不自由な富岡鉄斎の画に青山二郎はこのような感想を述べている。
天才青山二郎の心に響く
『富岡鉄斎』の生涯と作品に
私は多くを教えられ奥深い意味を学ぶ。
『青山二郎の言葉』と『富岡鉄斎の生涯と作品』
を深い心でどうか観じて下さい。
参考資料:
「青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート」
清荒神清澄寺のホームページ
(財)布施美術館名品展
フリー百科事典『ウィキペディア』
『富岡鉄斎』(1836~1924年)
「最後の文人画家」と呼ばれる『富岡鉄斎』であるが
学者(儒者)が本職だと自称し、
絵画は余技である事を生涯貫く。
そして彼は画工と見られる事を嫌った。
「文人にとって最も重要なものは読書である。
書を読む事は、
博学多識になるばかりでなく、
古人の心にふれ、
自ら俗の部分をそぎ落とす行為に他ならない。
絵を描く主体である自分の人生(人格)を高めることこそが
文人の目指す理想の境地である。」
「自分は決して意味の無い絵は描かない」
「自分の絵をみる時は賛文を読んでくれ
(専門の画家が描いたものと区別してくれ)」
「絵は金にすべきものでは無いが、私は女子供を養わねばならぬ」
の言葉が口癖であったという。
富岡鉄斎は多くの展覧会の審査員になったが
自らは一般の展覧会に出品することはなかった。
その生き方にTAZUKO多鶴子は多くを学ぶ。
そして奥深い意味を観じる。
『富岡鉄斎』は京都に生まれ
石上神社、大鳥神社の宮司などを勤め
古社の復興などに尽力した一面と同時に絵の勉強をした。
89歳で没するまでに一万点以上の作品を描き
独自の境地を築きあげた。
幼少の頃の病気がもとで
耳が不自由であったが勉学に励み
儒学、国学、勤王思想、敬神思想、漢学、陽明学、
詩文、薫陶、南画、大和絵、などを学ぶ。
「鉄斎が鉄斎になりきったのは80歳を越してからである」
と小高氏の結論。
そして
「口の悪いので有名な横山大観も、
さすがに鉄斎については沈黙を守ると云う」
この文面は
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』に載っているのだが
更に青山二郎は云う、
「鉄斎の耳は、
南画家が世間を茶にして静寂を手に入れた、
その鋭い耳には及ばないかも知れません。
例えば静寂というものを知らない、
騒がしい耳かもしれません。
…昔の無声映画はそうだった。
…ひらひらした魂が無意識にじッと眼を捉えた先に、
…自然は人の心が顔に出るように、彼の前に姿を現すのでありました。
人の眼に静寂な古画が、彼を興奮させるのでした。
何故なら静に化粧された名画の奥には、
ただならぬ自然が捕らえられていたからです。
鉄斎の耳は、それはそれは良く見える耳で、
眼はいらなかったのです。
彼は手探りで描きました。
我々は鉄斎の画から色々な音を聞きます。
ざわざわ、さらさら、ぽちゃぽちゃ、
如何にも自然の中からの賑やかな楽しげな音です。
それは一見微笑を禁じ得ない、楽天的なものです。
苛立たしかった彼の一生は、何一つ不吉に感じることが出来ません。」
耳の不自由な富岡鉄斎の画に青山二郎はこのような感想を述べている。
天才青山二郎の心に響く
『富岡鉄斎』の生涯と作品に
私は多くを教えられ奥深い意味を学ぶ。
『青山二郎の言葉』と『富岡鉄斎の生涯と作品』
を深い心でどうか観じて下さい。
参考資料:
「青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート」
清荒神清澄寺のホームページ
(財)布施美術館名品展
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