新聞メデイアの凋落の主体は朝日新聞なのか、朝日新聞も含むメデイア全体が凋落しているのか、恐らくは全体に生じた現象である。
既成メデイアの大部分は、ネットにその座を明け渡す雰囲気である。
戦後の言論界を為してきたメデイアが崩壊の危機に瀕している。
なんとも喜ばしいことではないか。
【マスコミ】新聞の凋落が止まらない…なんと総計1000万部減!新聞はやっぱり「消えるメディア」なのか?★6©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1452299698/
1 :いちごパンツちゃん ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/01/09(土) 09:34:58.29 ID:CAP_USER*
日本の新聞の凋落が止まらない。
日本新聞協会が集計した2015年10月時点での新聞の総発行部数(一般紙とスポーツ紙の合計)は
4424万部と1年前に比べて111万部も減少した。
ピークは1997年の5376万部だったから、18年で950万部減ったことになる。
日本最大の発行部数を誇る読売新聞が一紙丸ごと消えたのと同じ減少である。
部数の減少はまさに「つるべ落とし」だ。
2000年から2005年までの5年間の減少部数は114万部だったが、2005年から2010年の5年間では324万部、
2010年から2015年の5年では508万部も減った。今年中に、ピークから1000万部減になるのは確実だが、
下げ止まる気配はまったくみえない。
なぜ、新聞が読まれなくなったのか。改めて言うまでもないが、人々の情報の取り方に劇的な変化が起きたことが大きい。
新聞の「紙」という優位性がインターネットの登場によって急速に失われていったのだ。
新聞がピークを付けた翌年の1998年に米グーグル設立され、2002年にはブログが急拡大、
2006年ごろからツイッターやフェイスブックといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が急速に普及した。
このころから新聞の発行部数の急落が始まったのは決して偶然ではない。
2010年以降、スマートフォンが普及し始めると、新聞の部数減少の傾向に拍車がかかった。
ここで「紙」を上回る利便性を持った「ツール」が登場したとみていいだろう。
ツールがどんどん進化し続ける中で、新聞の優位性はどんどん後退しているのだ。
「新聞を広げて読むと他のお客様のご迷惑になりますのでおやめください」
そんな車内アナウンスが行われるようになったのはいつごろからだろう。
かつて、朝の通勤風景と言えば、新聞を読みながらというのが当たり前だったが、
今では手のひらに乗る携帯電話より大きいものを拡げるのが「迷惑」というメンタリティに大きく変わった。
ツールとして「邪魔」、「不便」と感じられているのだ。
始まって以来の危機
筆者が新聞社を辞めて5年になるが、インターネットがどんどん普及しても新聞社内には危機感は乏しかった。
10年くらい前まで、「紙は一覧性があって便利だから絶対に滅びない」という主張が大勢を占めていた。
コンテンツつまり新聞の中味も大事だが、それ以上にニュースを届けるまでの新聞というツールの形に
圧倒的な優位性があると、当時の経営陣は信じていたのだろう。
一気に大量の新聞を印刷する高速輪転機や、各家庭を末端で掌握する新聞販売店網に強さがあるというわけである。
輪転機や販売店網は誰でも簡単に持てないから、基本的に新規参入のない業界である。
その新聞の「ツール」としての優位性が、スマートフォンなどの登場で一気に瓦解したのだ。
今後5年をみても新聞紙は進化の遂げようがないが、スマートフォンなどのツールは今後も形を変えてより便利になっていくに違いない。
新聞の部数自体はさらに減少が続くことになるだろう。
新聞はその歴史が始って以来の危機を迎えていると言っても過言ではない。
それは新聞が生まれた「きっかけ」を考えてみれば、一目瞭然だ。
以下ソース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160106-00047271-gendaibiz-bus_all
2016/01/07(木) 10:50:44.78
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1452211356/
2014.11.25 05:01更新
【正論】
朝日新聞の凋落の始まりと黄昏迫る「戦後民主主義」の虚妄 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
http://www.sankei.com/column/news/141125/clm1411250001-n1.html
昨今の朝日新聞の一連の問題は、「戦後民主主義」中で「偶像」とされてきたものが、実は「贋(にせ)の偶像」であったことを暴露するものであった。
来年は、戦後70年の節目である。これを機に「戦後民主主義」の虚妄が問い直されなければならないが、それを予告するかのように、朝日新聞の凋落(ちょうらく)が始まったのは、単なる偶然とは思われない。
やはり、歴史の審判はあるのであり、戦後69年の長きにわたって、日本人の思考を巧妙に支配してきたメディアは没落する運命にある。日本人の目からは、戦 後になってからくっつけられた鱗(うろこ)が落ちつつある。そして、日本人の再生した目には、新鮮な本来の日本が見えてきているのである。
≪「贋の偶像」が作られた時代≫
ドイツの哲学者・ニーチェは『偶像の黄昏』を著したが、今後の日本に起きて来るであろうことは、「贋の偶像」の黄昏である。
「戦後民主主義」の欺瞞(ぎまん)を日本人の精神に浸透させてきたメディアの没落は、「戦後民主主義」が持ち上げてきた「贋の偶像」の黄昏をもたらすはずだからである。
思えば、戦後の日本という進歩的事大主義が幅をきかせていた時代は、「贋の偶像」が数多く作り上げられた時代でもあった。
文芸評論家・中村光夫の小説に『贋の偶像』という長篇がある。明治の文学者・長田秋濤を扱った伝記体小説である。秋濤という生前はかなりの名声を得ていた文学者を「贋の偶像」として描いている。
明治33年の週刊誌『太平洋』に載った「文士内閣大見立」によると、秋濤は尾崎紅葉の大蔵大臣、坪内逍遥の文部大臣、幸田露伴の海軍大臣などと並んで、外務大臣に擬せられているほどである。しかし、秋濤は、中村にいわせれば「贋の偶像」にすぎなかった。
朝日新聞をはじめとする進歩的事大主義によって権威づけられた「贋の偶像」が、現在もまだ、政治、経済、思想、文学、絵画、音楽などの領域で、贋物 性が隠蔽(いんぺい)されたまま生きながらえている例が少なくあるまい。朝日新聞の虚構の権威が崩れ去ってみれば、「贋の偶像」たちには黄昏が迫ってきて いるわけである。
≪「配給された」個人主義≫
人間の評価に も、戦後的な歪(ゆが)みが広く行きわたっていた。「戦後民主主義」に適合した人物を持ち上げることになっていたからである。陸軍の軍医総監の森鴎外より も、朝日新聞社員の夏目漱石の方が千円札の肖像になる。童謡「赤とんぼ」の山田耕筰の方が「海ゆかば」の信時潔より有名である。軍神・広瀬武夫を歌った文 部省唱歌「広瀬中佐」も今やそれを知る日本人は稀(まれ)であろう。同じ軍神・乃木大将よりも、児玉源太郎の方が功績があったようにいわれる。
このような人間の真贋(しんがん)が分からなくなってしまった人物評価をはじめとする戦後的な価値観を、今回の「戦後民主主義」を支えたメディアの黄昏を機に終焉(しゅうえん)させなければならないであろう。
では、その戦後的な価値観とは何か。河上徹太郎は「配給された自由」といういい方で敗戦後の日本の在り方を批判したが、中村は『明治・大正・昭和』の中で「個人主義」が「敗戦という事実によって、いきなり人々の間に普及してしまった」と指摘している。
占領軍によって「配給された」個人主義にすぎないといっているわけである。占領下に「配給された」憲法の下で「自由」や「個人主義」を外発的に与えられた 日本人は、結局戦後70年ほどたって精神の内発性を失い、今日の如(ごと)く肥大化した「自由」や「個人主義」に押しつぶされているのである。
≪真の保守としての他者実現≫
このような精神の自立とは無縁な「自由」や「個人主義」を喧伝(けんでん)してきたのが、進歩的事大主義のマスメディアであるが、その言説がやむとき、新しい日本が出現するであろう。その暁に、日本人はどのような人間として世界に立っていなければならないか。
5月に亡くなった名編集者・粕谷一希氏は、宗教哲学者・波多野精一の『時と永遠』が愛読書であったが、波多野哲学について「人格の成長・発展こそ 人生究極の目標であるとする近代の個人主義的人格主義に、薄い膜が張ったように納得できなかったのは、まさに愛の世界・愛の行為としての他者実現が視野に 入っていないからであった。人間の活動として、自己実現としての文化(自我)の世界よりも、愛としての他者実現の方が重い価値をもつことを明言した波多野 哲学と出合って、私はある安らぎを初めて感じたのであった」と書いている。
戦後とは、この「自己実現」がほとんど無前提によいこととされた時代であった。「戦後民主主義」が問い直されるとは、人間の欲望としての「自己実現」から転向し「他者実現」の「重い価値」に気がつくことに他ならない。
これから保守の反撃が起きて来るであろうが、真の保守とは「他者実現」の保守でなければならない。そういう保守が、求められるべき保守の品格を持つのである。(しんぽ ゆうじ)
既成メデイアの大部分は、ネットにその座を明け渡す雰囲気である。
戦後の言論界を為してきたメデイアが崩壊の危機に瀕している。
なんとも喜ばしいことではないか。
【マスコミ】新聞の凋落が止まらない…なんと総計1000万部減!新聞はやっぱり「消えるメディア」なのか?★6©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1452299698/
1 :いちごパンツちゃん ★ 転載ダメ©2ch.net:2016/01/09(土) 09:34:58.29 ID:CAP_USER*
日本の新聞の凋落が止まらない。
日本新聞協会が集計した2015年10月時点での新聞の総発行部数(一般紙とスポーツ紙の合計)は
4424万部と1年前に比べて111万部も減少した。
ピークは1997年の5376万部だったから、18年で950万部減ったことになる。
日本最大の発行部数を誇る読売新聞が一紙丸ごと消えたのと同じ減少である。
部数の減少はまさに「つるべ落とし」だ。
2000年から2005年までの5年間の減少部数は114万部だったが、2005年から2010年の5年間では324万部、
2010年から2015年の5年では508万部も減った。今年中に、ピークから1000万部減になるのは確実だが、
下げ止まる気配はまったくみえない。
なぜ、新聞が読まれなくなったのか。改めて言うまでもないが、人々の情報の取り方に劇的な変化が起きたことが大きい。
新聞の「紙」という優位性がインターネットの登場によって急速に失われていったのだ。
新聞がピークを付けた翌年の1998年に米グーグル設立され、2002年にはブログが急拡大、
2006年ごろからツイッターやフェイスブックといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が急速に普及した。
このころから新聞の発行部数の急落が始まったのは決して偶然ではない。
2010年以降、スマートフォンが普及し始めると、新聞の部数減少の傾向に拍車がかかった。
ここで「紙」を上回る利便性を持った「ツール」が登場したとみていいだろう。
ツールがどんどん進化し続ける中で、新聞の優位性はどんどん後退しているのだ。
「新聞を広げて読むと他のお客様のご迷惑になりますのでおやめください」
そんな車内アナウンスが行われるようになったのはいつごろからだろう。
かつて、朝の通勤風景と言えば、新聞を読みながらというのが当たり前だったが、
今では手のひらに乗る携帯電話より大きいものを拡げるのが「迷惑」というメンタリティに大きく変わった。
ツールとして「邪魔」、「不便」と感じられているのだ。
始まって以来の危機
筆者が新聞社を辞めて5年になるが、インターネットがどんどん普及しても新聞社内には危機感は乏しかった。
10年くらい前まで、「紙は一覧性があって便利だから絶対に滅びない」という主張が大勢を占めていた。
コンテンツつまり新聞の中味も大事だが、それ以上にニュースを届けるまでの新聞というツールの形に
圧倒的な優位性があると、当時の経営陣は信じていたのだろう。
一気に大量の新聞を印刷する高速輪転機や、各家庭を末端で掌握する新聞販売店網に強さがあるというわけである。
輪転機や販売店網は誰でも簡単に持てないから、基本的に新規参入のない業界である。
その新聞の「ツール」としての優位性が、スマートフォンなどの登場で一気に瓦解したのだ。
今後5年をみても新聞紙は進化の遂げようがないが、スマートフォンなどのツールは今後も形を変えてより便利になっていくに違いない。
新聞の部数自体はさらに減少が続くことになるだろう。
新聞はその歴史が始って以来の危機を迎えていると言っても過言ではない。
それは新聞が生まれた「きっかけ」を考えてみれば、一目瞭然だ。
以下ソース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160106-00047271-gendaibiz-bus_all
2016/01/07(木) 10:50:44.78
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1452211356/
2014.11.25 05:01更新
【正論】
朝日新聞の凋落の始まりと黄昏迫る「戦後民主主義」の虚妄 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
http://www.sankei.com/column/news/141125/clm1411250001-n1.html
昨今の朝日新聞の一連の問題は、「戦後民主主義」中で「偶像」とされてきたものが、実は「贋(にせ)の偶像」であったことを暴露するものであった。
来年は、戦後70年の節目である。これを機に「戦後民主主義」の虚妄が問い直されなければならないが、それを予告するかのように、朝日新聞の凋落(ちょうらく)が始まったのは、単なる偶然とは思われない。
やはり、歴史の審判はあるのであり、戦後69年の長きにわたって、日本人の思考を巧妙に支配してきたメディアは没落する運命にある。日本人の目からは、戦 後になってからくっつけられた鱗(うろこ)が落ちつつある。そして、日本人の再生した目には、新鮮な本来の日本が見えてきているのである。
≪「贋の偶像」が作られた時代≫
ドイツの哲学者・ニーチェは『偶像の黄昏』を著したが、今後の日本に起きて来るであろうことは、「贋の偶像」の黄昏である。
「戦後民主主義」の欺瞞(ぎまん)を日本人の精神に浸透させてきたメディアの没落は、「戦後民主主義」が持ち上げてきた「贋の偶像」の黄昏をもたらすはずだからである。
思えば、戦後の日本という進歩的事大主義が幅をきかせていた時代は、「贋の偶像」が数多く作り上げられた時代でもあった。
文芸評論家・中村光夫の小説に『贋の偶像』という長篇がある。明治の文学者・長田秋濤を扱った伝記体小説である。秋濤という生前はかなりの名声を得ていた文学者を「贋の偶像」として描いている。
明治33年の週刊誌『太平洋』に載った「文士内閣大見立」によると、秋濤は尾崎紅葉の大蔵大臣、坪内逍遥の文部大臣、幸田露伴の海軍大臣などと並んで、外務大臣に擬せられているほどである。しかし、秋濤は、中村にいわせれば「贋の偶像」にすぎなかった。
朝日新聞をはじめとする進歩的事大主義によって権威づけられた「贋の偶像」が、現在もまだ、政治、経済、思想、文学、絵画、音楽などの領域で、贋物 性が隠蔽(いんぺい)されたまま生きながらえている例が少なくあるまい。朝日新聞の虚構の権威が崩れ去ってみれば、「贋の偶像」たちには黄昏が迫ってきて いるわけである。
≪「配給された」個人主義≫
人間の評価に も、戦後的な歪(ゆが)みが広く行きわたっていた。「戦後民主主義」に適合した人物を持ち上げることになっていたからである。陸軍の軍医総監の森鴎外より も、朝日新聞社員の夏目漱石の方が千円札の肖像になる。童謡「赤とんぼ」の山田耕筰の方が「海ゆかば」の信時潔より有名である。軍神・広瀬武夫を歌った文 部省唱歌「広瀬中佐」も今やそれを知る日本人は稀(まれ)であろう。同じ軍神・乃木大将よりも、児玉源太郎の方が功績があったようにいわれる。
このような人間の真贋(しんがん)が分からなくなってしまった人物評価をはじめとする戦後的な価値観を、今回の「戦後民主主義」を支えたメディアの黄昏を機に終焉(しゅうえん)させなければならないであろう。
では、その戦後的な価値観とは何か。河上徹太郎は「配給された自由」といういい方で敗戦後の日本の在り方を批判したが、中村は『明治・大正・昭和』の中で「個人主義」が「敗戦という事実によって、いきなり人々の間に普及してしまった」と指摘している。
占領軍によって「配給された」個人主義にすぎないといっているわけである。占領下に「配給された」憲法の下で「自由」や「個人主義」を外発的に与えられた 日本人は、結局戦後70年ほどたって精神の内発性を失い、今日の如(ごと)く肥大化した「自由」や「個人主義」に押しつぶされているのである。
≪真の保守としての他者実現≫
このような精神の自立とは無縁な「自由」や「個人主義」を喧伝(けんでん)してきたのが、進歩的事大主義のマスメディアであるが、その言説がやむとき、新しい日本が出現するであろう。その暁に、日本人はどのような人間として世界に立っていなければならないか。
5月に亡くなった名編集者・粕谷一希氏は、宗教哲学者・波多野精一の『時と永遠』が愛読書であったが、波多野哲学について「人格の成長・発展こそ 人生究極の目標であるとする近代の個人主義的人格主義に、薄い膜が張ったように納得できなかったのは、まさに愛の世界・愛の行為としての他者実現が視野に 入っていないからであった。人間の活動として、自己実現としての文化(自我)の世界よりも、愛としての他者実現の方が重い価値をもつことを明言した波多野 哲学と出合って、私はある安らぎを初めて感じたのであった」と書いている。
戦後とは、この「自己実現」がほとんど無前提によいこととされた時代であった。「戦後民主主義」が問い直されるとは、人間の欲望としての「自己実現」から転向し「他者実現」の「重い価値」に気がつくことに他ならない。
これから保守の反撃が起きて来るであろうが、真の保守とは「他者実現」の保守でなければならない。そういう保守が、求められるべき保守の品格を持つのである。(しんぽ ゆうじ)