ポーランド孤児を救え!~日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい
2014年02月14日 公開
兵頭長雄(元ポーランド大使)
http://shuchi.php.co.jp/article/1812
《『歴史街道』2014年3月号より》
日本の方に感謝の想いを伝えたい……孤児たちの熱い涙が語るもの
なぜ日本に特別な好意を示してくれるのか
「ポーランド」といわれて、皆さんは何を思い浮かべられるでしょうか。多くの日本人がまず思い浮かべるのは、ピアノの詩人と呼ばれる作曲家、フレデリッ ク・ショパンの美しい調べかもしれません。キュリー夫人やコペルニクスを思い起こす方もいらっしゃるでしょう。しかし、その他のイメージはといえば、チェ コやスロバキア、ハンガリーなどの東欧諸国と重なってしまうかもしれません。
ところが、ポーランドを訪れてこの国を知れば知るほど、この国の人々の日本への好意が、他の国とは違うものであることを随所で実感し、思わず胸打たれることになるはずです。
私は、昭和36年(1961)に外務省に入省。平成2年(1990)に欧亜局長に任じられた後、平成5年(1993)から4年間ポーランド大使を務めま した。それまでも様々な国々での仕事を経験していましたが、私にとってポーランドは「特別な国」となりました。その理由をひと言でいえば、やはり、ポーラ ンドの人々が日本に寄せてくださっている熱い想いに間近に接したから、ということに尽きます。
なぜポーランドの人々は、それほどまでに日本に好意を抱いてくれるのか。その背景には「歴史」があります。
地図を見ればわかりますが、ポーランドは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアというヨーロッパの強国に囲まれた国です。1772年、1793 年、1795年には、これらの国々の勢力争いの中でポーランドは分割され、遂には国家自体が消滅する事態に立ち至ってしまいます(ちなみにポーランドが独 立を回復したのは第一次世界大戦後の1918年のことです)。このような屈従の歴史に虐げられてきたポーランド人にとって、自らを支配するロシアを極東の 小国・日本が打ち破ったことは、あまりに衝撃的な出来事でした。
そしてもう1つ、ポーランド人の心を揺さぶる大きな出来事がありました。それが、ロシア革命後の混乱の中、シベリアの地で苦境に陥っていたポーランド人の孤児たち765人を、大正9年(1920)と、大正11年(1922)の2回にわたって日本が救出したことです。
なぜ、シベリアにポーランド人がいたのか不思議に思われる方も多いでしょう。実は、領土分割で国家を喪失して以来、ロシア領となった地域で独立のために 立ち上がった志士たちやその家族が、シベリアに流刑にされていたのです。第一次世界大戦までにその数は5万人余りに上ったといわれます。さらに第一次世界 大戦ではポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、両軍に追い立てられて流民となった人々がシベリアに流れ込んでいきました。そのためシベリアに いるポーランド人の数は15万人から20万人にまで膨れあがっていたのです。
そこに起きたのがロシア革命、さらにその後の内戦でした。この戦火の中で、シベリアのポーランド人たちは、凄惨な生き地獄に追い込まれます。食料も医薬 品もない中で、多くの人々がシベリアの荒野を彷徨い、餓死、病死、凍死に見舞われていきました。食べ物を先に子供たちに食べさせていた母親が遂に力尽き、 その胸にすがって涙を流しながら死にゆく子供たち…。そんな光景があちらこちらで見られたといいます。
せめて親を失った孤児だけでも救わねば――1919年には、あまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立します。
当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました。ポーランド救済委員会は、まずアメリカをはじめ欧米諸国に 働きかけ、ポーランド孤児たちの窮状を救ってくれるよう懇願しますが、その試みはことごとく失敗してしまいます。最後の頼みの綱として彼らがすがったのが 日本でした。
当時の日本政府は救出要請の訴えを聞き、わずか17日後には救いの手を差し伸べる決断を下しました。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、これは驚くべき即断といえます。日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねたのでしょう。
救済活動の中心を担ったのは日本赤十字社でした。シベリア出兵中の日本陸軍の支援も受けて、早くも大正9年7月下旬には孤児たちの第一陣が敦賀経由で東 京に到着します。それから翌年にかけての第1回救済事業では、375人の児童が東京へ運ばれ、大正11年の第2回救済事業では、390名の孤児たちが大阪 に運ばれています。
シベリアで死の淵を彷徨ってきた孤児たちは栄養失調で身体も弱り、腸チフスなどの病気が猛威を振るうこともありました。大正10年7月11日には、孤児 たちを必死に看護していた看護婦の松沢フミさんが腸チフスに感染して殉職しています(享年23)。孤児たちも彼女の死を悼み、涙に暮れたといいます。
そんな不憫な孤児たちに同情し、日本では朝野を挙げて温かく迎え、世話をしました。東京でも大阪でも慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、慰安会も何度も行なわれました。
このような献身的な看護や、温かいもてなしの甲斐あって、来日当初は飢えて体力も衰えていた孤児たちは、みるみるうちに元気を取り戻し、全員が無事、ポーランドに帰国していきました。
横浜港や神戸港から出航する時、幼い孤児たちは親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどでした。苦難 に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちにとって、これほどまでに温かく親切にされたのは、物心ついてから初めてということも多かったのでしょう。彼 らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発し、「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わします。帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たち も、涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けたのでした。
「ああ、私たちは日本の領土に戻ったんだ」
私がこの話を知ったのは、ポーランド大使としてワルシャワに住むようになってからのことです。ポーランド在住の松本照男さんにこの話をうかがったことが きっかけでした。松本さんはこの件をワルシャワ大学のタイス博士と共に調査され、元孤児の方々とも交流されていたのです。私は、元孤児の方々を、ぜひ大使 公邸にお招きしたいと考えました。そう松本さんに相談すると、松本さんは連絡役をご快諾くださいました。
平成7年(1995)10月、8名の元孤児の方々が公邸にいらっしゃいました。その当時でも皆さん80歳以上のご高齢です。家族の付き添いでようやくお越しになれたご婦人もいらっしゃいました。
彼らを迎えて、私はこのような挨拶をしました。
「ようこそお越しくださいました。国際法という法律では、日本大使館と大使公邸は小さな日本の領土とも考えてよい場所です。ここに皆さんをお迎えできたことを、本当に嬉しく思います」
すると、皆さん「ああ、私たちは日本の領土に戻ったんだ」と本当に感激されて、その場所に跪いて泣き崩れられたのです。そして、やっとのことで公邸にいらっしゃったご婦人が、こうおっしゃいました。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼をいいたかった。しかし、もうそれは叶えられません。ですか ら大使から公邸にお招きいただいたと聞いた時、這ってでもうかがいたいと思いました。しかも、この地が小さな日本の領土だと聞きました。今日、日本の方 に、この場所で私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう死んでも思い残すことはありません」
実は孤児の皆さんは、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前のポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行なう と共に、日本に行くための資金を積み立ててもいらっしゃいました。しかし世界大戦の戦乱と、東西冷戦が彼らの夢を断ち切ってしまったのです。
皆さんの長年の想いが真っ直ぐに伝わってきて、私も涙があふれるのをこらえることができませんでした。今でも思い出すだけで涙が出てきます。
その後、元孤児の方々にささやかな日本食を楽しんでいただき、楽しい時間を過ごしましたが、皆さん驚くほど鮮明に日本の印象を覚えていらっしゃいました。
真夏に汽車に乗ると、大人の男性が車内に入るやすぐにズボンを脱ぎだしてステテコ姿やふんどし姿になったことに驚いたこと。生まれて初めて動物園に連れ て行ってもらって、嬉しかったこと。男の子がたらいで行水しているのを覗き見したこと。支給された浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって大喜 びしたこと。帰国のために日本から乗船した船で、日本人船長が毎晩巡回して、毛布を首まで掛けてくれたこと。お腹いっぱいに食事を食べることができた感 激。多くの日本人から、親のような温かな思いやりを受けた喜び…。
元孤児の皆さんは身振り手振りを交えてエピソードを語り、爆笑の渦が巻き起こることもしばしば。彼らが初めて眼にした日本という異国の風俗への驚き、そ して嬉しかった思い出が、生き生きと甦りました。同時に、当時の日本人たちの優しい眼差しや姿も、眼前に立ち現われるような感慨にとらわれました。
「善き心」が響きあって
「一生大事に持ち続けてきた宝物を、今日は大使に差し上げたいのです」
そういって、1人のご婦人が分厚い封筒を取り出されました。それは、当時の日本の庶民生活のスナップや京都や奈良など名所旧跡を写した風景写真コレクションでした。彼女はそれを戦争の最中も、ひと時も肌身離さず持っていたのだといいます。
「宝物なら、私も持っています」。あるご婦人は、見知らぬ日本人から貰った扇子を、またあるご婦人は、離日時に日本人から贈られた布地の帽子を大事に持参してくださっていました。
「私は、このおかげで長生きできたのですよ」。そういって見せてくださったのは、大阪カトリック司教団から孤児たちに贈られた聖母マリア像のカードでした。長い年月を掛て紙はポロポロになっていましたが、裏面には日本語の祈祷文が、かろうじて消えずに残っていました。
人間の心に響くものは、人の心と心との触れ合いであり、そして、そこから生まれる感動です。シベリアから救出されたポーランドの孤児の方々と、彼らを助けた数十年前の日本人たちとの心の触れ合いから生まれた感動が、私の胸に響いてやみませんでした。
平成7年と8年には、ポーランド側が阪神淡路大震災の被災児童を招待してくださいました。その時にも、4名の元孤児の皆さんがお越しくださり、被災児童たちと対面して温かな言葉をかけてくださいました。
兄弟で日本に助けられたある方は、その弟さんを2日前に亡くしたばかりでした。しかし、「私と弟がかつて日本人からもらった温かな心を、今、被災して悲 しんでいる日本の子供たちに伝えたい」と駆けつけてくださり、そして噛んで含めるように、ご自分が体験された日本人からの親切や好意を、日本の児童たちに 語ってくれました。
最後に、元孤児の皆さんから被災児童にバラの花が1輪ずつ手渡され、集まった人々から万雷の拍手が沸き起こりました。その時、元孤児の皆さんの目には涙が光っていました。彼らはこのようにして、75年前の日本人の善意を、日本の子供たちに返してくださったのです。
元孤児の方々は、残念ながら皆さんお亡くなりになりました。思えば、現在、ポーランドにおいて日本に好意を抱く方々が多いのも、シベリアからの孤児救出 に恩義を感じてくださり、さらに元孤児の皆さんが戦前に「極東青年会」で、日本の素晴らしさを紹介してくださったおかげでもあります。大きな役割を果たさ れた皆さんに、ただただ心からの感謝を捧げたいと思います。
そして、彼らの温かな心に触れた1人として、私はぜひとも、日本人とポーランド人が育んできたこの素晴らしい物語を、多くの日本の皆さんにお伝えした い。戦前の日本といえば、悪いイメージしか持たない人もいらっしゃるかもしれません。しかし、それではあまりに一面的です。われわれ日本人の素晴らしい面 を十分に発揮した事例があり、ポーランドの方々も、その恩義を大切にしてくださっている。遠く離れた日本とポーランドの間で、「善き心」が今現在に至るま で響きあっていることを、ぜひ知っていただきたいと思うのです。
兵頭長雄 (ひょうどうながお) 元ポーランド大使
昭和11年(1936)生まれ。昭和36年、東京大学法学部卒業と同時に外務省に入省。ソ連専門家としての道を歩み、モスクワ、ロンドン、マニラ、ワシン トン等で勤務。平成2年より欧亜局長、平成5年よりポーランド大使、平成9年よりベルギー大使を務める。著者に『善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心』 (文藝春秋)がある。