1798年、ナポレオンはエジプト遠征に出発した。政情不安定なパリを離れてエジプトを支配、凱旋すればクーデターの陰謀を封じられるという狙いもあった。当時のエジプトはオスマントルコの支配下、400隻の艦隊、38000人の兵士を伴った。そこには150人の学者も同行していた。数学者フーリエ、図形幾何学のガスパール・モンジュ、化学者のベルトレ、鉛筆の発明者ニコラ・コンテ、ドロミテ山脈の由来となった地質学者のドロミュー、画家で彫刻家のデュノンなどがいた。紀元前331年にエジプトを支配下に収めたのはアレキサンドロス大王、その古代エジプト遺跡を知るためにはヒエログラフ解読が必要だった。地質学、水理学、動植物の生態、宗教、農業、工業などを記録することが必要だった。軍事遠征とは無関係な仕事だったが、こうした文化的使命を帯びているという口実になった。この時見つかったのがロゼッタストーン、ギリシャ語、ヒエログラフ、そして未知の文字(デモティックと後に呼ばれる文字)で書かれていた。解読されるまで23年が必要だったが、解読したのは発見された時にはまだ10才だったシャンポリオンだったのだ。
シャンポリオンは1790年フランスで生まれた。兄は12歳年上のジャック・ジョセフ、兄には一生涯世話になることになる。シャンポリオンが生まれる前の年には革命が勃発、10年間はブルボン王朝はフランス王位を追われて国王ルイ16世などが処刑された時期であった。語学に才能を発揮したシャンポリオンは1809年にグルノーブルに設置された大学の教師に任命された。わずか18才であった。当時30才の兄ジャックもギリシャ文学教授に任命されていた。
1818年、ロジーヌ・ブランと結婚、ロゼッタストーンの非常に出来のよい写しを手に入れヒエログラフ研究にも力を入れた。ヒエログラフ研究のライバルは英国人のトーマス・ヤング、彼もロゼッタストーンの解読に務めていた。カルトゥーシュと呼ばれる王の名前を表す文字で記されたプトレマイオスの名前が3回現れ、短い記述法でも3回現れていた。ヤングもこうしたカルトゥーシュを解読していたのだ。1822年には入手したバンクスのオベリスクの碑文にクレオパトラの名前がヒエログラフで書かれていることを発見、ロゼッタストーンのプトレマイオスの名前と共通するp,o,lはアルファベットで書く場合と同じ位置にあることを確かめた。Tに対応する場所は異なり、2つの異なるヒエログラフがtの音を表すために使われていた。同音字と言われるヒエログラフの複雑さを示す用字例であった。しかし、シャンポリオンはこうして比較からエジプト人が外国人の名前を書く場合の規則を発見したのである。
古代エジプトの王はファラオとして知られている。これは大きな家を表す「ペルアア」から来ている。宮殿、大きな支配者の家、家系という意味がある。カルトゥーシュからファラオの名前を見付け出したシャンポリオンだが、カルトゥーシュとは薬莢を意味するフランス語cartouche、包むという語に由来し、太陽によって囲まれたすべてのものの支配者を意味した。カルトゥーシュの中にファラオの名前を書くのは、王を守ることも意味したのだ。
シャンポリオンはエジプト人の暦も発見した。エジプト人は昼夜を12時間ずつに分割、1日を24時間とした最初の人たちであった。1年はナイル川の増水期、穀物が芽生える時期、収穫期の3つに分割、それぞれは30日の4つの月に分けられ、月は10日間の3つの週に分けられた。1年は360日となるが、5人の神々の誕生日が加えられて1年を365日としていた。
シャンポリオンは1832年に心臓発作で亡くなった。ヒエログラフ研究で解読法を発見してから10年後であった。文法の基本からの解読であり、文字を1つずつ解いていくという途方も無い作業であったことがよく分かる。それにしてもロゼッタストーンは有名だが、シャンポリオンは日本では知られていない。英国人のライバルであったヤングがシャンポリオンの業績を貶す内容の論文などを出版、イギリスはシャンポリオンの業績よりもヤングの解読業績を歴史書に残しているという。
ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
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