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意思による楽観のための読書日記

日中戦後外交秘史 加藤徹、林振江 ****

第二次世界大戦では日本と中国が戦争して、その戦争が終わった後も、中国では国民党政府と共産党勢力が戦い、1949年に中華人民共和国が誕生。国民党政権は台湾に逃げ込んで中華民国を樹立。日本では、中華民国を正式な中国政権として国交を結んでいたが、新中国は未承認。中華人民共和国が誕生することで、日本でも左翼・共産党勢力は勢いづく。一方、アメリカや日本政府、国内保守勢力は中共(中国共産党政権の当時の呼称)の東アジアへの進出を警戒していた。戦後処理の中で、海外日本人残留者の帰還は大きな課題で、終戦直後は海外に662万人の日本人が残留、中国本土に150万人、満州に111万人、ソ連に162万人もいたという。その後のサンフランシスコ講和条約締結の1951年時点でもソ連に31万人、旧満州に6万人、それ以外の中国にも6万人ほどもまだ残っているとされる。本書は、そうした状況下で、新中国政権での衛生部長(厚生大臣に相当する閣僚)であり、赤十字会長でもあった李徳全にスポットライトを当て、彼女と中国側、日本側で骨を折って成し遂げた、中国残留邦人帰還事業のドキュメントである。

同じ戦敗国ドイツでも引揚者の数は千数百万人で、強制移住の旅の途中で210万人以上が命を落とした。日本での帰国事業は戦後一年で500万人の帰還を果たしたが、1950年に勃発した朝鮮戦争で状況は悪化、新中国誕生に伴い帰還事業は暗礁に乗り上げていた。当時の新中国の指導者は毛沢東、周恩来、廖承志。スターリンは新中国を属国扱いし、台湾対応よりも朝鮮戦争に注力するよう指示、毛沢東はソ連との関係に苦慮していた。新中国の実質的な外交担当者で実務者でもあった日本人のことをよく知る周恩来は、日本人に敵意を抱く多くの中国人民の気持ちを汲み取りながらも、新中国発展には日本との関係改善が重要だと考えた。日本生まれの廖承志は、1983年国家副主席になる直前病死することになるが、日本語堪能でもあり、当時は日本との関係改善のメイン担当者に任命された。

日本側は、首相が吉田茂、外務大臣は岡崎勝男、「対米従属外交」と非難されることもあったが、ドイツのような直接統治ではなく、GHQが日本政府を通した間接統治を進めることを強く申し入れたのは岡崎。敗戦から講和までGHQと衝突し交渉しながら間接統治に努め成功していた。日本も対米関係には苦慮していたのである。当時の日本が中国に要望したいのは残留日本人の帰国事業、中国にとっては、世界との外交窓口に日本を突破口として利用したいということ。帰還事業を担う赤十字は、日中両国にとって、またとない政治的中立性をもった組織であった。その組織の中国代表が李徳全、副代表に廖承志。日本代表が島津忠承、戦前は貴族院議員、薩摩島津家子孫で戦後すぐは公爵であり、dukeとprinceがあったが、世界の赤十字会議では、島津家の日本におけるステータスを考慮し英語ではprinceと紹介された。

李徳全は中国軍閥頭目の一人だった馮玉祥の妻、名望貴族出身で英語も堪能なキリスト教徒だった。馮玉祥は太平洋戦争後も国共内戦に反対し渡米、李徳全も夫とともに蒋介石政権打倒を世界に訴えた。馮玉祥は事故死したが、李徳全は新中国成立に貢献したということで衛生部長に就任した。

1950年当時の日中関係は、戦争中の敵対感情が継続する中で、朝鮮戦争勃発で更に悪化。日本側からすれば残留日本人を人質に取られたままでの帰還交渉を強いられた。島津は李徳全と世界で行われる赤十字会議で何度も会って日本人帰還のための折衝を続けた。1952年になり、ようやく中国側から日本人残留者帰国協力の通知がくる。実際に帰国事業が始まったのが1953年3月、4月5月と第三次まではスムーズに進んだが、帰りの船に中国への帰還を希望する在日華僑と遺骨の帰還要望が告げられた。それに反対したのは、当時の中華民国、在日華僑の中共への引き渡し阻止である。それでも第8次までの帰還船は運行され、2万6126人の帰還事業が実行された。残りは数千人、ここで中国側から再度突然の帰還事業打ち切りが通告された。

そこで中国側から打診されたのが李徳全の来日である。中国としては日本を西側への外交窓口、橋頭堡としたい。日本としては残りの残留日本人帰還を成し遂げたい。中華民国やアメリカへの配慮、国内保守派からの李徳全訪日反対、赤十字の政治利用阻止、親中派の積極的な動きなど、思惑は錯綜していた。帰還事業開始は交渉のための撒き餌であり、打ち切り宣言は、李徳全訪日への圧力だった。それでも島津は日本政府に粘り強く働きかけ、日本は赤十字が主体となること、訪日を政治利用しないことを条件に、李徳全訪日を受け入れた。李徳全訪日中、吉田首相は訪米、岡崎外相も外遊し、李徳全とは会わない姿勢を、対米、対中華民国に示すことで、外交的な対応をすることとした。

1950年にモナコで開かれた赤十字会議で初めて日赤島津と中国赤十字李徳全が接触して以来、引き上げ事業が9割進み、機は熟していた。中国は、李徳全が女性であることを活用、廖承志を副代表として表に出さない工夫をほど施す。通訳には当時北京大女子学生だった王効賢を登用した。中国側は、李徳全訪日を十二分に利用するため、非公表だった中国に留め置かれ裁きを待つ状態の日本人戦犯名簿を日本側に提示する準備を進めた。同時に、第8次、第9次帰国船が舞鶴に到着、その後の帰国船は滞りなく進められた。島津の努力は報われた。

1954年10月、李徳全を代表、廖承志を副代表とする中国赤十字訪日が実現。歓迎と同時に右翼や台湾勢力による妨害工作も起きるが、日本側は警察と左翼活動家がこのときばかりは呉越同舟、協力して警備を行ったという。訪日は大成功、2週間の滞在中、東京、名古屋、京都、大阪で日本人に大歓迎を受けた。訪日中発表された戦犯名簿には、生存者1066名、死亡者40名の姓名、本籍、住所が記入されていた。その後、中国側による戦犯裁判は行われたが、ほとんどが放免され日本に帰国した。戦犯名簿公表は、戦後に区切りをつける象徴的な儀式となり、その後のLT外交、高碕達之助と廖承志、さらには周恩来、田中角栄による日中国交正常化の前交渉へと繋がる橋渡しを果たしたことになった。吉田首相、岡崎外相との面談はなかったが、赤十字代表の訪日であり、赤十字の日本代表でもある昭和天皇の実弟三笠宮夫妻との面談にこぎつける。その他、衆参議長、その他自由党、改進党、社会党、共産党など政治家たちとの会議が設定され、赤十字代表であるにも関わらず、中国側としては意図した成果を大いに果たしたと言える。日本としても戦後の大きな課題だった残留日本人帰還事業を完遂できたことは一大成果であった。本書内容は以上。

日本側の政治家による対応は柔軟だった。中国側も、女性を全面に押し出してソフトな印象を与えながら、政治的な成果も上げるという器用さを発揮した。中国側はソフト外交に味をしめたのが、その後も京藝劇団、ピンポン外交、パンダ外交とソフト路線を進めることになる。一方、現代の日中関係は険悪である。1950年当時も険悪だったはずだが、未来志向の関係模索を行う、周恩来や廖承志、岡崎勝男や島津忠承など懐が深い政治家や組織人たちが努力した。現在の中国の記者会見を見ていると、強面を崩さず、教条的な主張を大声で繰り返すプレゼンが繰り返される。日本側も、建前論を主張して、お互いに譲歩するポイントを見いだせないまま一歩も前に進めない。アメリカ政府も同様、日韓、日朝も同様である。自分の政権として任期中に手柄を立てよう、などと小さいことを考えず、お互いに一度は相手の言い分を受け止めて、妥協点を柔軟に探す努力を継続できれば、なにかの突破口はあるはずだと思うのだが、どうだろう。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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