柳家三亀松の一生を描いた作品。筆者は生前の三亀松について関係する人たちに取材して、徹底的に調べ上げるプロセスで、三亀松のことを大好きになったと思う。しかし、筆致にはその感情を表に出さず、あえて抑えた表現が読者に与える感動が印象的な一冊。
私は三亀松のことは読む前には知らなかった。柳家三語楼の弟子になり、金語楼の弟弟子にあたる。都々逸や新内、さのさ、声色、ものまねなどを三味線片手に語るその姿を見て、女は惚れて、男はその小粋さに憧れたという。東京は深川、材木問屋で材木の仕分けをする川並の息子として明治34年に生まれた。ご近所の大人たちに深川っ子の小粋、男伊達、江戸っ子の心意気を教え込まれて育った。材木問屋で働く父に従い川並として働き始めるが、その声が良いことに気がついた人に進められ、新内、常磐津、都々逸、さのさ、などの芸を学んで、浅草でデビューする。器用で小粋なその芸風で一気に人気ものになった。
若い読者にもわかるように、江戸っ子の心意気やさのさ、常磐津などの芸についての蘊蓄がさり気なく解説される。
「江戸っ子は小を好み大を嫌う。小腹がすくと小粋な小料理屋に入り、小ぶりな刺し身をサクッと食べる。大仰な振る舞いや大時代な言い回しは大嫌い」。
「辰巳芸者 江戸城の東南、富岡八幡周辺の仲町、櫓下、裾継、土橋、新地、石場、佃町が岡場所として江戸中期以降は栄えた」。
「都々逸の由来 七々七五調の4句、26文字が基本。発祥は尾張熱田、ドドイツドイドイ、という囃子文句から、寛政年間には東に流れて、天保年間に全国に広まる」。
「新内、清元、常磐津など語りモノと呼ばれる江戸浄瑠璃の源は享保年間に始まる豊後節に淵源。吉宗の贅沢禁止令への反抗から歌舞音曲を奨励した徳川宗春統治下の尾張で始まり江戸に広がる」。
「歌いもの 長唄、小唄などは歌舞伎の所作のための音楽。端唄、都々逸は俗な歌曲とされ俗曲と呼ばれる」。
三亀松は典型的な江戸っ子、近所の辰巳芸者に好かれた。得意とした都々逸や新内などの語り物に加えて、歌舞伎の演目や都々逸などの歌いものも得意とした。
三亀松のエピソードは絵に書いたような遊び人の芸人であり、俺の芸は分かるやつに分かってもらえば良い、というのもので、三亀松に憧れたのが勝新太郎や立川談志だった、といえば少しは理解できる。三亀松は、出演する劇場のスタッフや同僚たちへの心付けを惜しまなかったので、誰もが三亀松のことを大切に扱った。徐々に有名になり、近所の上野警察や出張で利用する国鉄東京駅の職員にも心付けが行き渡っていたので、多少のはみ出し行為は大目に見られた。三亀松は投網に凝っていて、夜に急に思いついて不忍池で投網の練習をしたときにも、警官はさり気なく、「もっといい場所がありますよ」などと別の場所に案内してくれた。東京駅を出入りする際にも、職員相手の慰安会には顔をだすことを怠らないのですべての駅員が三亀松を知っており、いつも顔パスだった。多分こうしたエピソードは芸人業界では有名な話なんだろうと思う。真似をしようとした芸人たちは、ひどい目にあったに違いない。
一気に読み終わったあとの、ある意味での達成感は、三亀松の一生分の「見栄っ張り」と、それを貫き通したというなにかホッとしたような安心感からくるものではないかと思う。妻となった宝塚スターの高子さん、本当にご苦労さまと言いたい。