意思による楽観のための読書日記

古代国家はいつ成立したか 都出比呂志 ****

弥生時代から律令国家成立までの歴史を検証、どの時点で日本は国家として成立したのかを検証している。

弥生時代の時代区分に森岡秀人氏による区分を採用、次のように定義する。
弥生早期:BC1000年―BC800年
弥生前期:BC800年―BC400年
弥生中期:BC400年―BC50年
弥生後期:BC50年-AD180年
弥生終末期:AD180年―AD240年

弥生前期から中期の戦いを青銅器や祭器分布から読み解く。北部九州、瀬戸内、出雲、畿内、東海、関東という各地区の勢力があったことが分布から読み取れ、それぞれが政治的に独立していたという。その中で、出雲は北部九州と畿内の勢力に接近しキャスティングボードを握ろうとしていたと。鉄の供給ルートをめぐっても争いがあり、北部九州勢力は1世紀までは力を持っていたのが二世紀の倭国動乱をキッカケに畿内勢力が鉄の供給路を入手、鉄が全国的に広がると共に畿内勢力が力を得た。

弥生前期までは各地域で土地や水の分配でもめていたのが、弥生中期は各勢力が国としての政治制度整備が進み国同士の争いに拡大、弥生後期には西日本全体を巻き込んでの倭国動乱となった。そして卑弥呼が担ぎあげられて弥生終末期には卑弥呼の後を継いだ壱与が狗奴国を巻き込んで東日本まで波及した動乱になったという。

前方後円墳の発達の歴史を見ると円墳と方墳が変形して、辺の一部、円の一部が祭事のために一部が飛び出て変形、円の前に入り口ができて拡大変形し、前方後円墳、前方後方墳と発展してきたことが分かるという。

倭の五王は讃、珍、済、興、武であり、履中、反正、允恭、安康、雄略に相当する。朝鮮半島における倭の政治的覇権を中国王朝に認めさせるのが目的だったのだが、その大きな要因が鉄の資源確保だった。そしてその後の継体天皇時代にも朝鮮半島に進出、前方後方墳をも朝鮮半島にもたらしたという。倭の五王の最後の武時代には倭国内での大王の地位が強化されたことが、中国王朝への依頼事項で分かるという。雄略天皇は鉄だけではなく、馬具や武器、鎧などの高度な文化を積極的に輸入、中国と交渉して朝鮮南部地域の支配を認めさせた。国内では吉備勢力の抵抗を受けながら中央集権を進め国家体制を強化した時代だった。継体天皇の時代に磐井の乱が起きるが対外活動強化に伴う地方勢力への軍事負担強化への抵抗であった、という分析である。継体天皇自体がそれ以前の天皇家とは別の系統であることが地方からの中央勢力への抵抗のキッカケになったかもしれない。

これらの時代を分類すると倭国王に女王卑弥呼が立てられた3-4世紀には巨大古墳が建造され、北部九州から畿内、その後東北南部まで支配がおよんだ時代であった。5-6世紀は倭の五王の時代、国造や県主、部民制度が定められ、九州から東北中部までが支配地域となった。7-8世紀には大王から日本天皇へ移行した時期であり、太政官、二官八省が定められ、太宰府や鎮守府、防人や良民、の区別が生まれた。租庸調、雑徭などの税制が確立、58カ国3島(薩摩から陸奥国)までを支配地域とした。地域国家、初期国家、そして統一国家という発展の経緯、どの時点でそれを国家というか、これを筆者はその世紀にちなんで753論争と呼んでいる。

古墳や青銅器などの分布により歴史を検証するというのは非常に意義あることであり、説得力がある。魏志倭人伝による記述と憶測だけではない分析に興味を持てる内容である。さらなる発掘物で新たな解釈も生まれるという話し、今後も楽しみである。
古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

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