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意思による楽観のための読書日記

神社が語る古代12氏族の正体 関裕二 ***

古代史の謎といえば、邪馬台国の場所、蘇我氏と聖徳太子の活躍、中臣鎌足の出身、神道と仏教の関わりなど。本書は、神社に祀られた神とそれを祀った氏族に焦点を当てて、古代史の謎に筆者の推測を加えていく、という一冊。学者ではない作家なので何を主張しようとも自由、読者の方もこれは読み物、と捉えれば古代史エンターテイメントであり、楽しく読める。

神道といえば伊勢神宮や出雲大社、神社に関わる新嘗祭や大嘗祭、収穫への祈りと感謝の祭祀などと思いつくが、西暦237年頃の魏志倭人伝に描かれた倭国の様子にはそのような神道の気配は薄い。そもそも数ある神社の創建は7世紀初頭を遡るものは殆どなく、それ以前は古墳時代で、前方後円墳も方墳も神社の登場とほぼ同時期に入れ替わるようになくなる。その古墳の始まりが3世紀初頭の纏向古墳で、そこには日本列島から集まってきた埋葬物が埋められていた。列島全体を視野に入れた政権の誕生を思わせる。

3世紀初頭とは魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の時代であり、それまで多数の集団に分かれて離合集散していた地域集団が、纒向遺跡付近にできた新政権のもと、緩やかな連合体を形成した、とも考えられる。つまり邪馬台国時代のアニミズム的宗教観→古墳時代の王や首長の埋葬→米の収穫を祈り祝う神道へと変遷してきた。政治体制も、邪馬台国はヒメを兄弟のヒコが支えるヒメヒコ制が、ヤマト政権では各氏族の連合体によるヤマト連合政権となり、乙巳の変を境に天武と持統天皇による中央集権的国家へと移っていった。

隋書の倭国伝によれば、最初に大陸に送られたとされる遣隋使では使者の説明するヒメヒコ制政治を聞いた隋の文帝が、驚いてその体制の愚かさと、国家と政権が備えるべき体制、歴史観、行政の仕組みなどを教えたという。帰ってきた使者の話を聞いた推古王や蘇我馬子は、自国の遅れを痛感したことだろう。大陸から裴世清を呼ぶことに成功したヤマト政権。暦本、天文、地理、医薬、占術、計算、記録法、灌漑、田園開拓などの技術を大陸と半島から取り入れた。葛野と呼ばれた京都市北部に定着したとされる秦氏は、灌漑、酒造、測量、田畑開拓、仏教など各種技術や思想を新羅経由でもたらした大陸勢力だったが、ヤマト政権は秦氏とも友好関係を築いた。

推古朝時代の聖徳太子によるとされる各種改革、その後の遣隋使、遣唐使、飛鳥法興寺や斑鳩の法隆寺など蘇我氏主導による寺院の建立、屯倉制度の導入、などを進めた。これらは古墳が神社に置き換わる時期と見事に一致する。しかし蘇我氏一族の専横は王家をないがしろにしているとした、中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変により、一気に律令制度の確立導入へと進んだ、と書紀には記された。実際には律令制度の導入の前半は蘇我氏により成し遂げられ、後半を担ったのが藤原不比等と持統天皇だった。

古代の列島各地方勢力には、日本海側にはイズモ、丹後半島から若狭湾付近のタニハ、北陸のコシ、琵琶湖周辺のアフミ、尾張三河地方のオハリ、岡山地方のキビ、九州にはハヤト、そして奈良盆地のヤマトがあった。出雲大社と熱田神宮は勢力者と居住地が一致するが、伊勢神宮だけは離れているのが不思議。本書によれば伊勢神宮の祭神はヤマトタケルだった、と推測する。ヤマト政権による東国支配を擬人化し神話化したエピソードをヤマトタケルに託したのが書紀の神話。その際、ヤマト政権に協力してくれたのがタニハとアフミ、オハリの連合であり、それを祀ったのが伊勢神宮だったと。だから天武天皇は娘の大来皇女を斎王として伊勢に遣わした。

各豪族が支配していた耕作地の各種権利を国家が握り、課税と役割分担により中央集権的国家への移行を成し遂げるためには、かなり強力な武力と漢字や算術などを背景とした行政手法、宗教的支配などによるメンタル面でのコントロールが必要だったはず。古墳に代わる神社と仏教の役割は大きかったのだろうと推測できる。そもそも宗教的習慣の変更はどんな種族にとっても大きな抵抗感を生んだはずである。アニミズム的な多神教の宗教観を持っていた列島に長く住んでいた縄文人たちが、稲作文化による新文明に一番抵抗したのは、祭祀への抵抗ではなかったか。

紀元前800年ころに北部九州板付遺跡に残る稲作が大阪では紀元前600年、中部に紀元前400年、関東では紀元前200-300年と長い時間がかかったのには、祭祀への抵抗感が壁となっていた。ここに古墳の広がりと首長霊祭祀の広がりを重ねて見ると、縄文人と弥生人に共通する祖先や自然への崇敬の気持ちを古墳や集団墓に込める祭祀が稲作とともに徐々に列島に広がる様子が理解できる。仏教はそこに理論的根拠を与えてくれた。奈良時代以降の神仏混淆もこうした流れの中に位置づければ納得できる。その神祇的部分を司る役割が中臣氏により担われた。中臣鎌足は百済の豊璋王だったとすれば、その後の中大兄皇子による百済救済、白村江の戦い以降の藤原氏による新羅忌避などの説明もつく。こうした古代史における仮説を、列島に散在する神社とそれを支える氏族、祀られた神などから推測していく、それが本書。自国の遅れを痛感した推古、蘇我馬子から100年経過してようやく形をなしたのが大宝律令であり古事記、日本書紀。それからさらに50年経過して盧遮那仏が完成した。

出雲大社ー出雲国造家
石上神宮、磐船神社ー物部氏
蘇我坐蘇我津比子神社ー蘇我氏
大神神社ー三輪氏
熱田神宮ー尾張氏
大和神社ー倭氏
春日大社ー藤原氏
伊勢神宮ー天皇家
伴林氏神社、降旗神社ー大伴氏
敢國神社ー阿部氏
伏見稲荷大社ー秦氏
本書内容は以上。

日本書紀による歴史改竄を一番牛耳っていたのは、藤原一族に最も都合よく書きたかった藤原不比等だったという。天武亡き後の持統天皇をうまく操ったということか。ここにもヒメヒコ制が見え隠れする。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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