平安京以前に時を遡れば、壬申の乱で天武の系統が天皇になってから初めての天智天皇系が光仁天皇で、その次の桓武天皇は、天武系が作った奈良の都を否定したかったが、仏門と公家の反対が強かった。そのため、当時奈良の副都であった難波宮を長岡に移転することを装っていたが、桓武天皇の腹心藤原種継が暗殺され、事件に連座させられた早良親王の怨霊を恐れて洪水に見舞われた長岡京を放棄してそのまま平安京造営に移行した。京都には空襲がなかったので多くの古い建物が残る千年の都、というのは実は少し違う。12世紀には二年続いた太郎・次郎焼亡で、大内裏を含む殆どの市内町家が焼け、大内裏が消失したのは3度目、大極殿はそれ以降再建されなかった。鹿ヶ谷事件や以仁王の挙兵などがそれに続く出来事。その後も室町以前の多くの建物は応仁の乱で灰燼に帰し、天明の大火、大地震、廃仏毀釈などで、平安時代の建物は何も残っていない。郊外まで見ても、952年建立の醍醐寺五重塔が最古で、1143年建立の大原三千院の往生極楽院、太秦広隆寺の講堂が1165年。
造営時の大内裏は今のJR嵯峨野線が北行から西行に曲がるあたりで、今は二条城が建っていて、大内裏を南北に貫いていた3つの通りの一つ美福通が今の二条城の西の端となる。平安京朱雀通りは今の千本通りあたりとなる。大内裏の北端が今の京福北野線あたりで、神泉苑が二条と大宮通りから壬生通りのあたりに造営され、平安京の南端は東寺と西寺、そして羅城門があった。西の端が西京極、現在の河原町通は文字通り鴨川の河原であり、東京極大路と鴨川の間の位置、角倉了以による高瀬川開鑿以降、秀吉の御土居を崩して、多くの店舗や芝居小屋が移転してきたのは江戸時代。南座は今でも残る芝居小屋の名残である。
疫病退散の祭りとして始まったとされる祇園祭は、疱瘡だけではなく、不潔だった糞尿処理の結果としての感染症、咳病を収めるために祇園社に幣帛と走馬を納めたことから始まった。八坂郷の鎮守様だった祇園社は御霊信仰のシンボルとなり、祇園御霊会は神輿が市内を巡行する行事として、疫病が広がる梅雨時に行われた。山鉾による巡行が始まるのは、南北朝以降のこと。
平安京にあった寺は、寺家からの影響を排したかった桓武の意思により東寺、西寺のみであったとされるが、物理的建物の移転費用がかさむため、法会には僧侶を京に呼び寄せ、王権護持と仏教興隆を同時に図ろうとして王都と仏都を分離した、という説もある。当時の平安京郊外には賀茂別雷社(上賀茂神社)と賀茂祖社(下賀茂神社)があり、普段は伊勢神宮にまします斎王をお迎えし賀茂祭を主催した。男山には宇佐から勧進した八幡八幡宮、洛西には大覚寺、双ヶ岡には仁和寺、叡山に延暦寺、東山に清水寺があった。9世紀に創建されたのが醍醐寺、摂関時代になると今の鴨沂高校あたりに法成寺、宇治に平等院が建てられた。
院政期になると、白河に六勝寺、洛南に鳥羽殿、東山南部に法住寺、清盛の時代に六波羅、と都区域が南北東へと広がっていく。平安以前は山岳信仰の拠点だったのが高雄寺と呼ばれた神護寺。神護寺にある高校時代には「頼朝像」と教わった武者は足利尊氏と足利直義、そして尊氏の息子、義詮だというのが現代の説。隣の高山寺は明恵により再興され現在の高山寺となり、鳥獣戯画が有名。明恵は栄西により日本にもたらされた茶をこの地に育て、その後宇治に茶種をもたらし、育成方法を伝授したため宇治茶が広がったといわれる。鎌倉仏教の浄土宗祖法然により営まれた知恩講の名がついた知恩院、禅宗の臨済宗が広まるものこの時期で、建仁寺、東福寺もこの時期。
中世社会が生み出したものの一つに被差別民がいた。当時、家を失うことは生活の場を失うだけではなく、経済基盤をなくすることにつながった。配偶者を失った寡(ヤモメ)、孤児、疾病者、障がい者などは諸国から都に集まってきた。そこには、葬送と死体処理を行う仕事があり、蓮台野、化野、清水坂、鴨川河原などが仕事場となった。牛馬の処理も行われるそうした場所は京につながる街道の出入り口の外側に位置し、非人、河原者と呼ばれ差別された。その中にもさらに階級があり、トップが長吏、長吏の下座、乞食、障がい者、最下層に病人、特にハンセン病や皮膚病の患者がいた。こうした非人の管理を行うのが検非違使で、室町時代には侍所へと移行。人々がケガレと忌み嫌う都市の汚穢物の処理や路地清掃、行刑執行に従事した。神社に従属していたこうした作業員は神人と区別するため犬神人と呼ばれた。時代が下ると、こうした作業員の中から土木に秀でた技術を持つ作庭師も現れ、呪術的な職能や芸能的舞踏などに異能を発揮する陰陽師や声聞師も現れる。
嵯峨は王朝貴族遊覧の地、後嵯峨上皇は亀山殿を建造、大覚寺にその後の上皇たちも居を構えた。後醍醐天皇の菩提を弔うために造営されたのが天龍寺で、亀山殿跡地だった。現在の建物は全部焼失したのちに再建されたものだが、夢窓疎石による池泉回遊式庭園に当時がしのばれる。義満が居宅としたのが今の烏丸今出川あたりに造営された室町殿、その東隣には烏丸通をはさんで壮大な相国寺が建立された。義満がランク付けたのは禅宗の寺で、別格に南禅寺、その下に天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となり、臨済宗の本流を占めていた。
都市人口増加にともない、酒造業が兼務する金融業が栄え、質を預かり金を貸す土倉と呼ばれた。その数、鎌倉末期で335軒。このころには洛外の農業が進歩し二毛作化が進行、人糞による肥料化で収穫量が増加、市内の厠の汲み取り式が増え、糞尿が郊外農家により引き取られる形態が生まれた。味の良い京野菜はこのころから生まれたという。
鎌倉時代から室町、そして江戸時代に移り、行政の中心地は鎌倉、京、そして江戸に移ったが、それぞれの権力者にとって忘れてはならないのは、鎌倉時代の京、室町時代の関東、そして江戸時代の京大坂、西日本であり、自らがいない東西の管理である。江戸時代初期に京には所司代がおかれ、朝廷、公家、寺社支配、京都市中、五畿内、丹波、近江、播磨八か国の訴訟、裁判、警察が任された。
鴨の河原には芝居小屋が立ち並び、床涼みが始められたのもこのころ。町並みは二階建て、ウダツ、本瓦葺き、漆喰壁が増えたが、江戸時代後期には、税対策として質素化が図られた。桂の別業は江戸時代初期に八条智仁親王の別荘として造営され、明治維新後、桂離宮と呼ばれた。寛永年間に家光は王朝美再建の一環として、荒廃した上下賀茂神社、石清水八幡宮、延暦寺根本中堂、東寺五重塔、院御所の造営などを行った。江戸時代初期の失火で焼けた西本願寺、知恩院も再建された。御所改築、聚楽第や伏見城解体により既設建物である仁和寺、南禅寺方丈、大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣などの再建されている。1708年宝永大火、1788年天明大火では市内の多くが焼けたが、内裏、二条城も焼け落ち、寛政の改革を担っていた松平定信は財政難の中、紫宸殿、清涼殿再建を行っている。
幕末戦乱、廃仏毀釈運動、東京遷都などで痛手を被った京都だったが、明治14年には小学校が全国に先駆け創設され、西陣織、清水焼、友禅染などの地域組織が再編成され、京都博覧会が開催された。明治35年ころからは、疎水開鑿、水車発電、市電開通、それに続いて道路拡幅、電鉄敷設、上下水道整備、第二疎水建設などが進められた。本書内容は以上。
千年の歴史は浮き沈み、繁栄と衰退の繰り返しの歴史でもあった。